2022年7月22日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書11まとめ

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天孫本紀』は「十三世孫尾綱根命此命譽田天皇御世爲大臣供奉妹尾綱真若刀婢命此命嫁五百城入彦命生品色真若王次妹金田屋野姫命此命嫁甥品色真若王生三女王則高城入姫命次仲姫命次弟姫命此三命譽田天皇並爲后妃誕生十三皇子姉髙城入姫命立爲皇妃誕生三男皇子額田部大中彦皇子次大山守皇子次去來真稚命子妹仲姫命立爲皇后誕生二男一女皇子荒田皇女次大萑天皇次根鳥皇子妹弟姫命立爲皇妃誕生五女皇子阿倍皇女次淡路三原皇女次菟野皇女次大原皇女次滋原皇女品太天皇御世賜尾治連姓爲大江大連勑尻納連日汝自腹所産十三男子等汝戀養日足奉耶時連爲大歡喜之巳子誰彦連外妹毛良姫二人定壬生部于今奉久三口此連名請連名談二人以字辰枝中今案此民部三孫今在伊(?)國云云十四世孫尾治弟彦連次尾治針名根連次意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣供奉」、「十世孫淡夜別命大海部直等祖弟彦命之子次大原足屋筑紫豊國國造等祖置津與曽命之子次大八椅命甲斐國造等祖彦與呂命之子次大縫命次小縫命十一世孫手止與命此命尾張大印岐女子真敷刀俾生一男十二世孫建稲種命此命迩波縣君祖大荒田女子玉姫爲妻生二男四女」、とあり、系図なので訳は省略した。

師木水垣宮朝廷は坐王→沙本毘古→丹波比古多多須美知能宇斯(→印色入日子→十市根)と水之穗眞若・豐木入日子と屋主忍男武雄心との三朝廷に分裂し、十市根は纒向珠城宮で膽咋宿禰→五十琴宿祢と続き、 水之穗眞若・豐木入日子は師木玉垣宮で→意富多牟和氣・曙立→五百木之入日子→品陀真若王→尾綱根と続き、志賀高穴穗宮は屋主忍男武雄心・八坂入日子・大入來→意富多牟和氣→大陀牟夜別→息長宿祢→多遅麻→山無媛と継ったと思われる。

景行天皇五八年の高穴穗宮遷都は意富多牟和氣が彦狭嶋の死で皇太子になった五百木之入日子のクーデタで皇位を奪われた事件だったと考えられ、尾張氏は坐王が倭得玉彦、 沙本毘古が大伊賀姫の子の彦與曽、 丹波比古多多須美知能宇斯が弟彦で、水之穗眞若・豐木入日子が「大海部直等祖弟彦命之子」の淡夜別と思われる。

更に、息長宿祢が建稲種、意富多牟和氣は穴穂に遷って、穴太足尼、足尼は王なので志賀高穴穂天皇と良く合致し、乎止与の妃が「尾張大印岐女子真敷刀俾」と、意富多牟和氣の義父の大入來とよく似て合致しそうで、建稲種の娘の尾綱真若刀婢は息長帯姫と思われ、その父の息長宿祢王の妃は「迩波縣君祖大荒田女子玉姫」で、息長宿祢王は襲名した忍山垂根と考えられ、忍山宿祢の娘の弟媛が尾張國丹羽建部君の祖の武田王を生んでいるので、迩波縣君の祖と良く合致する。

師木朝廷は「意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣」と難波朝で退位して、難波に首都がある時、天皇の称号根子を持つ和珥臣祖難波根子武振熊が存在し、武振熊が天皇となって、その後、去來穗別達に奪取され、淡海朝廷は「印葉連公為大臣」とあるように、多遅麻から山無媛→雌鳥皇女→近江山君稚守山・磐坂媛と受け継がれたが、佐伯直阿俄能胡と平群氏によって滅ぼされたと考えられる。

そして、首都の宮は前97年師木水垣で坐王が即位し、前38年に屋主忍男武雄心が淡海で朝廷を開き、前29年弟彦の纒向珠城宮と豐木入日子の師木玉垣宮に分裂し、71年に十市根が纒向珠城宮、128年意富多牟和氣が師木玉垣宮を出、131年大陀牟夜別が志賀高穴穗宮を引継ぎ、128年五百木之入日子が師木玉垣宮で即位し、雄略天皇の時代に『古事記』「堅魚作舎者誰家荅白志幾之大縣主家尓」と五百木之入日子を継いだ大倭王が住んでいた。

活目と豐城の御諸山での夢見による後継争いは倭国の立太子の日付の説話で、この事件は前33年崇神65年から前29年垂仁元年まで続いた弟彦と豐木入日子の戦乱だったと思われ、纏向の滅亡は神功十三年213年に神功元年生まれの13歳の太子が太子に就く宴会があったと記述された。

この太子は応神天皇ではなく、磐余稚櫻宮の皇太子と思われ、纏向朝廷はこの時までは継続し、磐余稚櫻宮で皇太弟だった五十琴宿祢が即位したと思われ、記事はこれ以降朝鮮記事である。

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