2022年7月15日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書8

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「自其國越科野國乃言向科野之坂神而還來尾張國入坐先日所期美夜受比賣之許於是獻大御食之時其美夜受比賣捧大御酒盞以獻尓美夜受比賣其於意須比之襴著月經故見其月經御歌曰比佐迦多能阿米能迦具夜麻斗迦麻迩佐和多流久毗比波煩曽多和夜賀比那袁麻迦牟登波阿禮波須禮杼佐泥牟登波阿禮波意母閇杼那賀祁勢流意須比能須蘇尓都紀多知迩祁理尓美夜受比賣荅御歌曰多迦比流迦比能美古夜須美斯志和賀意富岐美阿良多麻能登斯賀岐布禮婆阿良多麻能都紀波岐閇由久宇倍那宇倍那宇倍那岐美麻知賀多尓和賀祁勢流意須比能須比能須蘇尓都紀多多那牟余故尓御合而以其御刀之草那藝劔置其美夜受比賣之許而取伊服岐能之神幸行於是詔茲山神者從()手直取而騰其山之時白猪逢于山邊其大如牛尓爲言舉而詔是化白猪者其神之使者雖今不殺還時將殺而騰坐於是零大氷雨打或()倭建命(此化白猪者非其神之使者當其神之正身因言舉見成())故還下坐之到玉倉部之清泉以息坐之時御心稍寤故号其清泉謂寤居清泉也自其處發到當藝野上之時詔者吾心恒念自虚翔行然今吾足不得歩成當藝斯形故号其地謂當藝也自其地差少幸行固()甚疲衝御杖稍歩故号其地謂杖衝坂也到坐尾津前一松之許先御食()時所忘其地御刀不失猶有尓御歌曰袁波理迩多陀迩牟迦弊流袁都能佐岐那流比登都麻都阿勢袁比登都麻都比登迩阿理勢婆多知波氣麻斯袁岐奴岐勢麻斯袁比登都麻都阿勢袁自其地幸到三重材()之時亦詔之吾足如三重勾而甚疲故号其地謂三重」、【その國から科野國を越えて、科野の坂の神を屈服させ、尾張國に還り、先の日に約束した美夜受比賣の許に入った。そこでご馳走を献上した時、美夜受比賣が、大酒盞を捧げて献上した。そこで美夜受比賣の裾に、経血が著いていた。それで、経血を見て歌()った。そこで、美夜受比賣が、歌に答へて歌()った。それで、召して、草那藝剱を、美夜受比賣の許に置いて、伊吹山の神を打ち取りに行った。「この山の神は、素手で直接取り押さえよう。」と言って、山に登った時、白猪と山の邊で逢った。その大きさは牛の様だった。そこで、「この白猪に化けたのは、神の使者だ。今殺さなくても、還る時に殺そう。」と声に出して言って、山を登った。それで大氷雨を零らして、倭建を惑わした。この白猪に化けたのは、神の使者でなくて、その神そのもので、言葉を聞いて惑わせた。それで、還り下って、玉倉部の清泉について休息して、煩わしさが覚めた。それで、その清泉を、居寤の清泉と言う。そこを経て、當藝野に着いた時、「私は、いつも空を翔けていきたいと思っている。今私の足が動かず歩けなくて、足もとがおぼつかない。」と言った。それで、そこを當藝という。そこから少し行くと、とても疲れて、杖を衝いて少しずつ歩いたので、そこを杖衝坂という。尾津の前の一つ松の許に着いた時、先に食事をした時に、そこに忘れた刀が、無くならずに有った。そこで歌()った。そこから、三重村に着いた時、亦、「私の足は三重の曲がりのようにとても疲れた。」と言った。それで、そこを三重と言う。】と訳した。

ここでの道のりは伊賀(瀧樹)・守山(小津)・菰野(三重郡)と野洲の西南部の地名説話及び息長氏の地元の坂田郡東部の伊吹山・醒ヶ井の地名説話と考えられ、倭建説話が、各地の王の事績を入れ込んだ説話、この複数の王の事績を、ある王に差し込んだ説話集が日本の史書だと言う事が理解できたと思う。

250年頃の壹與の説話、前40年頃の出雲振根の説話、120年頃の皇太子倭建・彦狭島の説話などを、人物も時代も違う、4代も前、100年も前の初代倭建の親や妃すら変更してまとめ、この方法が日本の古代史書の編集方法である。

倭建の妃は、河内王の倭建なら橘姫、山背弟国王の倭建なら弟橘姫と名前すら変更し、そのため、史実を検証する時は、間違いの朔の日付記事は他王の説話、地名が有る場合はその土地の王の事績をまず考えることが必要で、日本では、『日本書紀』を絶対視して中国史書が間違いとしてきたが、天文学的朔の日干支検証で、中国史書が正しく、『日本書紀』は今述べた通り、内容は正しくても、人名や時代が異なる事を頭に入れて、検証しなければならない。

従って、この野洲近辺の説話は息長氏が野洲王の時の天之御影神の説話で、猪を神と祀る人々の神話、すなわち、野洲に記録が無い時代の説話だと理解するべきで、神話はご当地の民謡で、それが、史書によって全国に広まったのである。

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