『三国志』「東夷傳 倭人」には「倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對馬國・・・所居絶㠀方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國・・・方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴又渡一海千餘里至末廬國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之東南陸行五百里到伊都國・・・有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐東南至奴國百里・・・有二萬餘戸東行至不彌國百里・・・有千餘家南至投馬國水行二十曰・・・可五萬餘戸南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月・・・可七萬餘戸・・・正始・・・其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗邪國男王卑彌弓呼素不和・・・卑彌呼以死・・・立男王國中不服・・・復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定」とある。
日本の古代史は「『史書はフィクション』なので信用しない」ことが原点で、史書を間違いと決めつけ、都合が良い所は信じるというスタンスで、人によって東・否南など信頼出来たり出来なかったと、真逆の論理がまかり通り、空論合戦で、将来、国を挙げての喜劇だったと笑われるだろう。
「邪馬台国」論争は史書を信用しないのなら空想の邪馬台国、存在しないかもしれない邪馬台国の首都を存在すると思い込んで都合のよい読み方で誘致して、いつの間にやら、邪馬台国は日本の首都と思い込んで、日本の首都探しを始め、首都なら遺跡を見れば大和に決まりで、年代測定をするだけでよく、これらの論争に対し、『東夷列傳』が正しい場合の論証や間違いの証拠も示さないとアンフェアで科学と言えない。
ところが、私は天文学的朔の日干支を調べて、中国史書は記録をそのまま記述していると証明し、日本の史書は記録を間違った場所に挿入したり、主語を書き換えていることを証明した。
そして、邪馬台国は中国史書が正しければ迷いなく検証すれば良く、『三國志』はありがたいことに、三百里四方の直系約15㎞のほゞ円形の壱岐島を記述し、百里は5㎞と解り、釜山影島灯台・対馬佐須奈間が53㎞で約千里、釜山影島灯台・対馬佐護湾・壱岐勝本間が150㎞で約三千里、対馬佐賀港・壱岐勝本間が53㎞で約千里である。
『三國志』は記録なので正しく、狗邪韓國・一大國千+千餘里には対馬の島内が含まれていない国境間距離と解り、佐須奈・佐賀港21㎞で四百里、勝本・印通寺間13㎞で三百里となる。
そして、一大國印通寺・末廬國西唐津間40㎞だが、「人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」と海岸の様子を記述し、松浦半島を「循海岸水行」と沿岸航行していることが解るので、50㎞程度になり、また、末廬國は「草木茂盛行不見前人」と末廬國領内を歩いた形跡がない。
末廬國西唐津・伊都國深江23㎞で五百里、深江・今津14㎞で三百里、伊都國今津・不彌國磯辺海岸5㎞で百里、磯辺海岸・能古島灯台・大岳・唐の原18㎞で四百里、唐原川が国境で南は邪馬壹國・糟屋郡で、深江・宇土溜池14㎞で三百里、伊都國宇土溜池・奴國金武5㎞で百里、ところが、下線を引いたように「歴・渡・行」がない至の奴国は行路里程に入らないが、金武・箱崎18㎞四百里で多々良川が国境と考えられ、邪馬台國から行程無しで奴國に行ける 。
『三国志』韓伝に「韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接方可四千里」、「郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」と京畿道・江原道・慶尚北道・忠清南道が200㎞の四千里四方でその南部は南北150㎞の三千里で郡から釜山まで350㎞の七千里で国境が接する「歴韓國乍南乍東」の領内陸行里程で仁川・釜山影島灯台間は350㎞の七千里である。
そして、渡行千里で対馬、歴対馬島内四百里、渡千里で壱岐、歴壱岐島内三百里、渡千里で末廬國、末廬國領内は歴行せず、東南陸行五百里で伊都國、歴伊都國領内三百里、東南奴國と歴行なしで行程に入らず、東行百里で不彌國、不彌國領内歴四百里、邪馬台国との国境は川幅で既に邪馬台國に到着し、壱岐・対馬で一国の領内三~四百里と示した。
千餘家の不彌國は能古島・志賀島・海の中道の千餘家で南に奴國二萬餘戸、邪馬台國七萬餘戸があり、地形もよく合い、全行程万二千里となり、一番直近の『日本書紀』も200年頃香椎宮と証言し、論理的に検証すれば、邪馬台国論争などと大騒ぎする必要など全く無い。
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