2022年7月8日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書5

  景行天皇類書3で省略した部分で、『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「天皇詔小碓命何汝兄於朝夕之大御食不参出來専汝泥疑教覺如此詔以後至于五日猶不参出尓天皇問賜小碓命何汝兄久不参出若有未誨乎荅白既爲泥疑也又詔如何泥疑之荅白朝署入厠之時待捕搤批而引闕其枝裹薦投棄於是天皇惶其御子之建荒之情而詔之西方有熊曽建二人是不伏兄()禮人等故取其人等而遣當此之時其御髪結額也尓小碓命給其姨倭比賣命之御衣御裳以劔納于御懐而幸行故到于熊曽建之家見者於其家邊軍圍三重作室以居於是言動爲御室樂設備食物故遊行其傍待其樂日尓臨其樂日如童女之髪梳垂其結御髪服其姨之御衣御裳既成童女之姿交妾(立女)人之中入坐其室内尓熊曽建兄弟二人見咸其嬢子坐於己中而盛樂故臨其酣時自懐出劔取熊曽之衣衿劔自其胸刺通之時其弟建見畏逃出乃追至其室之椅本取其背皮剣自尻刺通尓其熊曽建白言莫動其刀僕有白言尓暫許押伏於是白言汝命者誰尓詔吾者坐纏向之日代宮所知大八嶋國大帯日子游斯呂和氣天皇之御子名倭男具那王者也意禮熊曽建二人不伏無禮聞看而取殺意禮詔而遣尓其熊曽建白信然也於西方除吾二人無建強人然於大倭國益吾二人而建男者坐祁理是以吾獻御名自本()今以後應捕()倭建御子是事白訖即如熟菰振析而殺也故自其時稱御名謂倭建命」、【天皇は、小碓に「何故かお前の兄は、朝夕の大御食に出てこない。お前は痛めつけて教え諭せ」と詔勅した。この詔勅から五日経って、猶、出てこなかった。そこで天皇は、小碓に「どうした、お前の兄は、長らく参上しない。もしやまだ諭していないのか。」と問いかけると、「既に傷めつけました。」と答へた。又「どうやって痛めつけた。」と聞くと、「朝、厠に入った時、待って捕えて掴み叩いて、枝を引っかけて、薦に包んで投げ棄てた。」と答えた。天皇は、その子の勇猛さ知り、「西の方に熊曾建が二人いる。伏さず無礼な奴らだ。それで、そいつらを取れ。」と言って派遣した。そのために、髮を額に結って、小碓の姨の倭比賣の衣裳をもらい、劒を懐に納めて出た。それで、熊曾建の家につくと、その家の周辺に軍勢が三重に圍み、室を作って居た。そこで、室で宴をしようと言い、膳を設けた。それで、その傍らをうろついて、その宴を待った。その宴に臨んで、童女の髮の様に結わせ、髮を櫛ですいて垂らし、姨の衣裳を着て、童女の姿になって、女の中に交って、室内に入って座った。そこに熊曾建兄弟の二人が、むすめを見つけて、中に引き入れて盛大な宴席となった。それで、たけなわとなった時に、懐から剱を出し、熊曾の衣の衿を取って、剱で胸を刺した時、其の弟建は、恐れて逃げ出した。それを追って室の框で、其の背中を捕まえて、剱を尻から刺した。そこで熊曾建が「刀を動かすな。言う事が有る。」と言った。それで暫く許して押したおした。そこで「お前は誰だ。」と言った。それで、「私は纒向日代宮で、大八島國を知らす、大帶日子淤斯呂和氣天皇の子、名は倭男具那だ。熊曾建二人が、伏さず無礼と聞いて、打ち取れ私に言って派遣した。」と言った。熊曾建が、「本当にそうななのか。西の方に我ら二人を除いて、建強な人は無い。しかし大倭國に、我ら二人に勝る建ゝしい男がいた。我が名を献上しよう。今から後、倭建と言え。」と言った。是の事を言い終わって、即ち腐った筵の様に振り折って殺した。それで、其の時から名を稱へて、倭建という。】と訳した。

熊襲征伐は『日本書紀』では朔が晦の九州の暦で、伊都を伊襲と呼ぶように、伊都も熊襲で、熊曾建は倭奴國王と考えられるため、帥升の後継の桓・霊間の戦乱の男王の記録の可能性が高い。

ここの、倭建は『舊事本紀』「壯容貌魁律身長一丈力能扛鼎」と、女装しても直ぐに男と解る容貌で、この説話は他王の説話と考えられ、景行天皇十二年「熊襲梟帥有二女兄曰市乾鹿文弟曰市鹿文・・・爰從兵一人進殺熊襲梟帥天皇則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文仍以弟市鹿文賜於火國造」と父熊襲梟帥を殺して火國造となった市()鹿文がピタリと当てはまり、景行天皇十二年は仲哀天皇の12年目202年、卑弥呼の即位年となる。

ただし、『日本書紀』は市鹿文を卑弥呼と壹與を混同させていて、「神夏磯媛其徒衆甚多一國之魁帥也」の一國(壱国)の夏磯媛が同時に記述され、卑弥呼に良くあてはまり、魁帥は菟田縣・熊襲・大毛人・大隅・阿多と、特定された国の首領なので、一()國も国名と考えられる。

すなわち、熊襲梟帥は壹與の父で、男弟王が義父から襲名した熊襲梟帥の子、壹與は熊襲梟帥を襲名した倭奴国の宗女で、壹與も卑弥呼元年から倭国の史書に記述されたと考えられる。

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