『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「自其幸行而到能煩野之時思國以歌曰夜麻登波久尓能麻本呂婆多多那豆久阿袁加岐夜麻碁母礼流夜麻登志宇流波斯又歌曰伊能知能麻(曽多)祁牟比登波多美許母幣具理能夜麻能久麻加志賀波袁宇受尓佐勢曽能古此歌者思國歌也又歌曰波斯祁夜斯和岐幣能迦多用久毛韋多知久母此者片歌也此時御病甚急尓御歌曰袁登賣能登許能弁尓和賀游岐斯都流岐能多知曽能多知波夜歌竟即崩尓貢上驛使於是坐倭后等及御子等諸下到而作御陵即制(匍)匐廻其地之那豆岐田而哭爲歌曰那豆岐能多能伊那賀良迩伊那賀良迩波比母登富呂布登許呂豆良於是化八尋白智鳥翔天而向濵飛行尓其后及御子等於其(大)小竹之苅我(杙)雖足䠊破忘其痛以哭追此時歌曰阿佐士怒波良許斯那定(豆)牟蘇良波由賀受阿斯用由久那又入其海塩而那豆美行時歌曰宇美賀由氣婆許斯那豆牟意富迦婆良能宇恵具佐宇美賀波伊佐用布又飛居其磯云(之)時歌曰波麻都知登理波麻用波(由)迦受伊蘇豆多布是四歌者皆歌其御葬也故至今其歌者歌天皇之大御葬也故自其國飛翔行留河内國之志幾故於其地作御陵鎮坐也即号其御陵謂白鳥御陵也然亦自其地更翔天以飛行」、【そこから、能煩野に着いた時、国を思って歌(略)った。又歌(略)った。この歌は国思い歌だ。又、歌(略)った。これは片歌だ。この時、病が急変した。そこで歌(略)った。そこで驛使を送った。そこで倭(野洲)にいる后や子等が、其々下ってきて、陵を作って、そこの那豆岐田で、哭いて歌(略)った。そこで八尋の白鳥になって、天に翔て濱に向って飛んで行った。そこで后や子等は、その小竹の苅杙で、足を切って傷ついても、その痛さを忘れて哭いて追った。この時に歌(略)った。又、その海鹽に入ってとどまらず行った時に、歌(略)った。又、飛び乗って水辺の岩に居た時に、歌(略)った。この四歌は、皆、その葬儀で歌った。それで、今に至るまでその歌は、天皇の葬儀に歌う。それで、その国から飛び翔けて行き、河内国の志幾に留まった。それで、そこに陵を作って鎮魂した。それでその御陵を、白鳥陵と言う。しかし、亦、そこから更に、空を翔て飛んで行った。】と訳した。
ここの、白鳥陵は恐らく、倭建の后は既に死んでいて、後継は記述していないので、もう一人の太子の五百木之入日子の陵と考えられ、后は『舊事本紀』に「尾綱真若刀婢命此命嫁五百城入彦命生品陀真若王」と尾綱真若刀婢で、夫の陵が河内惠賀長江陵(河内国の志幾)と考えられ、追葬されたのだろう。
太子のまゝ死亡する皇子には忍熊王がいて、「沈瀬田濟而死之」と野洲の南で薨じ、太子五百木之入日子は八坂入日賣の子で、五百木之入日子は尾綱真若刀婢を妃に品陀真若を生み、これがおそらく、輕島明(実際は河内志幾)宮天皇で、纏向は3世紀始め、遅くとも中頃には廃虚になるのだから、忍熊王が薨じて滅び、203年に尾綱根・金田屋野姫兄弟が住む輕島明宮に遷都し、品陀真若の娘が尾綱根の妃になったと考えられる。
すなわち、皇位は建沼河別→沙本毘古で淡海朝屋主忍男武雄心と師木朝丹波道主弟彦が分裂し→印色入日子と近淡海安直の祖の水之穗眞若と朝廷が分裂し、纏向宮天皇大中姫→十市根→膽咋宿禰→五十琴宿祢→五十琴彦が皇位を継ぎ、師木天皇水之穗眞若→意富多牟和氣が淡海遷都→大陀牟夜別→多遅麻、師木天皇意富多牟和氣→五百木之入日子→品陀真若→尾綱根と師木天皇を受け継いだと思われる。
大中日子は倭建と『日本書紀』「弟橘媛穗積氏忍山宿禰之女」の子の『古事記』に「若建王娶飯野真黒比賣生子須賣伊呂大中日子王」とあるように、若建王と「杙俣長日子王此王之子飯野真黒比賣」のように咋俣長日子の娘の飯野真黒比賣の子で、「大中日子王此王娶淡海之是柴野入杵之女此柴野比賣生子迦具漏比賣命」と『日本書紀』に記述されない大入杵の娘柴野比賣の子が迦具漏比賣、倭建の曽孫の夫と倭建の孫が皇太弟で、倭建は其々の年代で皇太子を生んだ武諸隅の末裔の説話をまとめた存在と考えられる。
また、淡海朝は「大入杵命者能登臣之祖」、『舊事本紀』に「能等國造・・・活目帝皇子大入來命孫彦狹嶋命定賜國造」と豐木入日子の孫と記述するように大入來が共に祖父なのだから、「水穂真若王者近淡海之安直之祖」、子が「近淡海之安國造之祖意富多牟和氣」で八坂入日賣を妃にして、孫が『舊事本紀』に「淡海國造・・・彦坐王三世孫大陀牟夜別定賜國造」と淡海天皇で、分朝廷が八坂入日賣の子の五百木之入日子が太子の師木朝廷で、景行五八年の「居志賀三歳是謂高穴穗宮」で意富多牟和氣・曙立王と五百木之入日子の朝廷分裂が起こったようだ。
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