『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「悉言向和平山河荒神及不伏人等故尓到相摸(武)國之時其國造詐白於此野中有大沼住是沼中之神甚道速振神也於是看行其神入坐其野尓其國造火著其野故知見欺而解開其姨倭比賣命之所給嚢口而見者火打有其裏於是先以其御刀苅撥草以其火打而打出火著向火而焼退還出皆切滅其國造等即著火焼故於今謂焼遣也自其入幸渡走水海之時其渡神興浪廻舩不得進渡尓其后名弟橘比賣命白之妾易御子而入海中御子者所遣之政遂應覆奏將入海時以菅疊八重皮疊八重娟(絁)疊八重敷于波上而下坐其上於是其暴浪自伏御舩得進尓其后歌曰佐泥佐斯佐賀牟能袁怒迩毛由流肥能本那迦迩多知弖斗比斯岐美波母故七日之後其后御櫛依于海邊乃取其櫛作御陵而治置也自其入幸悉言向荒夫琉蝦夷等亦平和山河荒神等而還上幸時到足柄之坂本於食御粮處其坂神化白鹿而來立尓即以其咋遺之蒜片端待打者中其目乃打殺也故登立其坂三歎詔云阿豆麻波夜故号其國謂阿豆麻也即自其國越出甲斐坐酒折宮云(之)時歌曰迩比婆理都久波赤(袁)須疑弖伊久用加泥都流尓其御火焼之老人續御歌以歌曰迦賀那倍弖用迩波許々能用比迩波登袁加袁是以誉其老人即給東國造也」、【天皇は、亦、重ねて倭建に、「東方の十二道のあらぶる神、また、まつろはぬ者共を言向けて平定しろ。」と言って、吉備臣の祖の、御鋤友耳建日子をそえて派遣した時、比比羅木の八尋矛を与えた。それで、命を受けて行く時、伊勢の大神の宮に參り、神の朝廷を拜んで、姨の倭比賣に、「天皇は既に私に死ねと思うのか、何故か西方の悪人達を撃つよう派遣してから、まだ幾時も経ずに、軍勢も無しに、更に、東方の十二道の悪人達を平げるよう派遣した。これは、私にもう死ねと言っているようなものだ。」と言って、患い泣き、出発する時に、倭比賣は草那藝劒を渡し、亦、嚢を与えて、「もし急の事が有ったら、嚢の口を解きなさい。」と言った。それで、尾張國について、尾張國造の祖の美夜受比賣の家に入った。召そうろ思ったが、還り上る時に召そうと思って、約束して東國に行き、山河の荒ぶる神、及、屈服しない人等を服従させた。それで、相武國についた時、その國造が「この野の中に大沼が有る。この沼の中に住む神は、とても強暴な神だ。」と偽った。それでその神を見つけようと、その野に入った。そこで、その國造が、火を野に着けた。それで、騙されたと知って、姨の倭比賣から貰った嚢の口を解き開けて見たら、火打がその中に有った。それで、先ず、刀で草を苅り掃って、火打で火を打ち出して、向火を点けて焼いて退けて、還って國造達を切り滅して、火を点けて焼いた。それで、今焼津という。さらに幸して、走水の海を渡った時、渡の浪を引き起こして、船で渡ることが出来なかった。それで后の弟橘比賣は「私は、あなたに代わって海の中に入ります。あなたは派遣された命を遂げて覆奏して。」と言って、海に入る時に、菅疊八重、皮疊八重、絁疊八重を波の上に敷いて、その上に下りて座った。すると荒波は凪いで船が進むことが出来た。そこで后が歌(略)った。それで、七日の後に、その后の櫛が海邊に有った。それでその櫛を取って、陵を作って納めた。さらに幸して、暴れる蝦夷達を屈服させ、亦、山河の暴れる神等を平定して、還る時、足柄の坂本について、食料を食す處で、その坂の神が、白い鹿に化けて来て立った。咋い遣した蒜の端で、打つと、目に当て打ち殺した。それで、その坂に登り立って、三度歎いて、「あづまはや。」と言った。それで、その國を阿豆麻と言う。それでその國を越えて、甲斐に出て、酒折宮にいた時、歌(略)った。そこで、火焚の老人が続けて歌(略)った。それで老人を褒めて、東國造を与えた。】と訳した。
この説話の主人公が伊勢品遲部君祖曙立の子彦狹嶋なら、この伊勢は淡海伊勢遺跡で、彦狹嶋は分朝廷の皇太子で都督、すなわち、東国12国では天皇と同等なので、国造を任命できた。
『常陸國風土記』の「倭武天皇巡狩東夷之国幸過新治之県所遣国造毘那良珠命」、「倭武天皇 巡幸海浜行至乗浜」、「桑原岳昔倭武天皇停留岳上進奉御膳時」、「所以称行方郡者 倭武天皇巡狩天下征平海北」、「当麻之郷古老曰倭武天皇巡行過于此郷」、「有波須武之野倭武天皇停宿此野修理弓弭因名也」、「倭武天皇坐相鹿丘前宮此時」、「倭武天皇之后大橘比売命」等々の倭武天皇の記述が有る。
これは、国造は領地では天皇と考えていたと考えられ、都督も三国時代以降の役職とされ、矛盾するが、『日本書紀』記述時に複数の国を統治する役職の表意文字として都督という文字を割り当てたと考えられる。
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