2021年2月26日金曜日

最終兵器の目 持統天皇2 

  日本書紀 慶長版は

元年春正月丙寅朔皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉納言布勢朝臣御主人誄之禮也誄畢衆庶發哀次梵衆發哀於是奉膳乳朝臣真人等奉奠々畢膳部采女等發哀樂官奏樂庚午皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉梵衆隨而發哀庚辰賜京師年自八十以上及篤癃貧不能自存者絁緜各有差甲申使直廣肆田中朝臣法摩呂與追大貳守君苅田等使於新羅赴天皇喪三月乙丒朔已夘以投化髙麗五十六人居于常陸國賦田受稟使安生業甲申以華縵進于殯宮此曰御蔭是日丹比真人麻呂誄之禮也丙戌以投化新羅人十四人居于下毛野國賦田受稟使安生業夏四月甲午朔癸夘筑紫大宰獻投化新羅僧尼及百姓男女二十二人居于武藏國賦田受稟使安生業五月甲子朔乙酉皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉於是隼人大隈阿多魁帥各領己衆互進誄焉六月癸巳朔庚申赦罪人秋七月癸亥朔甲子詔曰几負債者自乙酉年以前物莫收利也若既役身者不得役利辛未賞賜隼人大隅阿多魁帥等三百三十七人各各有差八月壬辰朔丙申嘗于殯宮此曰御青飯也丁酉京城耆老男女皆臨慟哭於橋西已未天皇使直大肆藤原朝臣大嶋直大肆黃書連大伴請集三百龍象大德等於飛鳥寺奉施袈裟人別一領曰此以天渟中原瀛真人天皇御服所縫作也詔詞酸割不可具陳九月壬戌朔庚午設國忌齋於京師諸寺辛未設齋於殯宮甲申新羅遣王子金霜林級飡金薩慕及級飡金仁述大舍蘇陽信等奏請國政且獻調賦學問僧智隆附而至焉筑紫大宰便告天皇崩於霜林等即日霜林等皆著喪服東向三拜三發哭焉冬十月辛夘朔壬子皇太子率公卿百寮人等幷諸國司國造及百姓男女洽築大內陵十二月辛夘朔庚子以直廣參路真人迹見爲饗新羅勅使是年也大歳丁亥

【元年の春正月の丙寅が朔の日に、皇太子、公卿・官僚達を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。納言の布勢の朝臣の御主人が礼に適った弔辞を述べた。弔辞を終えて皆も哀悼し、次に僧達が哀悼した。そこで、内膳司の長官の紀の朝臣の眞人達が、お供えした。供えた後に、調理人や下女達が哀悼を述べた。楽師が楽曲を奉じた。庚午の日に、皇太子は公卿や官僚達を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。僧達が一緒に哀悼した。庚辰の日に、京師の、八十歳以上、及び重病人、貧しく自力で生活できない者に太平絹を其々差をつけて与えた。甲申の日に、直廣肆の田中の朝臣の法麻呂と追大貳の守君の苅田達を、新羅の使者にして、天皇の喪を告げに赴いた。三月の乙丑が朔の己卯の日に、帰化した高麗の五十六人を、常陸の国に居住させた。田を授け与えて、家業を安定させた。甲申の日に、けまん(仏堂の梁にかける団扇の形の装飾板)を、殯宮に進上した。これを仏の助けという。この日、丹比の眞人の麻呂が礼に従って弔辞を述べた。丙戌の日に、帰化した新羅の十四人を、下毛野の国に居住させた。田を授け与えて、家業を安定させた。夏四月の甲午が朔の癸卯の日に、筑紫の大宰が帰化した新羅の僧尼及び百姓の男女二十二人を献上した。武藏の国に居住させた。田を授け与えて、家業を安定させた。五月の甲子が朔の乙酉の日に、皇太子と公卿・官僚達を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。そこに、隼人の大隅・阿多の首領が自分の配下を率いて、各々進み出て哀悼した。六月の癸巳が朔の庚申の日に、罪人に恩赦を与えた。秋七月の癸亥が朔の甲子の日に、「全ての借り手は乙酉の年より以前の者は、利息を取ってはならない。もし既に利払いのために労役に身を置いていたら、利払いの労役に入れてはならない」と詔勅した。辛未の日に、隼人の大隅・阿多の首領達、三百三十七人に其々差をつけて恩賞を与えた。八月の壬辰が朔の丙申の日に、殯宮に新作の穀物を供えた。これを御青飯という。丁酉の日に、京の六・七十代の男女が、皆、橋の西から殯宮を臨んで声をあげて激しく嘆き泣いた。己未の日に、天皇は、直大肆の藤原の朝臣の大嶋・直大肆の黄書の連の大伴に、三百の高徳の僧達を飛鳥寺に招き集めて、袈裟を其々に一領捧げ与えた。「これは天渟中原瀛眞人天皇の御着物で、縫って作ったものだ」と言った。詔勅は哀しくて痛々しいもので詳しく述べることが出来ない。九月の壬戌が朔の庚午の日に、国の行事として追善供養の仏事を京師の諸寺で開いて供え物をした。辛未の日に、殯宮にお供えした。甲申の日に、新羅は王子の金霜林・級飡の金薩慕及び級飡の金仁述・大舍の蘇陽信達を派遣して、国政の許しを求めて、また年貢を献上した。学問僧の智隆が付き従ってきた。筑紫の大宰は天皇が崩じたことを霜林達に告げた。その日に、霜林達は、皆喪服を着て、東に向って三度拝礼して、三度声をあげて激しく嘆き泣いた。冬十月の辛卯が朔の壬子の日に、皇太子と公卿・官僚達あはせて諸々の国司・国造及び百姓の男女を率いて、はじめて大内の陵を築いた。十二月の辛卯が朔の庚子の日に、直廣參の路の眞人の迹見を、新羅人を饗応する地方長官とした。この年は大歳が丁亥だった。】とあり、正月丙寅は2月1日、八月壬辰は7月30日で、他は標準陰暦と合致する。

正月丙寅の2月1日と八月壬辰の7月30日近辺に合致する年が無く1月の29日が雨水で一ケ月のズレも考えられず、異なる暦を使う政権の記事と考えることが妥当で、天武天皇六年まで「十二月己丑朔雪不告朔」と朔の日に告げる予定が告げなかったと記述され、『続日本紀』の大宝元年「天皇御大安殿受祥瑞如告朔儀」の告朔儀なら雪が降っても御殿でできるし、告朔儀なら無告朔儀と記述すべきで、雪で空模様が解らないから告げなかったのである。

納言布勢朝臣御主人は天武天皇十三年の賜姓時に布勢氏は無く、『続日本紀』の大宝元年七月の「壬申年功臣」の中に「阿倍普勢臣御主人」が記述され阿倍朝臣御主人と同一人物の様で、初出が朱鳥元年「直大參布勢朝臣御主人誄太政官事」と13位だ。

不比等でも初出が「直廣貳藤原朝臣不比等」と12位、天武天皇四年「小錦上大伴連御行爲大輔」と同じような背景を持つ大伴連御行の初出が10位で、大宝元年正月に「大納言正廣參大伴宿祢御行薨・・・贈正廣貳右大臣」と6位で死後4位を与え、御主人は大宝三年「右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨」と右大臣の子の大伴連御行より初出は厚遇されていないが最終的に厚遇されている。

文武四年に「阿倍朝臣御主人大伴宿祢御行並授正廣參」と共に6位だったが、大宝元年三月「大納言正從二位阿倍朝臣御主人爲右大臣」と一年もたたずに4位に出世し、大宝元年七月に「壬申年功臣・・・大伴連御行阿倍普勢臣御主人神麻加牟陀君兒首一十人各一百戸」と初出の時が壬申の後では位階に矛盾が有り、701年に政権交代があって、その功労者が御主人や御行で御行はその戦乱の犠牲者と考えればよく理解でき、『新唐書』の「長安元年其王文武立改元曰太寶」と親子関係がない政権交代を裏付けている。

2021年2月24日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第二十九・三十  持統天皇1 

  日本書紀 慶長版は

髙天原廣野姫天皇少名鸕野讚良皇女天命開別天皇第二女也母曰遠智娘天皇深沈有大度天豊財重日足姫天皇三年適天渟中原瀛真人天皇爲妃雖帝王女而好禮節儉有母儀德天命開別天皇元年生草壁皇子尊於大津宮十年十月從沙門天渟中原瀛真人天皇入於吉野避朝猜忌語在天命開別天皇紀天渟中原瀛真人天皇元年夏六月從天渟中原瀛真人天皇避難東國鞠旅會衆遂與定謀廼分命敢死者數万置諸要害之地秋七月美濃軍將等與大倭桀豪共誅大友皇子傳首詣不破宮二年立爲皇后皇后從始迄今佐天皇定天下毎於侍執之際輙言及政事多所毗補朱鳥元年九月戊戌朔丙午天渟中原瀛真人天皇崩皇后臨朝稱制冬十月戊辰朔巳巳皇子大津謀反發覺逮捕皇子大津幷捕爲皇子大津所詿?(言吴:誤)直廣肆八口朝臣音橿小山下壹伎連博德與大舍人中臣朝臣臣麻呂巨勢朝臣多益湏新羅沙門行心及帳內礪杵道作等三十餘人庚午賜死皇子大津於譯語田舍時年二十四妃皇女山邊被髮徒跣奔赴殉焉見者皆歔欷皇子大津天渟中原瀛真人天皇弟三子也容止墻岸音辭俊朗爲天命開別天皇所愛及長辨有才學尤愛文筆詩賦之興自大津洽也丙申詔曰皇子大津謀反詿?(言吴:誤)吏民帳內不得已今皇子大津已滅從者當坐皇子大津者皆赦之伹礪杵道作流伊豆又詔曰新羅沙門行心與皇子大津謀反朕不忍加法徙飛騨國伽藍十一月丁酉朔壬子奉伊勢神祠皇女大來還至京師癸丑地震十二月丁夘朔乙酉奉爲天渟中原瀛真人天皇設無遮大會於五寺大官飛鳥川原小墾田豊浦坂田壬辰賜京師孤獨髙年布帛各有差潤十二月筑紫大宰獻三國髙麗百濟新羅百姓男女幷僧尼六十二人是歳蛇犬相交俄而倶死

【高天原の廣野姫天皇は、幼名は鸕野の讚良の皇女といった。天命開別の天皇の第二女子だ。母の名を遠智の娘という。天皇は、落ち着いていて、物事に動ぜず度量が大きかった。天豐財重日足姫天皇の三年に、天渟中原瀛眞人天皇に嫁いで妃となった。帝王の女子であっても、礼儀を重んじ質素で、母としての徳を持っていた。天命開別天皇の元年に、草壁皇子尊を大津宮で生んだ。十年の十月に、仏門に入った天渟中原瀛眞人天皇と一緒に、吉野に入って、朝廷のねたみきらわれる思いを避けた。この事は天命開別天皇の紀に記述されている。天渟中原瀛眞人天皇の元年の夏六月に、天渟中原瀛眞人天皇に従って、東国に難を逃れた。兵士に集まるよう告げて計略を討議した。それで数万の決死隊を分けさせて、諸々の要所に配置した。秋七月に、美濃の将軍達と大倭の豪傑と共に大友皇子を誅殺して、首が不破の宮に届いた。二年に、皇后になった。皇后は最初から今になるまで、天皇を補佐して天下を安定させた。いつも側に仕えている時に、些細なことから政治に関する事柄まで多くそばで助けた。朱鳥元年の九月の戊戌が朔の丙午の日に、天渟中原瀛眞人天皇が崩じた。皇后は即位せずに政務を執った。冬十月の戊辰が朔の己巳の日に、大津皇子が謀反を起こそうとした。大津皇子を捕らえて、大津皇子の為に過ちを犯した直廣肆の八口の朝臣の音橿、小山下の壹伎の連の博徳と、大舍人の中臣の朝臣の臣麻呂、巨勢の朝臣の多益須、新羅の沙門の行心及び帳内の砺杵の道作達庚午の日に、大津皇子を譯語田の屋敷での死を命じた。その時二十四歳だった。妃の皇女の山邊は髪も結わないではだしで駆け寄って殉死した。見る者皆むせび泣いた。大津皇子は、天渟中原瀛眞人天皇の第三子だ。立ち居振る舞いは孤高で弁舌さわやかだったので天命開別天皇の愛された。長じてわきまえもあり才能が有って文筆をもっとも愛し、漢詩は大津皇子に始まった。丙申の日に、「大津皇子が、謀反しようとした。過ちを犯した役人や人民近習は已むを得ないが今や大津皇子は滅んだ。従者は大津皇子に連座したのなら、皆赦しなさい。但し砺杵の道作は伊豆に流せ」と詔勅した。また、「新羅の沙門の行心は、大津皇子の謀反に従ったが、私は罰を与えるに忍びない。飛騨の国の寺に遷しなさい」と詔勅した。十一月の丁酉が朔の壬子の日に、伊勢のほこらで奉仕する大來皇女が京師に帰って来た。癸丑の日に、地震があった。十二月の丁卯が朔の乙酉の日に、天渟中原瀛眞人天皇のために、すべての人に平等に財と法の施しをする大法会を大官・飛鳥・川原・小墾田の豐浦・坂田の五寺で開いた。壬辰の日に、京師の独り身の高齢者に其々差をつけて絹布を与えた。閠十二月に、筑紫の大宰と高麗・百済・新羅三国の百姓男女と併せて僧尼六十二人を献上した。この歳に蛇と犬が共にすごしたが急に死んだ。】とあり、標準陰暦と合致する。

元明天皇は『古事記』を記述させた時に系図が解っていれば『日本書紀』と同じ系図を記述させたはずで、『日本書紀』を記述させる直前に資料を手に入れたと考えられ、『新唐書』に「天智死子天武立死子總持立・・・長安元年 其王文武立」と記述されて、持統(總持)天皇は天武天皇の子で文武天皇と親子関係がなく、文武天皇は697年ではなく701年即位である。

『粟原寺鑪盤銘』に「奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮・・・比賣朝臣額田以甲午年始至和銅八年」と『古事記』推古天皇の名「額田部皇女」の女系が推定され、比賣朝臣額田は678年死亡の十市皇女の母では694年竣工712年に完成なのだから年齢が合わず、この浄御原宮天下天皇は天智天皇の子の天武天皇で、天智天皇の子や孫でない文武天皇の父が後嗣だった天智天皇の異母兄弟若しくは従弟が日並と想定でき、元明天皇の夫である。

日並は皇極天皇の兄弟では高齢すぎるので、皇極天皇と舒明天皇蘇我蝦夷の子の可能性が有り、元明(阿閇)天皇もその娘元正天皇(日高)も推古天皇→十市皇女の母額田姫とともに女系額田を襲名したと想定される。

全く血縁関係のない『古事記』の系図を元明天皇が採用するとは考えられず、推古天皇は640年代に60歳代と考えられ、元明天皇の崩が720年代で間に3世代の額田皇女達が存在すると思われる。

『古事記』の「忍坂日子人太子亦名麻呂古王」、「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比売命生御子坐崗本宮治天下之天皇」は日子人ではない推古天皇の兄弟の麻呂古王と庶妹田村王ではない糠代比売の孫が元明天皇で、岐多志毘売の宮が額田部にあり、蘇我倭国王朝の血統を『古事記』で元明天皇が主張した。

持統天皇の名も「廣野姫」で、廣國押武金日・武小廣國押盾・天國排開廣庭・息長足日廣額と続く稲目の広国の系譜を引き継ぐ名前、元明天皇も日本根子天津御代豊國成姫と橘豐日・豊御食炊屋姫・天豐財重日足姫・天萬豊日と馬子の倭国・豊国を引き継ぐ名前である。

『続日本紀』には「奉誄太上天皇謚曰大倭根子天之廣野日女尊」と名前が異なり、「唐人謂我使曰亟聞海東有大倭國謂之君子國」と日本とは別国の大倭国と記述され、元明天皇から「日本根子」の名前を使用して、總持日本天皇から日本の国号を奪い、元明天皇は俀国に敗れた倭国の後裔である。

粟原寺竣工の694年は大化年号が始まる前年で、これまで検証したとおり天智天皇崩の年、天智天皇は49歳崩で天智天皇の子の天武天皇は30歳前後で長男が13歳以下のため天智天皇の次女で蘇我氏の女系の髙天原廣野姫との子の日並が後嗣となったが、日並は廃嫡されて臣下の真人と姓を与えられ、子の文武天皇が第二の壬申の乱で皇位を奪った。

2021年2月22日月曜日

最終兵器の目 天武天皇28

 『日本書紀』慶長版は

八月巳巳朔爲天皇度八十僧庚午度僧尼幷一百因以坐百菩薩於宮中讀觀音經二百卷丁丑爲天皇體不豫祈于神祗辛巳遣秦忌寸石勝奉幣於土左大神是日天皇太子大津皇子髙市皇子各加封四百戸川嶋皇子忍壁皇子各加百戸癸未芝基皇子磯城皇子各加二百戸已丑檜隈寺輕寺大窪寺各封百戸限三十年辛夘巨勢寺封二百戸九月戊戌朔辛丒親王以下逮于諸臣悉集川原寺爲天皇病誓願云々丙午天皇病遂不差崩于正宮戊申始發哭則起殯宮於南庭辛酉殯于南庭即發哀當是時大津皇子謀反於皇太子甲子平旦諸僧尼發哭於殯庭乃退之是日肇進奠即誄之第一大海宿祢蒭蒲誄壬生事次淨大肆伊勢王誄諸王事次直大參縣犬養宿祢大伴揔誄宮內事次淨廣肆河內王誄左右大舍人事次直大參當麻真人國見誄左右兵衞事次直大肆采女朝臣竺羅誄內命婦事次直廣肆紀朝臣真人誄膳職事乙丑諸僧尼亦哭於殯庭是日直大參布勢朝臣御主人誄太政官事次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事次直大肆大三輪朝臣髙市麻呂誄理官事次直廣參大伴宿祢安麻呂誄大藏事次直大肆藤原朝臣大嶋誄兵政官事丙寅僧尼亦發哀是日直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事次直廣肆穗積朝臣?(ノ虫:蟲)麻呂誄諸國司事次大隅阿多隼人及倭河內馬飼部造各誄之丁夘僧尼發哀??(之是)日百濟王良虞代百濟王善光而誄之次國々造等隨參赴各誄之仍奏種々歌儛

【八月の己巳が朔の日に、天皇の為に、八十人を出家させ僧にした。庚午の日に、僧尼併せて百人に修行させた。それで、百柱の菩薩像を宮中に安置して、観世音経二百卷を読経させた。丁丑の日に、天皇の容態が悪化したので、神祇に祈った。辛巳の日に、秦の忌寸の石勝を派遣して、供え物を土左の大神に奉納した。この日に、皇太子・大津皇子・高市皇子に、各々封戸四百戸を加増した。川嶋皇子・忍壁皇子に、各々百戸を加封した。癸未の日に、芝基皇子・磯城皇子に、各々二百戸を加封した。己丑の日に、桧隈寺・輕寺・大窪寺に、各々百戸を封じたが三十年に限った。辛卯の日に、巨勢寺に二百戸を封じた。九月の朔が戊戌の辛丑の日に、親王以下、諸臣まで、残らず川原寺に集って、天皇の病の為に、誓願した云云。丙午の日に、天皇の病が、とうとう癒えず、正宮で崩じた。戊申の日に、はじめて哀悼して泣いた。それで殯の宮を南の庭に建てた。辛酉の日に、南庭で殯を行って哀悼を発した。この時に、大津皇子は、皇太子に謀反を起こそうとした。甲子の日の夜明けに、諸々僧尼が、殯の宮で哀悼の泣き声を上げて帰った。この日に、はじめてお供えを進上して誄んだ。第一に大海の宿禰の蒭蒲が、壬生の事を弔辞した。次に淨大肆の伊勢王が、諸王の事を弔辞した。次に直大參の縣犬養の宿禰の大伴が、全ての宮中の事を弔辞した。次に淨廣肆の河内王が、近習の宿衛の事を弔辞した。次に直大參の當麻の眞人の國見が、近習の護衛の事を弔辞した。次に直大肆の采女の朝臣の竺羅が、高位の女官の事を弔辞した。次に直廣肆の紀の朝臣の眞人が、食事担当官の事を弔辞した。乙丑の日に、諸々の僧尼もまた殯の宮で泣いた。この日に、直大參の布勢の朝臣の御主人が、大政官の事を弔辞した。次に直廣參の石上の朝臣の麻呂が、法務官の事を弔辞した。次に直大肆の大三輪の朝臣の高市麻呂が、理官の事を弔辞した。次に直廣參の大伴の宿禰の安麻呂が、大藏の事を弔辞した。次に直大肆の藤原の朝臣の大嶋が、武官の事を弔辞した。丙寅の日に、僧尼がまた哀悼の意を発した。この日に、直廣肆の阿倍の久努の朝臣の麻呂が、判事の事を弔辞した。次に直廣肆の紀の朝臣の弓張が、民官の事を弔辞した。次に直廣肆の穗積の朝臣の蟲麻呂が、諸国司の事を弔辞した。次に大隅・阿多の隼人、及び倭・河内の馬飼部の造、各々が弔辞した。丁卯の日に、僧尼が、哀悼の意を発した。この日に、百済王の良虞が、百済王の善光に代って弔辞した。次に国々の造達が、連れ立って赴き、各々が弔辞した。それで種々の歌舞を奏上した。】とあり、標準陰暦と合致する。

天武天皇八年の盟約にいた皇子の芝基皇子は字面から考えると、天武天皇二年「宍人臣大麻呂女擬媛娘生・・・其二曰磯城皇子」の磯城皇子とは別人、すなわち、天智天皇七年「越道君伊羅都賣生施基皇子」の施基皇子ことで、天武天皇八年の盟約は天智天皇の盟約だった可能性が高い。

ここで弔辞を述べる人々は壬申の乱の功績者を含めて、701年大宝元年「賜村國小依百廿戸當麻公國見縣犬養連大侶榎井連小君書直知徳書首尼麻呂黄文造大伴大伴連馬來田大伴連御行阿倍普勢臣御主人神麻加牟陀君兒首一十人各一百戸」と存命中だから贈ではなく賜と記述され、やはり、壬申の乱で名が挙がる年齢、30歳くらいの人物が701年に多く存命しているのは、年齢的に違和感を感じる。

すなわち、縣犬養宿禰大伴は大宝元年「直廣壹縣犬養宿祢大侶卒・・・贈正廣參以壬申年功也」、淨廣肆の河内王は714年和銅七年「无位河内王從四位下」、703年大宝三年「右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨」、717年養老元年「左大臣正二位石上朝臣麻呂薨」、706年慶雲三年「左京大夫從四位上大神朝臣高市麻呂卒以壬申年功」、和銅七年「大納言兼大將軍正三位大伴宿祢安麻呂薨」とこれ以降30年間も存命で、しかも壬申の功労者も20年間存命である。

これは、天武天皇の代で壬申の乱の功労者の死亡記事が有るように、695年の壬申の乱が起こる前の天智天皇の葬儀で、ここで弔辞を述べた人々が壬申の乱で活躍し、皇太子と兄弟の大津皇子との戦いなら、どちらが負けても天智天皇の子で、大化年号建元の天武天皇なら、よく理解できる。


2021年2月19日金曜日

最終兵器の目 天武天皇28

  『日本書紀』慶長版は

五月庚子朔戊申多紀皇女等至自伊勢是日侍醫百濟人億仁病之臨死則授勤大壹位仍封一百戸癸丒勅之大官大寺封七百戸乃納税三十万束丙辰宮人等増加爵位癸亥天皇體不安因以於川原寺說藥師經安居于宮中戊辰饗金智祥等筑紫賜祿各有差即從筑紫退之是月勅遣左右大舍人等掃清諸寺堂塔則大赦天下囚獄已空六月巳巳朔槻本村主勝麻呂賜姓曰連仍加勤大壹位封二十戸庚午工匠陰陽師侍醫大唐學生及一二官人幷三十四人授爵位乙亥選諸司人等有功二十八人増加爵位戊寅卜天皇病祟草薙劔即日送置于尾張國熱田社庚辰雩之甲申遣伊勢王及官人等於飛鳥寺勅衆僧曰近者朕身不和願頼三寶之威以以身體欲得安和是以僧正僧都及衆僧應誓願則奉珍寶於三寶是日三綱律師及四寺和上知事幷現有師位僧等施御衣御被各一具丁亥勅遣百官人等於川原寺爲燃燈供養仍大齋之悔過也丙申法忍僧義照僧爲養老各封三十戸庚寅名張厨司災之秋七月乙亥朔庚子勅更男夫著脛裳婦女垂髮于背猶如故是日僧正僧都等參赴宮中而悔過矣辛丑詔諸國大解除壬寅半減天下之調仍悉免徭役癸夘奉幣於居紀伊國々懸神飛鳥四社住吉大神丙午請一百僧讀金光明經於宮中戊申雷光南方而一大鳴則天災於民部省藏庸舍屋或曰忍壁皇子宮失火延焼民部省癸丒勅曰天下之事不問大小悉啓于皇后及皇太子是日大赦之甲寅祭廣瀬龍田神丁巳詔曰天下百姓由貧乏而?(イ貳:貸)稻及貨財者乙酉年十二月三十日以前不問公私皆免原戊午改元曰朱鳥元年仍名宮曰飛鳥淨御原宮丙寅選淨行者七十人以出家乃設齋於宮中御窟院是月諸王臣等爲天皇造觀音像則說觀世音經於大官大寺

【五月の朔が庚子の戊申の日に、多紀皇女達が伊勢から帰った。この日に、侍医の百済人の億仁が、病気で死にかけていた。それで勤大壹の位を授け百戸を封じた。癸丑の日に、詔勅して、大官大寺に、七百戸を封じて、税から三十萬束を奉納した。丙辰の日に、官僚達に爵位を加増した。癸亥の日に、天皇、体調をくずした。それで、川原寺で、藥師経を説教した。宮中で長期の修行をさせた。戊辰の日に、金智祥達を筑紫で饗応した。禄を与え各々差が有った。それで筑紫から去った。この月に、詔勅で近習の宿衛を派遣して、諸寺の堂や塔を掃き清めさせた。それで天下に大赦を行った。監獄には誰もいなくなった。六月の己巳が朔の日に、槻本の村主の勝麻呂に姓を与えて連という。それで勤大壹の位をに加増して、二十戸を封じた。庚午の日に、大工・陰陽師・侍医・大唐の學生、及び一・二人の官僚、併せて三十四人に、爵位を授けた。乙亥の日に、役人達の功績が有った二十八人を選んで、爵位を加増した。戊寅の日に、天皇の病気を占ったら、草薙の剱の祟りとでた。その日に、尾張の国の熱田の社に送って置いた。庚辰の日に、雨乞いした。甲申の日に、伊勢王及び役人達を飛鳥寺に派遣して、僧達に詔勅して、「近頃、私の状態が良くない。三宝の力によって、治してもらいたい。それで、僧正・僧都及び僧達よ、請願しなさい」と詔勅した。それで珍しい宝物を奉納した。この日に、三綱の律師及び四寺の和上・知事、併せて現在、師の位が有る僧達に、法衣・法被各々一具を施した。丁亥の日に、詔勅して、役人達を川原寺に派遣して、灯をともして供養した。それで、大法会を開いて悔い改めた。丙申の日に、僧の法忍・僧の義照に、老後を養うために、各々三十戸を封じた。庚寅の日に、名張の厨の司に火災が有った。秋七月の朔が己亥の庚子の日に、「また男は脛当てを着け、婦女は背中まで髪を垂らして、昔からのようにしなさい」と詔勅した。この日に、僧正・僧都達は、宮中に赴いて、改悔の儀式を行った。辛丑の日に、諸国に詔勅して大規模なお祓いをした。壬寅の日に、天下の年貢を半減した。なお、残らず労役を免除した。癸卯の日に、供え物を紀伊の国に居る國懸の神・飛鳥の四社・住吉の大神に奉納した。丙午の日に、百人の僧に頼んで、金光明経を宮中で読経させた。戊申の日に、雷が、南方で光って、一回大きな雷鳴が起こった。それで民部省の物納の倉庫に火災が起こった。或人が、「忍壁皇子の宮から失火して延焼で、民部省を焼いた」と言った。癸丑の日に、「天下の事の、大小を問わず、残らず皇后及び皇太子に教えなさい」と詔勅した。この日に、大赦を行った。甲寅の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。丁巳の日に、「天下の百姓が貧しく生活に困っているので、稲と農具を貸している者は、乙酉の年の十二月三十日以前の負債は、公私と問わず、皆、免除しなさい」と詔勅した。戊午の日に、元号を改めて朱鳥元年と言った。それで宮を名付けて飛鳥淨御原宮と言った。丙寅の日に、仏の教えに従っている者七十人を選んで、出家させた。それで宮中の仏殿で法会を行った。この月に、諸王と臣下が、天皇の為に、観世音像を造った。それで観世音経を大官大寺で説教した。】とあり、標準陰暦と合致する。

飛鳥淨御原宮命名記事は朱鳥元号と全く関係が見えず、『小野毛人墓誌』に「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と677年の墓誌に飛鳥浄御原宮治天下天皇と、無い宮の天皇が記述され、飛鳥浄御原宮命名説話は677年より前に命名されていることが解る。

すると、飛鳥浄御原宮命名説話の実際の時期は、これまで見てきたように、670年の壬申の乱は大皇弟と大臣達の反乱で天智天皇が勝利して国名を日本にした戦いっだったので、この時の勝利宣言の時、672年天武天皇元年「自嶋宮移岡本宮・・・營宮室於岡本宮南即冬遷以居焉是謂飛鳥淨御原宮」が第一候補であるが、それなら、このときにこの記事を記述すればよいのに、別の場所に置いているのはよくわからない。

改元記事に付随するのなら、朱雀の684年は『小野毛人墓誌』に合致せず、652年白雉改元は651年12月の「天皇從於大郡遷居新宮號曰難波長柄豐碕宮」と宮命名の記事があり、白鳳改元の661年斉明天皇七年の「天皇遷居于朝倉橘廣庭宮是時斮除朝倉社木而作此宮之故神忿壌殿亦見宮中鬼火由是大舎人及諸近侍病死者衆」がある。

朝倉は筑後の明日香と呼ばれる土地にあり、お祓いをして清めた宮で明日香の清()原は良く合致し、暦に九州の暦や都督府の暦が頻出し、饗応が九州で行われている意味がよく理解でき、すでに長く住んで15年たって、今にも死にそうな天皇のために宮の名を付け、既に不明の宮の名を付けた代名詞の宮を変えて飛鳥浄御原宮天皇と呼ぶのは理解できない。

もし、代名詞を変えたのなら、どこかにその宮の名が残るはずである。


2021年2月17日水曜日

最終兵器の目 天武天皇27

  『日本書紀』慶長版は

朱鳥元年春正月壬寅朔癸夘御大極殿而賜宴於諸王卿是日詔曰朕問王卿以無端事仍對言得實必有賜於是髙市皇子被問以實對賜蓁揩御衣三具錦袴二具幷絁二十疋絲五十斤緜百斤布一百端伊勢王亦得實即賜皁御衣三具紫袴二具絁七疋絲二十斤緜四十斤布四十端是日攝津國人百新興獻白馬瑙庚戌請三綱律師及大官大寺知事佐官幷九僧以俗供養々之仍施絁緜布各有差辛亥諸王卿各賜袍袴一具甲寅召諸才人博士陰陽師醫師者幷餘人賜食及祿乙夘酉時難波大藏省失火宮室悉焚或曰阿斗連藥家失火之引及宮室唯兵庫軄不焚焉丁已天皇御於大安殿喚諸王卿賜宴因以賜絁緜布各有差是日問群臣以無端事則當時得實重給綿絁戊午宴後宮己未朝庭大酺是日御々窟殿前而倡優等賜祿有差亦歌人等賜袍袴庚申地震是月爲饗新羅金智淨遣廣肆川內王直廣參大伴宿祢安麻呂直大肆藤原朝臣大嶋直廣肆堺部宿祢鯯魚直廣肆穗積朝臣?(ノ虫:蟲)麻呂等于筑紫二月辛未朔甲戌御大安殿侍臣六人授勤位乙亥勅選諸國司有功者九人授勤位三月辛丑朔丙午大辨官直大參羽田真人八國病爲之度僧三人庚戌雪之乙丒羽田真人八國卒以壬申年之功贈直大壹位夏四月庚午朔丁丑侍醫桑村主訶都授直廣肆因以賜姓曰連壬午爲饗新羅客等運川原寺伎樂於筑紫仍以皇后宮之私稻五千束納于川原寺戊子新羅進調從筑紫貢上細馬一疋騾一頭犬二狗鏤金器及金銀霞錦綾羅虎豹皮及藥物之類幷百餘種亦智祥健勳等別獻物金銀錦霞綾羅金器屏風鞍皮絹布藥物之類各六十餘種別獻皇后皇太子及諸親王等之物各有數丙申遣多紀皇女山背姫王石川夫人於伊勢神宮

【朱鳥元年の春正月の朔が壬寅の癸卯の日に、大極殿にいて、宴会を諸王や公卿達の為に開いた。この日に、「私は、王や公卿に聞くと、何事もないという。それで真実を答えたらきっと褒美を与える」と詔勅した。そこで、高市皇子が、問いに真実を答えた。草木染め衣三具・錦の袴二具、併せて太絹二十匹・絲五十斤・綿百斤・布一百端を与えた。伊勢王もまた真実を言った。それで香りがよい衣三具・紫の袴二具・太絹七匹・絲二十斤・綿四十斤・布四十端を与えた。この日に、攝津の国の人の百済の新興が白い水晶を献上した。庚戌の日に、三綱の律師、及び大官大寺の知事、佐官、併せて九人の僧を頼んで、人々に供養で力づけた。なお、太絹・綿・布を施し、各々差が有った。辛亥の日に、諸王と公卿に各々衣と袴一具を与えた。甲寅の日に、諸々の技術者・博士・陰陽師・医師、併せて二十人余を招集して、食物及び禄を与えた。乙卯の日の酉の時に、難波の大藏省が失火して、宮室が残らず焼けた。或人が、「阿斗の連の藥の家の失火が、引火して宮室に及んだ」と言った。ただし兵庫職のみは焼けなかった。丁巳の日に、天皇は、大安殿にいて、諸王と公卿を招集して宴会を開いた。それで、太絹・綿・布を与えた。各々差が有った。この日に、天皇は、臣下に何事も無かったかと問いかけた。それでその時真実を答えたら、太絹・綿を重ねて与えた。戊午の日に、後宮で宴会を開いた。己未の日に、朝庭で大酒宴を開いた。この日に、神を祀る御殿の前にいて、芸人達に禄を与え差が有った。また歌人達に衣と袴を与えた。庚申の日に、地震が有った。この月に、新羅の金智祥を饗応する為に、淨廣肆の川内王・直廣參の大伴の宿禰の安麻呂・直大肆の藤原の朝臣大嶋・直廣肆の境部の宿禰の鯯魚・直廣肆の穗積の朝臣の蟲麻呂達を筑紫に派遣した。二月の朔が辛未の甲戌の日に、大安殿にいた。側に使える臣下六人に勤位を授けた。乙亥の日に、詔勅して、諸々の国司の功績が有った九人を選んで、勤位を授けた。三月の朔が辛丑の丙午の日に、大辨官の直大參の羽田の眞人の八國が病気に罹った。そのため三人を出家させた。庚戌の日に、雪が降った。乙丑の日に、羽田の眞人の八國が死んだ。壬甲年の功績で、直大壹の位を贈った。夏四月の朔が庚午の丁丑の日に、侍医の桑原の村主の訶都に直廣肆を授けた。それで、姓を与えて連とした。壬午の日に、新羅の客達を饗応する為、川原寺の仮面劇の楽器と道具を筑紫に運んだ。それで皇后の宮の私物の稲五千束を、川原寺に奉納した。戊子の日に、新羅の進上した年貢を、筑紫から貢上した。飼いならされた馬一匹・ラバ一頭・犬二狗・金を散らした器、及び金・銀・霞がかかった錦・美しくて上等な布・虎豹の皮、及び藥など、併せて百種余あった。また智祥・健勳達が別に献上した物が、金・銀・霞がかかった錦・美しくて上等な布・金の器・屏風・鞍の皮・絹布・藥のなど、各々六十種余有った。別に皇后・皇太子及び諸々の親王達に献上する物が、各々多数有った。丙申の日に、多紀皇女・山背姫王・石川夫人を伊勢神宮に派遣した。】とあり、標準陰暦と合致する。

大地震や火災が頻発している中で、爵位や下賜品の大盤振る舞いと同じ王朝記事とは考えられず、大盤振る舞い記事には朔の日干支が記述されるのに、天武10年より後の地震は朔の日干支を記述しておらず、朱鳥という目出たい元号に改元することもあわせると、本来は良いことが起こっていることが考えられる。

『日本書紀』に記述される元号の中で、元明天皇や舎人親王は朱雀年号を記述せず朱鳥年号のみを記述しているが、元明天皇達は『古事記』しか書けなかった人々なのだから、總持天皇の王朝の記事をほとんど書き写したと考えられる。

有遠智娘弟曰姪娘生御名部皇女與阿陪皇女阿陪皇女及有天下居于藤原宮後移都于乃樂或本云名姪娘曰櫻井娘」と、書かせた元明本人の母の名前が解らないはずがなく、天智天皇の子共達は元明天皇の兄弟ではなく、『粟原寺鑪盤銘』の「比賣朝臣額田」が元明天皇で『古事記』が元明天皇の系図、すなわち、額田部推古天皇の末裔である。

天武天皇は『日本書紀』の天智天皇までの資料を、大化と白雉の順が違うのだから、皇極・孝徳・中宮・天智・大化・白雉そして浄御原宮などの、日記のような記事、これらが別々の書として残っていて、さらに、天武・總持天皇と大長改元の資料がまとめられずに有ったと考えられる。

そして、恐らく鏡王女の死によって、白鳳の元号が終わり朱雀改元となった意味を元明天皇は解らず、大長改元を想定して、改元説話が有る朱鳥を記述し、平城宮や藤原宮・元明天皇の事績を含めて記述したのではないだろうか。

2021年2月15日月曜日

最終兵器の目 天武天皇26

  『日本書紀』慶長版は

九月甲辰朔壬子天皇宴于舊宮安殿之庭是日皇太子以下至于忍壁皇子賜布各有差甲寅遣宮處王廣瀬王難波王竹田王弥努王於京及畿內各令挍人夫之兵戊午直廣肆都努朝臣牛飼爲東海使者直廣肆石川朝臣?(ノ虫:蟲)名爲東山使者直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽使者直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰使者直廣參路真人迹見爲南海使者直廣肆佐伯宿祢廣足爲筑紫使者各判官一人史一人巡察國司郡司及百姓之消息是日詔曰凢諸歌男歌女笛吹者即傳已子孫令習歌笛辛酉天皇御大安殿 『喚王卿等於殿前以令博戲是日宮處王難波王竹田王三國真人友足縣犬養宿祢大侶大伴宿祢御行境部宿祢石積多朝臣品治采女朝臣竹羅藤原朝臣大嶋凢十人賜御衣袴壬戌皇太子以下及諸王卿幷四十八人賜羆皮山羊皮各有差癸亥遣髙麗國使人等還之丁夘爲天皇體不豫之三日誦經於大官大寺川原寺飛鳥寺因以稻納三寺各有差庚午化來髙麗人等賜祿各有差冬十月癸酉朔丙子百濟僧常輝封三十戸是僧壽百歲庚辰遣百濟僧法藏優婆塞益田金鍾於美濃令並白朮因以賜絁綿布壬午遣輕部朝臣足瀬髙田首新家荒田尾連麻呂於信濃令造行宮蓋擬幸束間温湯歟甲申以淨大肆泊瀬王直廣肆巨勢朝臣馬飼判官以下幷二十人任於畿內之役已丑伊勢王等亦向于東國因以賜衣袴是月說金剛般若經於宮中十一月癸夘朔甲辰儲用鐵一万斤送於周芳倊令所(是日)筑紫大掌(宰)請儲用物絁一百疋絲一百斤布三百端庸布四百常鐵一万斤箭竹二千連送下於筑紫丙午詔四方國曰大角小角鼓吹幡旗及弩?(扌尢:抜:抛)之類不應存私家咸收于郡家戊申幸白錦後菀丙寅法藏法師金鍾獻白朮煎是日爲天皇招魂之已巳新羅遣波弥(珍)飡金智祥大阿飡金健勳請政仍進調十二月壬申朔乙亥遣筑紫防人等飄蕩海??』中皆失衣裳則爲防人衣服以布四百五十端給下於筑紫辛巳自西發之地震丁亥絁綿布以施大官大寺僧等庚寅皇后命以王卿等五十五人賜朝服各一具

【九月の朔が甲辰の壬子の日に、天皇は、旧宮の御殿の庭で宴会をした。この日に、皇太子以下、忍壁皇子までに、布を与え各々差が有った。甲寅の日に、宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王を京及び畿内に派遣して、各々の労役の兵士を視察させた。戊午の日に、直廣肆の都努の朝臣の牛飼を東海の使者とした。直廣肆の石川の朝臣の蟲名を東山の使者とした。直廣肆の佐味の朝臣の少麻呂を山陽の使者とした。直廣肆の巨勢の朝臣の粟持を山陰の使者とした。直廣參の路の眞人の迹見を南海の使者とした。直廣肆の佐伯の宿禰の廣足を筑紫の使者とした。各々判官一人・書記一人がついて、国司・郡司及び百姓の消息を視察させた。この日に、「全ての諸々の歌を歌う男女・笛を吹く者は、すなわち自分の子孫に伝承して、歌や笛を習せなさい」と詔勅した。辛酉の日に、天皇は、大安殿にいて、王や公卿達を御殿の前に呼んで、賭けをさせた。この日に、宮處王・難波王・竹田王・三國の眞人の友足・縣犬養の宿禰の大侶・大伴の宿禰の御行・境部の宿禰の石積・多の朝臣の品治・采女の朝臣の竹羅・藤原の朝臣の大嶋、十人に、出仕する衣と袴を与えた。壬戌の日に、皇太子以下及び諸王と公卿達、併せて四十八人に、ヒグマの皮・山羊の皮を与えた。各々差が有った。癸亥の日に、高麗の国に派遣した使者達が帰った。丁卯の日に、天皇は病を患ったため、三日通して経を大官大寺・川原寺・飛鳥で読経させた。それで稲を三寺に奉納させた。各々差が有った。庚午の日に、帰化した高麗人達に、禄を与え各各差が有った。冬十月の朔が癸酉の丙子の日に、百済の僧の常輝に三十戸を封じた。この僧は、目出たいことに百歳だった。庚辰の日に、百済の僧の法藏・優婆塞と益田の直の金鍾を美濃に派遣して、オケラを煎じさせた。それで太絹・綿・布を与えた。壬午の日に、輕部の朝臣の足瀬・高田の首の新家・荒田尾の連の麻呂を信濃に派遣して、行宮を造らせた。おそらく、束間の温泉に行幸したいのだろう。甲申の日に、淨大肆の泊瀬王・直廣肆の巨勢の朝臣の馬飼・判官以下、併せて二十人を、畿内の労役に任せた。己丑の日に、伊勢王達が、また東国に向う。それで、衣と袴を与えた。この月に、金鋼般若経を宮中で説教させた。十一月の朔が癸卯の甲辰の日に、備蓄の鉄一萬斤を、周芳の總令の所に送った。この日に、筑紫の大宰が、備蓄の物、太絹百匹・絲・百斤・布三百端・物納の布四百常・鉄一萬斤・箭の竹二千連を求めた。筑紫に送り下した。丙午の日に、四方の国に「大きい角笛・小さい角笛・鼓・笛・軍旗、及び石弓・投擲の武器のなどは、私邸においてはならない。すべて郡家に收めなさい」と詔勅した。戊申の日に、白錦の裏庭に行幸した。丙寅の日に、法藏法師・金鍾がオケラを煎じて献上した。この日に、天皇の為に招魂祭を行った。己巳の日に、新羅が、波珍飡の金智祥・大阿飡の金健勳を派遣して、政治の援助を求めた。それで年貢を進上した。十二月の朔が壬申の乙亥の日に、筑紫に派遣した防人達が、海に飲み込まれて漂流し、皆、衣服を失った。それで防人の衣服の為に、布四百五十八端を、筑紫に供給した。辛巳の日に、西地震が発生した。丁亥の日に、太絹・綿・布を大官大寺の僧達に施した。庚寅の日に、皇后の命令で、王や公卿達五十五人に、出仕する服を各々一具を与えた。】とあり、標準陰暦と合致する。

ここで記述される、685年初出の壬申の乱の功臣が710年頃までに何人も死亡して、これらの人々の年齢が50代で活躍したと考えられ、壬申の乱が670年なら、700年代に死亡するのは長命で少なくなければ理に適わず、年齢が低い従者などは696年持統十年「以直廣壹授多臣品治并賜物褒美元從之功與堅守關事」、「以直大壹贈若櫻部朝臣五百瀬并賜賻物以顯元從之功」と壬申の功に入れていない。

また、大伴宿祢御行は『続日本紀』701年大宝元年に「大納言正廣參大伴宿祢御行薨・・・御行難破朝右大臣大紫長徳之子也」と父が難波朝の右大臣だが、同時期の阿倍朝臣御主人が703年大宝三年「右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨」、732年天平四年「中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事阿倍朝臣廣庭薨右大臣從二位御主人之子也」、761年天平宝字五年「參議正四位下安倍朝臣嶋麻呂卒藤原朝右大臣從二位御主人之孫奈良朝中納言從三位廣庭之子也」と一代差29年で、標準的親子関係の年代差の20から30歳差に合致する。

御主人が686年朱鳥元年「直大參布勢朝臣御主人誄太政官事」と既に出世していて、675年天武天皇四年「小錦上大伴連御行爲大輔」が初出で30歳くらいで長徳も670年頃の死亡と考えられ、難波朝は650年代では不合理で、660年代まで続いたと考えられる。

ここでも、乙巳の変が664年に発生し、天皇が難波京で統治する蝦夷で、複数回の壬申の乱があったことを示している。

2021年2月12日金曜日

最終兵器の目 天武天皇25

  『日本書紀』慶長版は

「十四年春正月丁未朔戊申百寮拜朝庭丁夘更改爵位之号仍増加階級明位二階淨位四階毎階有大麈幷十二階以前諸王巳上之位正位四階直位四階勤位四階務位四階追位四階進位四階毎階有大廣幷四十八階以前諸臣之位是日草壁皇子尊授淨廣壹位大津皇子授淨大貳位髙市皇子授淨廣貳位川嶋皇子忍壁皇子授淨大參位自此以下諸王諸臣等増加爵位各有差二月丁丑朔庚辰大唐人百濟人髙麗人幷百四十七人賜爵位三月丙午朔己未饗金物儒於筑紫即從筑紫歸之仍流著新羅人七口附物儒還之辛酉京職大夫直大參巨勢朝臣辛檀努卒壬申詔諸國毎家作佛舍乃置佛像及經以禮拜供養是月灰零於信濃國草木皆枯焉夏四月丙子朔己夘紀伊國司言牟婁湯泉沒而不出也丁亥祭廣瀬龍田神壬辰新羅人金主山歸之庚寅始請僧尼安居于宮中五月丙午朔庚戌射於南門天皇幸于飛鳥寺以珍寶奉於佛而禮敬甲子直大肆粟田朝臣真人讓位于父然勅不聽矣是日直大參當麻真人廣麻呂卒以壬申年之功贈直大壹位辛未髙向朝臣麻呂都努朝臣牛飼等至自新羅乃學問僧觀常雲觀從至之新羅王獻物馬二疋犬三頭鸚鵡二隻鵲二隻及種々寶物六月乙亥朔甲午大倭連葛城連凡川內連山背連難波連紀酒人連倭漢連河內漢連秦連大隅直書連幷十一氏賜姓曰忌寸秋七月乙巳朔乙丑祭廣瀬龍田神庚午勅定明位巳下進位已上之朝服色淨位已上並著朱華(朱華此云波泥孺)正位深紫直位浅紫勤位深緑務位淺緑追位深蒲萄進位淺蒲萄辛未詔曰東山道美濃以東東海道伊勢以東諸國有位人等並免課役八月甲戌朔乙酉天皇幸于淨土寺丙戌幸于川原寺施稻於衆僧癸巳遣耽羅使人等還之」

【十四年の春正の朔が丁未の戊申の日に、役人が、朝庭で拝礼した。丁卯の日に、さらに爵位の名を改めた。なお、階級を増加した。明位二階、淨位四階、階毎に大廣が有り併せて十二階。これまでは諸王以上の位だ。正位四階、直位四階、勤位四階、務位四階、追位四階、進位四階、階毎に大廣が有り併せて四十八階。これまでが臣下の位だ。この日に、草壁皇子の尊に淨廣壹の位を授けた。大津皇子に淨大貳の位を授けた。高市皇子に淨廣貳の位を授けた。川嶋皇子・忍壁皇子に淨大參の位を授けた。これ以下の諸王・臣下達に爵位を加増し各々差が有った。二月の朔が丁丑の庚辰の日に、大唐人・百済人・高麗人、併せて百四十七人に爵位を与えた。三月の朔が丙午の己未の日に、金物儒を筑紫で饗応して筑紫から帰った。それで、漂着した新羅人七人を、物儒に従わせて返した。辛酉の日に、京職の大夫の直大參の許勢の朝臣の辛檀努か死んだ。壬申の日に、「諸国の家毎に、佛舍を作って、それで佛像及び経典を置いて、礼拝や供養をしなさい」と詔勅した。この月に、灰が、信濃の国に降った。草木が皆枯れた。夏四月の朔が丙子の己卯の日に、紀伊の国司が、「牟婁の温泉が、埋まってしまって湯が出ない」と言った。丁亥の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。壬辰の日に、新羅人の金主山が帰った。庚寅の日に、はじめて(?以前実行)僧尼に頼んで、宮中で長期の修行を行った。五月の朔が丙午の庚戌の日に、南門で矢を射る儀式を行った。天皇は、飛鳥寺に行幸して、珍宝を佛に奉納して礼をもって敬まった。甲子の日に、直大肆の粟田の朝臣の眞人が、位を父に讓った。しかし詔勅で許さなかった。この日に、直大參の當麻の眞人の廣麻呂が死んだ。壬申年の功績で、直大壹の位を贈った。辛未の日に、高向の朝臣の麻呂・都努の朝臣の牛飼達が、新羅から帰った。それで學問僧の觀常・靈觀、が一緒に着いた。新羅王の献上物は、馬二匹・犬三頭・オウム二隻・カササギ二隻及び種々の物が有った。六月の朔が乙亥の甲午の日に、大倭の連・葛城の連・凡川内の連・山背の連・難波の連・紀の酒人の連・倭の漢の連・河内の漢の連・秦の連・大隅の直・書の連、併せて十一氏に、姓を与えて忌寸と言った。秋七月の朔が乙巳の乙丑の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。庚午の日に、詔勅して明位より下、進位より上の出仕するときに着用する服の色を決めた。淨位より上は、みな白みを帯びた紅色を着て正位は濃い紫、直位は薄い紫、勤位は濃い緑、務位は薄い緑、追位は濃い赤紫、進位は薄い赤紫を着る。辛未の日に、「東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国の位が有る人達は、皆、課役を免除しなさい」と詔勅した。八月の朔が甲戌の乙酉の日に天皇は、淨土寺に行幸した。丙戌の日に、川原寺に行幸した。稲を僧達に施した。癸巳の日に、耽羅に派遣した使者達が帰った。】とあり、三月丙午朔は2月30日で、筑紫での饗応記事と筑紫から帰っているので畿内朝廷の説話にも関わらず、筑紫の暦で、それ以外は標準陰暦と合致する。

持統十年に「五月壬寅朔甲辰詔大錦上秦造綱手賜姓爲忌寸」と696年の記事に大錦上が記述されていて、この朔の日干支が5月2日、4月の晦日が29日と、都督府の暦で記述されて、都督府ではまだ古い冠位を使っていたか、690年代末に大化年間に冠位を変えた可能性がある。

『続日本紀』で始めて史書に記述された臣下が死亡するまでの間隔を検証すると、概ね20年で長くなると散位という無役の冠位を記述していて、50歳を過ぎると引退しているようだ。

例えば不比等の長男武智麻呂は705年に「正六位上・・藤原朝臣武智麻呂」、720年「右大臣正二位藤原朝臣不比等薨」と61歳で死んだ父の死亡15年前に初授して約30年後に57歳で死亡している。

そして724年「正六位下・・・藤原朝臣豊成」、737年「武智麻呂贈太政大臣」、とその長男の豊成は父の死亡の14年前に初授が有って、765年「右大臣從一位藤原朝臣豊成薨」と初授から約40年後に62歳で死亡している。

そして、武智麻呂の次男の押勝は734年「正六位下藤原朝臣仲麻呂並從五位下」、764年59歳「軍士石村村主石楯斬押勝傳首京師」と30歳に初加増、790年に死亡した佐伯宿祢今毛人も死亡時80歳で711年景雲二年に「賀正之宴有詔特侍殿上」と登用されていることから、一人前とみられるのはやはり20歳位で、初授が20代が一般的で、20年くらい務めて50歳前後で死亡して、子は父が40代で朝廷につかえている。

すなわち、これは『日本書紀』の小野妹子達も同じで、607年の訪唐は有り得ず、640年代が正しい時期だと証明される。


2021年2月10日水曜日

最終兵器の目 天武天皇24

  『日本書紀』慶長版は

「十月己夘朔詔曰更改諸氏之族姓作八色之姓以混天下万姓一曰真人二曰朝臣三(曰)宿祢四曰忌寸五曰道師六曰臣七曰連八曰稻置是日守山公路公髙橋公三國公當麻公茨城公丹比公猪名公坂田公羽田公息長公酒人公(山道公)十三氏賜姓曰真人辛己遣伊勢王等定諸國堺是日縣犬養連手繦爲大使川原連加尼爲小使遣耽羅壬辰逮于人定大地震舉國男女叫唱不知東西則山崩河?(涌:マ→尸)諸國郡官舍及百姓倉屋寺塔神社破壞之類不可勝數由是人民及六畜多死傷之時伊豫湯泉沒而不出土左國田菀五十餘万頃沒爲海古老曰若是地動未曽有也是夕有鳴聲如鼓聞于東方有人曰伊豆嶋西北二面自然増益三百餘丈更爲一嶋則如鼓音者神造是嶋響也甲午諸王卿等賜祿十一月戊申朔大三輪君大春日臣阿倍臣巨勢臣膳臣紀臣波多臣物部連平群臣雀部臣中臣連大宅臣栗田臣石川臣櫻井臣采女臣田中臣小墾田臣穗積臣山背臣鴨君小野臣川邊臣櫟井臣柿本臣輕部臣若櫻部臣岸田臣髙向臣完人臣來目臣犬上君上毛野君角臣星川臣多臣胸方君車持君綾君下道臣伊賀臣阿閇臣林臣波祢臣下毛野君佐味君道守臣大野君坂本臣池田君玉手臣笠臣凡五十二氏賜姓曰朝臣庚戌土左國司言大潮髙騰海水飄蕩由是運調舩多舩多投失焉戊辰昏時七星倶流東北則隕之庚午日沒時星隕東方大如瓮逮于戌(時)天文悉亂以星隕如雨是月有星孛于中央與昴星雙而行之及月盡失焉是年詔伊賀伊勢美濃尾張四國自今以後調年免役々年免調倭葛城下郡言有四足鶏亦丹波國氷上郡言有十二角犢十二月戊寅朔巳夘大伴連佐伯連阿曇連忌部連尾張連倉連中臣酒人連土師連掃部連境部連櫻井田部連伊福部連巫部連忍壁連草壁連三宅連兒部連手繦丹比連靫丹比連漆部連大湯人連若湯人連弓削連神服部連額田部連津守連縣犬養連稚犬養連玉祖連新田部連倭文連氷連凢海連山部連矢集連狹井連爪工連阿刀連茨田連田目連少子部連菟道連猪使連海犬養連間人連舂米連美濃連諸會臣布留連五十氏賜姓曰宿祢癸未大唐學生土師宿祢甥白猪史寶然及百濟役時沒大唐者猪使連子首筑紫三宅連得許傳新羅至則新羅遣大奈末金物儒送甥等於筑紫庚寅除死刑以下罪人皆咸赦焉」

【冬十月の己卯が朔の日に、「更に諸氏一族の姓を改めて、八種の姓を作って、天下の多くの姓を一緒にした。第一に、眞人。第二に、朝臣。第三に、宿禰。第四に、忌寸。第五に、道師。第六に、臣。第七に、連。第八に、稻置」と詔勅した。この日に、守山の公・路の公・高橋の公・三國の公・當麻の公・茨城の公・丹比の公・猪名の公・坂田の公・羽田の公・息長の公・酒人の公・山道の公、十三氏に、姓を与えて眞人と言った。辛巳の日に、伊勢王達を派遣して、諸国の境界を決めた。この日に、縣犬養の連の手繦を大使とし、川原の連の加尼を小使として、耽羅に派遣した。壬辰の日に、人が寝静まる十時ころになって、大地震が有った。国中で男女が悲鳴を上げて叫び、右往左往した。それで山が崩れ液状化が起こった。諸国の郡の官舍、及び百姓の納屋や家屋、寺塔や神社など、倒壊したものは数え切れなかった。これによって、人民及び家畜が、多数死傷した。その時に伊豫の温泉が沈み込んで湯が出なかった。土左の国の田畑五十萬余くらい、津波に沈んだ。古老が「このように地面が動いたことは、未だかってなかった」と言った。この夕に、太鼓のような音が鳴って、東方で聞こえた。ある人が 、「伊豆の嶋の西北に、二方面に、自然に地面が、三百丈余増えた。一つの嶋となった。すなわち太鼓の音の様だったのは、神がこの嶋を造った響だ。」と言った。甲午の日に、諸王や公卿達に禄を与えた。十一月の戊甲が朔の日に、大三輪の君・大春日の臣・阿倍の臣・巨勢の臣・膳の臣・紀の臣・波多の臣・物部の連・平群の臣・雀部の臣・中臣の連・大宅の臣・粟田の臣・石川の臣・櫻井の臣・采女の臣・田中の臣・小墾田の臣・穗積の臣・山背の臣・鴨の君・小野の臣・川邊の臣・櫟井の臣・柿本の臣・輕部の臣・若櫻部の臣・岸田の臣・高向の臣・宍人の臣・來目の臣・犬上の君・上毛野の君・角の臣・星川の臣・多の臣・胸方の君・車持の君・綾の君・下道の臣・伊賀の臣・阿閉の臣・林の臣・波彌の臣・下毛野の君・佐味の君・道守の臣・大野の君・坂本の臣・池田の君・玉手の臣・笠の臣・全て五十二氏に、姓を与えて朝臣という。庚戌の日に、土左の国司が「津波で海が高く持ち上がって、海水で船が流されて損壊した。このため、年貢を運ぶ船が、多数流されて失った」と言った。戊辰の日の日暮れ時に、七つの星が、一緒に東北へ流れて隕ちた。庚午の日の日沒の時に、星が、東の方角に隕ちた。大きさは甕の様だった。戌の時8時頃になって、天体が残らず乱れて、星が雨のように隕ちた。この月に、星が有って、中央が光り輝いていた。スバルが並んで行った。晦日(新月なので本来は1日)になって消えた。この年に、「伊賀・伊勢・美濃・尾張の、四国は、今以後、年貢の年に課役を免除し、課役の年に年貢を免除しなさい」と詔勅した。倭の葛城の下の郡が、「四足の鷄がいた」と言った。また丹波の国の氷上の郡が、「十二の角がある子牛がいた」と言った。十二月の朔が戊寅の己卯の日に、大伴の連・佐伯の連・阿曇の連・忌部の連・尾張の連・倉の連・中臣の酒人の連・土師の連・掃部の連・境部の連・櫻井の田部の連・伊福部の連・巫部の連・忍壁の連・草壁の連・三宅の連・兒部の連・手繦の丹比の連・靫の丹比の連・漆部の連・大湯人の連・若湯人の連・弓削の連・神服部の連・額田部の連・津守の連・縣犬養の連・稚犬養の連・玉祖の連・新田部の連・倭文の連・氷の連・凡海の連・山部の連・矢集の連・狹井の連・爪工の連・阿刀の連・茨田の連・田目の連・少子部の連・菟道の連・小治田の連・猪使の連・海犬養の連・間人の連・舂米の連・美濃矢集の連・諸會の臣・布留の連五十氏に、姓を与えて宿禰という。癸未の日に、大唐の學生の土師の宿禰の甥・白猪の史の寶然、及び百済の役の時に大唐で死んだ者の猪使の連の子首・筑紫の三宅の連の得許が、新羅の伝手で着いた。それで新羅は、大奈末の金物儒を派遣して、甥達を筑紫に送った。庚寅の日に、死刑を除いてそれ以外の罪人を、皆、残らず赦免した。】とあり、標準陰暦と合致すし、十月己卯朔は前月が大の月、十一月戊申朔は前月が小の月、十二月戊寅朔が前月が大の月と畿内での記述の可能性が高、四国から伊豆に至るまでの東南海地震の様子が記述されている。

八色の姓の記事だが、『小野毛人墓誌』に「大錦上小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と677年に死亡した小野毛人に朝臣姓があり、子が持統九年「賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野」、文武四年「直廣參小野朝臣毛野爲大貳」、大宝二年「從四位下・・・小野朝臣毛野令參議朝政」、慶雲二年「以正四位上小野朝臣毛野爲中務卿」、慶雲四年「正四位上小野朝臣毛野・・・供奉殯宮事」、和銅元年「正四位上小野朝臣毛野・・・爲中納言」、和銅二年「正四位上小野朝臣毛野並從三位」、和銅七年「中納言從三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨小治田朝大徳冠妹子之孫小錦中毛人之子也」と記述される。

小野氏は遣唐使の時期の証明にも使用したが、毛人と毛野の死亡時期から、妹子は650年頃に死亡、677年死亡の毛人、714年死亡の毛野なら、650年でも早く、三代とも長寿すぎてしまうので、父の毛人死亡後、毛野の初授と思われる16番目の冠位直廣肆に間が有り毛人は早死にと考えられる。

684年に姓を変えたなら「天渟中原瀛眞人」自体に矛盾が生じ、天武天皇は諸王の地位で眞人だった人物が皇位に就いたのだから、もし大海皇子のこととすれば、671年以前に八色の姓を施行したことになる。

同じ事が682年天武天皇十一年の「筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘」と記述され、これらから、八色の姓は天智天皇が即位して間もなく669年頃に公布された可能性が高く、天渟中原瀛眞人は息長足日廣額の子なので、息長公で眞人で理に適う。


2021年2月8日月曜日

最終兵器の目 天武天皇23

  『日本書紀』慶長版は

「十三年春正月甲申朔庚子三野縣主內藏衣縫造二氏賜姓曰連丙午天皇御于東庭群卿侍之時召能射人及侏儒左右舍人等射之二月癸丑朔丙子饗金主山於筑紫庚辰遣淨廣肆廣瀬王小錦中大伴連安麻呂及判官錄事陰陽師工匠等於畿內令視占應都之地是日遣三野王小錦下采女臣筑羅等於信濃令看地形將都是地歟三月癸未朔庚寅吉野人宇閇直弓貢白海石榴辛夘天皇巡行於京師而定宮室之地乙巳金主山歸國夏四月壬子朔丙辰徒罪以下皆免之甲子祭廣瀬大忌神龍田風神辛未小錦下髙向臣麻呂爲大使小山下都努臣牛甘爲小使遣新羅閏四月壬午朔丙戌詔曰來年九月必閲之因以教百寮之進止威儀又詔曰几政要者軍事也是以文武官諸人務習用兵及乗馬則馬兵幷當身裝束之物務具儲足其有馬者爲騎士無馬者爲步卒並當試練以勿鄣於聚會若忤詔旨有不便馬兵亦裝束有闕者親王以下逮于諸臣並罰之大山位以下者可罰々之可杖々之其務習以能得業者若雖死罪則咸二等唯恃已才以故犯者不在赦例又詔曰男女並衣服者有襴無襴及結紐長紐任意服之其會集之日着襴衣而著長紐唯男子者有圭冠冠而著括緖褌女年四十以上髮之結不結及乗馬縱横並任意也別巫祝之類不在結髮之例壬辰三野王等進信濃國之啚丁酉設齋于宮中因以赦有罪舍人等乙巳坐飛鳥寺僧福揚以入獄庚戌僧福揚自刺頸而死五月辛亥朔甲子化來百濟僧尼及俗人男女幷二十三人皆安置于武藏國戊寅三輪引田君難波麻呂爲大使桑原連人足爲小使遣髙麗六月辛巳朔甲申雩之秋七月庚戌朔癸丒幸于廣瀬戊午祭廣瀬龍田神壬申彗星出于西北長丈餘冬」

【十三年の春正月の朔が甲申の庚子の日に、三野の縣主・内藏の衣縫の造の二氏に、姓を与えて連という。丙午の日に、天皇は、東の庭にいた。公卿が近くにいた。その時に、上手く弓を射る人及び侏儒と・側近くに使える護衛達を呼んで弓を射させた。二月の朔が癸丑の丙子の日に、金主山を筑紫で饗応した。庚辰の日に、淨廣肆の廣瀬王・小錦中の大伴の連の安麻呂、及び判官・書記・陰陽師・技術者たちを畿内に派遣して、都をつくる適地を視察させ占わせた。この日に、三野王・小錦下の采女の臣の筑羅達を信濃に派遣して、地形を視察させた。この土地に都ろうとしたのだろうか。三月の朔が癸未の庚寅の日に、吉野の人の宇閉の直の弓が、白い椿を貢上した。辛卯の日に、天皇は、京師を巡行して、宮室の土地を定めた。乙巳の日に、金主山が国に帰った。夏四月の朔が壬子の丙辰の日に、労役以下を皆、赦免した。甲子の日に、廣瀬の大忌の神・龍田の風の神を祭った。辛未の日に、小錦下の高向の臣の麻呂を大使として、小山下の都努の臣の牛甘を小使として、新羅に派遣した。閏四月の朔が壬午の丙戌の日に、「来年の九月に、必ず調査する。それで役人の進退・規律を教えなさい」と詔勅した。また「全ての政治の要は軍事だ。それで、文武官の人々も、いつも兵器の持ち歩いて、乗馬を習いなさい。それで馬・武器、併せて身に着ける裝束の物を、いつも良く調べて足りなかったら備えに足しなさい。それで馬が有る者を騎士としなさい。馬が無い者を歩兵としなさい。さらによく訓練して、集まるのに支障が有ってはならない。もし詔勅の趣旨を違えて、馬や武器に不備が有って、また裝束に足りないものが有ったら、親王以下、諸臣にいたるまで、みな罰する。大山位以下は、処罰するべきは処罰し、杖打ちに相当すれば杖打ちに処する。それでいつも訓練して優秀な者は、もし死罪となっても、二等を減刑する。ただし自分の能力を使って犯した者のみは、赦さない」と詔勅した。また 又「男女ともに衣服は、裾付きのあるなし及び結い紐や長紐の使用も、自由に着なさい。それで集まる日は、裾付きの衣を着て長紐をつけなさい。ただし男子のみは、圭冠(はしはこうぶり)が有れば着けて、紐で括った袴を着なさい。女の年齢四十以上は、髮を結っても結わなくとも、及び馬に乗る向き、どれも自由でよい。別に巫女などは、髮を結わなくても良い」と詔勅した。壬辰の日に、三野王達が、信濃の国の地図を進上した。丁酉の日に、宮中で法会を開いた。それで罪人の下男たちを赦免した。乙巳の日に、飛鳥寺の僧の福楊を牢獄に入れた。庚戌の日に、僧の福楊が、自ら頚を刺して死んだ。五月の朔が辛亥の甲子の日に、帰化した百済の僧尼及び俗人の男女併せて二十三人が、皆で武藏の国に移り住んだ。戊寅の日に、三輪の引田君の難波麻呂を大使とし、桑原の連の人足を小使として、高麗に派遣した。六月の朔が辛巳の甲申の日に、雨乞いした。秋七月の朔が庚戌の癸丑の日に、廣瀬に行幸した。戊午の日に、廣瀬・龍田の神を祭った。壬申の日に、彗星が西北に出た。長さ一丈余だった。】とあり、正月甲申朔は1月2日で前月は小の月、四月壬子朔は3月30日、五月辛亥朔は閏4月30日、それ以外は標準陰暦と合致する。

閏四月壬午朔は前月が小の月、六月辛巳朔も前月が小の月、秋七月庚戌朔も前月が小の月で都督府や筑紫の暦で、饗応も筑紫で行い、飛鳥寺も筑紫の明日香にある寺の可能性が有る。

神武天皇が高尾張で土蜘蛛と戦ったが「髙尾張邑有土蜘蛛其爲人也身短而手足長與侏儒相類皇」と土蜘蛛は身長が低くて侏儒のようと記述し、神功皇后が「轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛」と筑後の山門に土蜘蛛の田油津媛すなわち侏儒の田油津媛を誅殺したが、築後には侏儒の土蜘蛛の一族がまだ残り、この天武紀に記述されていて、筑紫での出来事と理解できる。

高向臣麻呂は天武天皇十年に12番目の地位の小錦下位授与が初出で天武天皇十四年新羅から帰国後全く記述されず、『続日本紀』に大宝二年に同じく12番目の地位の「從四位上高向朝臣麻呂」と地位が変化せず、慶雲二年に「正四位下・・・高向朝臣麻呂」、和銅元年「正四位上高向朝臣麻呂從三位・・・從三位高向朝臣麻呂爲攝津大夫」、和銅元年「攝津大夫從三位高向朝臣麻呂薨」と順調に数年おきに出世して、天武10年と大宝2年が同時期と考えられる。

2021年2月5日金曜日

最終兵器の目 天武天皇22

 『日本書紀』慶長版は

十二年春正月已丑朔庚寅百寮拜朝廷筑紫大宰丹比真人嶋等貢三足雀乙未親王以下及群卿喚于大極殿前而宴之仍以三足雀示于群臣丙午詔曰明神御大八洲日本根子天皇勅命者諸國司國造郡司及百姓等諸可聽矣朕初登鴻祚以來天瑞非一二多至之傳聞其天瑞者行政之理協于天道則應之是今當于朕世毎年重至一則以懼一則以嘉是以親王諸王及群卿百寮幷天下黎民共相歡也乃小建以上給祿各有差因以大辟罪以下皆赦之亦百姓課役並免焉是日奏小墾田儛及髙麗百濟新羅三國樂於庭中二月巳未朔大津皇子姶聽朝政三月戊子朔已丒任僧正僧都律師因以勅曰統領僧尼如法云云丙午遣多祢使人等返之夏四月戊午朔壬申詔曰自今以後必用銅錢莫用銀銭乙亥詔曰用銀莫止戊寅祭廣瀬龍田神六月丁巳朔已未大伴連望多薨天皇大驚之則遣泊瀬王而?(弔)之仍舉壬申年勳績及先祖等毎時有功以顯寵賞乃贈大紫位發鼓吹葬之壬戌三位髙坂王薨秋七月丙戌朔己丒天皇幸鏡姫王之家訊病庚寅鏡姫王薨是夏始請僧尼安居于宮中因簡淨行者三十人出家庚子雩之癸夘天皇巡行干京師乙巳祭廣瀬龍田神是月始至八月旱之百濟僧道藏雩之得雨八月丙辰朔庚申大赦天下大伴連男吹負卒以壬申年之功贈大錦中位九月乙酉朔丙戌大風丁未倭直栗隈首水取造矢田部造藤原部造刑部造福草部造凢河內直川內漢直物部首山背直葛城直殿服部造門部直錦織造縵造鳥取造來目舍人造檜隈舍人造大狛造秦造川瀬舍人造倭馬飼造川內馬飼造黃文造蓆集造勾筥作造石上部造財日奉造埿部造穴穗部造白髮部造忍海造羽束造文首小泊造百濟造語造凢三十八氏賜姓曰連冬十月乙夘朔巳未三宅吉士草壁吉士泊耆造舩史壹伎史娑羅々馬飼造菟野馬飼造吉野首紀酒人直采女造阿直史髙市縣主磯城縣主鏡作造幷十四氏賜姓曰連丁夘天皇狩于倉梯十一月甲申朔丁亥洽諸國習陣法丙申新羅遣沙飡金主山大那末金長志進調十二月甲寅朔丙寅遣諸王五位伊勢王大錦下羽田公八國小錦下多臣品洽小錦下中臣連大嶋幷判官錄史工匠者等巡行天下限分諸國之境堺然是年不堪限分庚午詔曰諸文武官人及畿內有位人等四孟月必朝參若有死病不得集者當司具記申送法官又詔曰凡都城宮室非一處必造兩參故先欲都難波是以百寮者各往之請家地十

【十二年の春正月の朔が己丑の庚寅の日に、役人が、朝庭で拝礼した。筑紫の大宰の丹比の眞人の嶋達が、三本足の雀を貢上した。乙未の日に、親王以下公卿までに、大極殿の前に呼び集めて、宴会を開いた。それで三本足の雀を、群臣に示した。丙午の日に、明神御大八洲倭根子天皇の勅命を、諸々の国司と国造と郡司と百姓達は、皆聞きなさい。私は、皇位を継承してからこれまで、天が与えた目出たいしるしは一つや二つではなくたくさん与えられた。聞いたところ、天が与えた目出たいしるしは、政治を行う道理が、天の道に適えば、応えてくれる。今、私の治世では毎年いくつも与えられた。或る時は慎み、或る時は喜んだ。そのため、親王と諸王及び公卿と役人、併せて天下の人々、共に喜び合った。それで小建以上に、禄を各差をつけて与えた。それで死罪以下、皆、赦免した。また百姓の労役を一緒に免除すると詔勅した。この日に、小墾田の舞及び高麗・百済・新羅の、三国の楽を庭の中で演奏した。二月の己未が朔の日に、大津皇子が、はじめて朝廷の政務に着いた。三月の朔が戊子の己丑の日に、僧正・僧都・律師を任命した。それで「僧尼をまとめおさめることは、法のとおりにしなさい」と詔勅した、云云。丙午の日に、多禰に派遣した使者達が帰った。夏四月の朔が戊午の壬申の日に、「今以後、必ず銅銭を用いなさい。銀銭を用いてはならない」と詔勅した。乙亥の日に、「銀銭を用いることを止めなくてもよい」と詔勅した。戊寅の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行う。六月の朔が丁巳の己未の日に、大伴の連の望多が薨じた。天皇は、大変驚いて、泊瀬王を派遣して弔問させた。なお、壬申年の勲功及び先祖達の時代毎の功績を挙げて、目に見える恩賞と大紫の位を贈って、鼓と笛を鳴らして葬った。壬戌の日に、三位の高坂王が薨じた。秋七月の朔が丙戌の己丑の日に、天皇は、鏡姫王の家に行幸して、病状を聞いた。庚寅の日に、鏡姫王が薨じた。この夏に、僧尼に頼んで、はじめて宮中で安居の修行をさせた。それで仏の教えを信じている者三十人を選んで出家させた。庚子の日に、雨乞いした。癸卯の日に、天皇は、都を巡行した。乙巳の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。この月から八月まで、雨が降らなかった。百済の僧の道藏が雨ごいしたら雨が降った。八月の朔が丙辰の庚申の日に、天下のすべての罪を赦免した。大伴の連の男吹負が死んだ。壬申年の功績で、大錦中の位を贈った。九月の朔が乙酉の丙戌の日に、強風が吹いた。丁未の日に、倭の直・栗隅の首・水取の造・矢田部の造・藤原部の造・疽部の造・福草部の造・凡河内の直・川内の漢の直・物部の首・山背の直・葛城の直・殿服部の造・門部の直・錦織の造・縵の造・鳥取の造・來目の舍人の造・桧隈の舍人の造・大狛の造・秦の造・川瀬の舍人の造・倭の馬飼の造・川内の馬飼の造・黄文の造・蓆集の造・勾の筥作の造・石上部の造・財の日奉の造・泥部の造・穴穗部の造・白髮部の造・忍海の造・羽束の造・文の首・小泊瀬の造・百済の造・語の造、全て三十八の氏に、姓を与えて連と言った。冬十月の朔が乙卯の己未の日に、三宅の吉士・草壁の吉士・伯耆の造・船の史・壹伎の史・娑羅羅の馬飼の造・菟野の馬飼の造・吉野の首・紀の酒人の直・采女の造・阿直の史・高市の縣主・磯城の縣主・鏡作の造、併せて十四の氏に、姓を与えて連と言った。丁卯の日に、天皇は、倉梯で狩りを行った。十一月の朔が甲申の丁亥の日に、諸国に戦法を習わせた。丙申の日に、新羅が、沙飡の金主山・大那末の金長志を派遣して、年貢を進上した。十二月の朔が甲寅の丙寅の日に、諸王の五位の伊勢王・大錦下の羽田公の八國・小錦下の多臣の品治・小錦下の中臣の連の大嶋、併せて判官・史官・技術者たちを派遣して、天下を巡行した、諸国の国境を決めた。しかしこの年に、決められなかった。庚午の日に、「諸々の武官と分官及び畿内の位が有る人達は、四季の始めの月に、必ず朝廷に来内しなさい。もし死んだり病気で、集まれない場合は、担当の役所に、詳しく記録して、司法官に申し送りなさい」と詔勅した。また「全ての都城や宮室は、一つでは足りないので、必ず二つが三つ造る。それで、まず難波に都を造ろうと思う。それで、役人達、各々行って家を建てる土地を願い出なさい」と詔勅した。】とあり、三月戊子朔は2月30日で筑紫の暦で、他は標準陰暦と合致し、郭務悰も帰国し、大化の改新が行われた記述と思われる。

明神御大八洲倭根子天皇の言葉は、『続日本紀』の文武元年八月「現御神〈止〉大八嶋國所知倭根子天皇命授賜」と慶雲四年七月「天皇即位於大極殿詔曰現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命」と天皇即位の記述で、元明天皇の即位は大八洲ではなく八洲で、元明天皇は日本根子天津御代豊国成姫で大が付加されず、大を付加されるのは持統天皇で、大倭根子天之廣野日女尊と名前に対応し、すると、文武天皇の即位の大八嶋國所知倭根子は文武天皇の名が倭根子豊祖父で大が付加されないことから持統天皇の即位を『続日本紀』が記述していることになってしまう。

『続日本紀』で唐に遣使して「大倭國」と自称していて、天皇名に日本が付加されるのは元明天皇からで、それまでは大倭の天皇で、元明天皇の時に統一朝廷が完成したことを示し、大長の元号が終わるのは元明朝である。

また、元号がこの年に白鳳から朱雀に代わっていて、661年から長く続いた元号が、670年の日本建国の時も変わらなかった元号が変わっていて、名実ともに日本国の建国を述べ、そこに、持統天皇の即位を当て嵌めている。


2021年2月3日水曜日

最終兵器の目 天武天皇21

  『日本書紀』慶長版は

「八月壬戌朔令親王以下及諸臣各俾申法式應用之事甲子饗髙麗客於筑紫是夕昏時大星自東度西丙寅造法令殿內有大虹壬申有物形如灌頂幡而火色浮空流北毎國皆見或曰入越海是日白氣起於東山其大四圍癸酉大地動戊寅亦地震是日平且有虹當于天中央以向日甲戌筑紫大宰言有三足雀癸未詔禮儀言語之狀且詔曰凢諸應考選者能撿其族姓及景迹方後考之若雖景迹行能灼然其族姓不定者不在考選之色已丑勅爲日髙皇女之病大辟罪以下男女幷一百九十八人皆赦之庚寅百四十餘人出家於大官大寺九月辛夘朔壬辰勅自今以後跪禮匍匐禮並止之更用難波朝庭之立禮庚子日中數百鸖當大宮以髙朔(翔)於空四剋而皆散冬十月辛酉朔戊辰大餔十一月庚寅朔乙巳詔曰親王諸王及諸臣至于庶民悉可聽之凡糺彈犯法者或禁省之中或朝廷之中其於過失發處即隨見隨聞無匿弊而糺彈其有犯重者應請則請當捕則捉若對捍以不見捕者起當處兵而捕之當杖色乃杖一百以下節級決之亦犯狀灼然欺言無罪則不伏辨以爭訴者累加其本罪十二月庚申朔壬戌詔曰諸氏人等各定可氏上者而申送亦其眷族多在者則分各定氏上並申送於官司然後斟酌其狀而處分之因承官判唯因少故而非巳族者輙莫附」

【八月の壬戌が朔の日に、親王以下及び諸臣に令じて、各々の決まった作法を用いる事を申しつけた。甲子の日に、高麗の客を筑紫で饗応した。この夕の昏時に、大きい星が、東から西に渡っていった。丙寅の日に、法令を造っている殿内に大きな虹(虹色に光る蛇)が出た。壬申の日に、解らない物(?)が有って、形は灌頂の儀式に使う旗のようで、燃えているような色だった。空に浮んで北に流れた。国中で皆が見た。ある人は「越の海に落ちた」と言った。この日に、白い蒸気が、東の山に起った。その大きさは四圍だった。癸酉の日に、大きな地震が有った。戊寅の日に、また地震が有った。この日の午前四時ごろに、虹が出て、天の中央で、太陽に対峙していた。甲戌の日に、筑紫の大宰が「三足の雀がいた」と言った。癸未の日に、言葉遣いの作法を詔勅した。また、「全て諸事を選考する者は、よくその氏姓及び行状を調べて、その後で決めなさい。たとえ行状が著しく良くとも、その氏姓が解らなくては、選考に値しない」と詔勅した。己丑の日に、日高皇女が病気の為、死罪以下の男女併せて百九十八人、皆、赦免した。庚寅の日に、百四十余人が、大官大寺で出家した。九月の朔が辛卯の壬辰の日に、「今以後、土下座などはやめなさい。それで難波朝庭の立ったままの礼を用いなさい」と詔勅した。庚子の日の日中に、数百の鶴が、大宮の空高く飛んだ。2時間ぐらいで散り散りになった。冬十月の朔が辛酉の戊辰の日に、大規模な晩餐会を開いた。十一月の朔が庚寅の乙巳の日に、「親王・諸王及び諸臣から、庶民に至るまで、残らず聞きなさい。全ての法を犯した者を糾弾するときは、宮中の役所の中でも、朝庭の中でも、その過失が起こった所で、すぐに見聞きして隠すことが無いように糾弾しなさいさい。重罪を犯した者には言うべきことは言わせてから、捕らえなければならなかったら、拘束しなさい。もし逆らい拒んで捕えられなかったら、担当の兵士を使って捕らえなさい。杖打ちに相当したら、杖打ち百回より以下の罪の軽重によって決めなさい。また、犯した状況が明白なのに、騙して無罪だと言って、嘘で隠す者は、元の罪の罰にさらに加えて罰しなさい。十二月の朔が庚申の壬戌の日に、「諸氏の人々は、各々、氏上に最適な人物を決めて申し送りなさい。その同族が多人数いるものは、分けて各々の氏上を決め、一緒に役所に申し出なさい。その後でその事情をくんでかたをつけて役所の判断を承けなさい。ただし小いことで、同族でない者を、簡単に一族に入れてはならない」と詔勅した。】八月壬戌朔は8月2日で前月は小の月、十月辛酉朔も10月2日で前月が小の月、それ以外は前月が大の月で標準陰暦と合致し、熊津・筑紫都督府の暦と考えられる。

ここの東の山の白気は火山の水蒸気爆発でその水蒸気で虹が出て、地震も火山性の地震、鶴の髙翔も火山性ガスが原因なのではないのだろうか。

恐らく、阿蘇山若しくは鶴見岳のことで、大和の近辺で火山活動する山は見受けられない。

これらの改革は、695年大化の改新をここで記述していると思われ、もし、天武天皇が改革するのであれば、即位後すぐに実施すべきで、『新唐書』の「天智死子天武立」の天武天皇の説話と思われる。

次項で述べる秦造の連賜姓が持統十年696年に「詔大錦上秦造綱手賜姓爲忌寸」と秦連でなく、かつ、直接忌寸が賜姓されて、天武12年が696年の説話と考えられる。