2021年2月22日月曜日

最終兵器の目 天武天皇28

 『日本書紀』慶長版は

八月巳巳朔爲天皇度八十僧庚午度僧尼幷一百因以坐百菩薩於宮中讀觀音經二百卷丁丑爲天皇體不豫祈于神祗辛巳遣秦忌寸石勝奉幣於土左大神是日天皇太子大津皇子髙市皇子各加封四百戸川嶋皇子忍壁皇子各加百戸癸未芝基皇子磯城皇子各加二百戸已丑檜隈寺輕寺大窪寺各封百戸限三十年辛夘巨勢寺封二百戸九月戊戌朔辛丒親王以下逮于諸臣悉集川原寺爲天皇病誓願云々丙午天皇病遂不差崩于正宮戊申始發哭則起殯宮於南庭辛酉殯于南庭即發哀當是時大津皇子謀反於皇太子甲子平旦諸僧尼發哭於殯庭乃退之是日肇進奠即誄之第一大海宿祢蒭蒲誄壬生事次淨大肆伊勢王誄諸王事次直大參縣犬養宿祢大伴揔誄宮內事次淨廣肆河內王誄左右大舍人事次直大參當麻真人國見誄左右兵衞事次直大肆采女朝臣竺羅誄內命婦事次直廣肆紀朝臣真人誄膳職事乙丑諸僧尼亦哭於殯庭是日直大參布勢朝臣御主人誄太政官事次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事次直大肆大三輪朝臣髙市麻呂誄理官事次直廣參大伴宿祢安麻呂誄大藏事次直大肆藤原朝臣大嶋誄兵政官事丙寅僧尼亦發哀是日直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事次直廣肆穗積朝臣?(ノ虫:蟲)麻呂誄諸國司事次大隅阿多隼人及倭河內馬飼部造各誄之丁夘僧尼發哀??(之是)日百濟王良虞代百濟王善光而誄之次國々造等隨參赴各誄之仍奏種々歌儛

【八月の己巳が朔の日に、天皇の為に、八十人を出家させ僧にした。庚午の日に、僧尼併せて百人に修行させた。それで、百柱の菩薩像を宮中に安置して、観世音経二百卷を読経させた。丁丑の日に、天皇の容態が悪化したので、神祇に祈った。辛巳の日に、秦の忌寸の石勝を派遣して、供え物を土左の大神に奉納した。この日に、皇太子・大津皇子・高市皇子に、各々封戸四百戸を加増した。川嶋皇子・忍壁皇子に、各々百戸を加封した。癸未の日に、芝基皇子・磯城皇子に、各々二百戸を加封した。己丑の日に、桧隈寺・輕寺・大窪寺に、各々百戸を封じたが三十年に限った。辛卯の日に、巨勢寺に二百戸を封じた。九月の朔が戊戌の辛丑の日に、親王以下、諸臣まで、残らず川原寺に集って、天皇の病の為に、誓願した云云。丙午の日に、天皇の病が、とうとう癒えず、正宮で崩じた。戊申の日に、はじめて哀悼して泣いた。それで殯の宮を南の庭に建てた。辛酉の日に、南庭で殯を行って哀悼を発した。この時に、大津皇子は、皇太子に謀反を起こそうとした。甲子の日の夜明けに、諸々僧尼が、殯の宮で哀悼の泣き声を上げて帰った。この日に、はじめてお供えを進上して誄んだ。第一に大海の宿禰の蒭蒲が、壬生の事を弔辞した。次に淨大肆の伊勢王が、諸王の事を弔辞した。次に直大參の縣犬養の宿禰の大伴が、全ての宮中の事を弔辞した。次に淨廣肆の河内王が、近習の宿衛の事を弔辞した。次に直大參の當麻の眞人の國見が、近習の護衛の事を弔辞した。次に直大肆の采女の朝臣の竺羅が、高位の女官の事を弔辞した。次に直廣肆の紀の朝臣の眞人が、食事担当官の事を弔辞した。乙丑の日に、諸々の僧尼もまた殯の宮で泣いた。この日に、直大參の布勢の朝臣の御主人が、大政官の事を弔辞した。次に直廣參の石上の朝臣の麻呂が、法務官の事を弔辞した。次に直大肆の大三輪の朝臣の高市麻呂が、理官の事を弔辞した。次に直廣參の大伴の宿禰の安麻呂が、大藏の事を弔辞した。次に直大肆の藤原の朝臣の大嶋が、武官の事を弔辞した。丙寅の日に、僧尼がまた哀悼の意を発した。この日に、直廣肆の阿倍の久努の朝臣の麻呂が、判事の事を弔辞した。次に直廣肆の紀の朝臣の弓張が、民官の事を弔辞した。次に直廣肆の穗積の朝臣の蟲麻呂が、諸国司の事を弔辞した。次に大隅・阿多の隼人、及び倭・河内の馬飼部の造、各々が弔辞した。丁卯の日に、僧尼が、哀悼の意を発した。この日に、百済王の良虞が、百済王の善光に代って弔辞した。次に国々の造達が、連れ立って赴き、各々が弔辞した。それで種々の歌舞を奏上した。】とあり、標準陰暦と合致する。

天武天皇八年の盟約にいた皇子の芝基皇子は字面から考えると、天武天皇二年「宍人臣大麻呂女擬媛娘生・・・其二曰磯城皇子」の磯城皇子とは別人、すなわち、天智天皇七年「越道君伊羅都賣生施基皇子」の施基皇子ことで、天武天皇八年の盟約は天智天皇の盟約だった可能性が高い。

ここで弔辞を述べる人々は壬申の乱の功績者を含めて、701年大宝元年「賜村國小依百廿戸當麻公國見縣犬養連大侶榎井連小君書直知徳書首尼麻呂黄文造大伴大伴連馬來田大伴連御行阿倍普勢臣御主人神麻加牟陀君兒首一十人各一百戸」と存命中だから贈ではなく賜と記述され、やはり、壬申の乱で名が挙がる年齢、30歳くらいの人物が701年に多く存命しているのは、年齢的に違和感を感じる。

すなわち、縣犬養宿禰大伴は大宝元年「直廣壹縣犬養宿祢大侶卒・・・贈正廣參以壬申年功也」、淨廣肆の河内王は714年和銅七年「无位河内王從四位下」、703年大宝三年「右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨」、717年養老元年「左大臣正二位石上朝臣麻呂薨」、706年慶雲三年「左京大夫從四位上大神朝臣高市麻呂卒以壬申年功」、和銅七年「大納言兼大將軍正三位大伴宿祢安麻呂薨」とこれ以降30年間も存命で、しかも壬申の功労者も20年間存命である。

これは、天武天皇の代で壬申の乱の功労者の死亡記事が有るように、695年の壬申の乱が起こる前の天智天皇の葬儀で、ここで弔辞を述べた人々が壬申の乱で活躍し、皇太子と兄弟の大津皇子との戦いなら、どちらが負けても天智天皇の子で、大化年号建元の天武天皇なら、よく理解できる。


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