2021年2月26日金曜日

最終兵器の目 持統天皇2 

  日本書紀 慶長版は

元年春正月丙寅朔皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉納言布勢朝臣御主人誄之禮也誄畢衆庶發哀次梵衆發哀於是奉膳乳朝臣真人等奉奠々畢膳部采女等發哀樂官奏樂庚午皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉梵衆隨而發哀庚辰賜京師年自八十以上及篤癃貧不能自存者絁緜各有差甲申使直廣肆田中朝臣法摩呂與追大貳守君苅田等使於新羅赴天皇喪三月乙丒朔已夘以投化髙麗五十六人居于常陸國賦田受稟使安生業甲申以華縵進于殯宮此曰御蔭是日丹比真人麻呂誄之禮也丙戌以投化新羅人十四人居于下毛野國賦田受稟使安生業夏四月甲午朔癸夘筑紫大宰獻投化新羅僧尼及百姓男女二十二人居于武藏國賦田受稟使安生業五月甲子朔乙酉皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉於是隼人大隈阿多魁帥各領己衆互進誄焉六月癸巳朔庚申赦罪人秋七月癸亥朔甲子詔曰几負債者自乙酉年以前物莫收利也若既役身者不得役利辛未賞賜隼人大隅阿多魁帥等三百三十七人各各有差八月壬辰朔丙申嘗于殯宮此曰御青飯也丁酉京城耆老男女皆臨慟哭於橋西已未天皇使直大肆藤原朝臣大嶋直大肆黃書連大伴請集三百龍象大德等於飛鳥寺奉施袈裟人別一領曰此以天渟中原瀛真人天皇御服所縫作也詔詞酸割不可具陳九月壬戌朔庚午設國忌齋於京師諸寺辛未設齋於殯宮甲申新羅遣王子金霜林級飡金薩慕及級飡金仁述大舍蘇陽信等奏請國政且獻調賦學問僧智隆附而至焉筑紫大宰便告天皇崩於霜林等即日霜林等皆著喪服東向三拜三發哭焉冬十月辛夘朔壬子皇太子率公卿百寮人等幷諸國司國造及百姓男女洽築大內陵十二月辛夘朔庚子以直廣參路真人迹見爲饗新羅勅使是年也大歳丁亥

【元年の春正月の丙寅が朔の日に、皇太子、公卿・官僚達を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。納言の布勢の朝臣の御主人が礼に適った弔辞を述べた。弔辞を終えて皆も哀悼し、次に僧達が哀悼した。そこで、内膳司の長官の紀の朝臣の眞人達が、お供えした。供えた後に、調理人や下女達が哀悼を述べた。楽師が楽曲を奉じた。庚午の日に、皇太子は公卿や官僚達を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。僧達が一緒に哀悼した。庚辰の日に、京師の、八十歳以上、及び重病人、貧しく自力で生活できない者に太平絹を其々差をつけて与えた。甲申の日に、直廣肆の田中の朝臣の法麻呂と追大貳の守君の苅田達を、新羅の使者にして、天皇の喪を告げに赴いた。三月の乙丑が朔の己卯の日に、帰化した高麗の五十六人を、常陸の国に居住させた。田を授け与えて、家業を安定させた。甲申の日に、けまん(仏堂の梁にかける団扇の形の装飾板)を、殯宮に進上した。これを仏の助けという。この日、丹比の眞人の麻呂が礼に従って弔辞を述べた。丙戌の日に、帰化した新羅の十四人を、下毛野の国に居住させた。田を授け与えて、家業を安定させた。夏四月の甲午が朔の癸卯の日に、筑紫の大宰が帰化した新羅の僧尼及び百姓の男女二十二人を献上した。武藏の国に居住させた。田を授け与えて、家業を安定させた。五月の甲子が朔の乙酉の日に、皇太子と公卿・官僚達を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。そこに、隼人の大隅・阿多の首領が自分の配下を率いて、各々進み出て哀悼した。六月の癸巳が朔の庚申の日に、罪人に恩赦を与えた。秋七月の癸亥が朔の甲子の日に、「全ての借り手は乙酉の年より以前の者は、利息を取ってはならない。もし既に利払いのために労役に身を置いていたら、利払いの労役に入れてはならない」と詔勅した。辛未の日に、隼人の大隅・阿多の首領達、三百三十七人に其々差をつけて恩賞を与えた。八月の壬辰が朔の丙申の日に、殯宮に新作の穀物を供えた。これを御青飯という。丁酉の日に、京の六・七十代の男女が、皆、橋の西から殯宮を臨んで声をあげて激しく嘆き泣いた。己未の日に、天皇は、直大肆の藤原の朝臣の大嶋・直大肆の黄書の連の大伴に、三百の高徳の僧達を飛鳥寺に招き集めて、袈裟を其々に一領捧げ与えた。「これは天渟中原瀛眞人天皇の御着物で、縫って作ったものだ」と言った。詔勅は哀しくて痛々しいもので詳しく述べることが出来ない。九月の壬戌が朔の庚午の日に、国の行事として追善供養の仏事を京師の諸寺で開いて供え物をした。辛未の日に、殯宮にお供えした。甲申の日に、新羅は王子の金霜林・級飡の金薩慕及び級飡の金仁述・大舍の蘇陽信達を派遣して、国政の許しを求めて、また年貢を献上した。学問僧の智隆が付き従ってきた。筑紫の大宰は天皇が崩じたことを霜林達に告げた。その日に、霜林達は、皆喪服を着て、東に向って三度拝礼して、三度声をあげて激しく嘆き泣いた。冬十月の辛卯が朔の壬子の日に、皇太子と公卿・官僚達あはせて諸々の国司・国造及び百姓の男女を率いて、はじめて大内の陵を築いた。十二月の辛卯が朔の庚子の日に、直廣參の路の眞人の迹見を、新羅人を饗応する地方長官とした。この年は大歳が丁亥だった。】とあり、正月丙寅は2月1日、八月壬辰は7月30日で、他は標準陰暦と合致する。

正月丙寅の2月1日と八月壬辰の7月30日近辺に合致する年が無く1月の29日が雨水で一ケ月のズレも考えられず、異なる暦を使う政権の記事と考えることが妥当で、天武天皇六年まで「十二月己丑朔雪不告朔」と朔の日に告げる予定が告げなかったと記述され、『続日本紀』の大宝元年「天皇御大安殿受祥瑞如告朔儀」の告朔儀なら雪が降っても御殿でできるし、告朔儀なら無告朔儀と記述すべきで、雪で空模様が解らないから告げなかったのである。

納言布勢朝臣御主人は天武天皇十三年の賜姓時に布勢氏は無く、『続日本紀』の大宝元年七月の「壬申年功臣」の中に「阿倍普勢臣御主人」が記述され阿倍朝臣御主人と同一人物の様で、初出が朱鳥元年「直大參布勢朝臣御主人誄太政官事」と13位だ。

不比等でも初出が「直廣貳藤原朝臣不比等」と12位、天武天皇四年「小錦上大伴連御行爲大輔」と同じような背景を持つ大伴連御行の初出が10位で、大宝元年正月に「大納言正廣參大伴宿祢御行薨・・・贈正廣貳右大臣」と6位で死後4位を与え、御主人は大宝三年「右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨」と右大臣の子の大伴連御行より初出は厚遇されていないが最終的に厚遇されている。

文武四年に「阿倍朝臣御主人大伴宿祢御行並授正廣參」と共に6位だったが、大宝元年三月「大納言正從二位阿倍朝臣御主人爲右大臣」と一年もたたずに4位に出世し、大宝元年七月に「壬申年功臣・・・大伴連御行阿倍普勢臣御主人神麻加牟陀君兒首一十人各一百戸」と初出の時が壬申の後では位階に矛盾が有り、701年に政権交代があって、その功労者が御主人や御行で御行はその戦乱の犠牲者と考えればよく理解でき、『新唐書』の「長安元年其王文武立改元曰太寶」と親子関係がない政権交代を裏付けている。

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