2021年3月1日月曜日

最終兵器の目 持統天皇3

  日本書紀 慶長版は

「二年正月庚申朔皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉辛酉梵衆發哀於殯宮丁夘設無遮大會於藥師寺壬午以天皇崩奉宣新羅金霜林等金霜林等乃三發哭二月庚寅朔辛夘大宰獻新羅調賦金銀絹布皮銅鐵之類十餘物幷別所獻佛像種々彩絹鳥馬之類十餘種及霜林所獻金銀彩色種々珍異之物幷八十餘物已亥饗霜林等於筑紫館賜物各有差乙巳詔曰自今以後毎取國忌日要湏齋也戊午霜林等罷歸三月巳未朔巳夘以華縵進于殯宮藤原朝臣大嶋誄焉五月戊午朔乙丑以百濟敬湏德那利移甲斐國六月戊子朔戊戌詔令天下繋囚極刑减本罪一等輕繋皆赦除之其令天下皆半入今年調賦秋七月丁已朔丁夘大雩旱也丙子命百濟沙門道藏請?(再:雨)崇朝遍雨天下八月丁亥朔丙申嘗于殯宮而慟哭焉於是大伴宿祢安麻呂誄焉丁酉命淨大肆伊勢王奉宣葬儀辛亥耽羅王遣佐平加羅來獻方物九月丙辰朔戊寅饗耽羅佐平加羅等於筑紫館賜物各有差冬十一月乙夘朔戊午皇太子率公卿百寮人等與諸蕃賓客適殯宮而慟哭焉於是奉奠奏楯節儛諸臣各舉巳先祖等所仕狀遞進誄焉巳未蝦夷百九十餘人負荷調賦而誄焉乙丒布勢朝臣御主人大伴宿祢御行遞進誄直廣肆當麻真人智德奉誄皇祖等之騰極次第禮也古云日嗣也畢葬于大內陵十二月乙酉朔丙申饗蝦夷男女二百一十三人於飛鳥寺西槻下仍授冠位賜物有差」

【二年の春正月の庚申が朔の日に、皇太子、公卿・官僚達を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。辛酉の日に、僧達が、殯宮で哀悼を述べた。丁卯の日に、すべての人に平等に財と法の施しをする大法会を藥師寺で開いた。壬午の日に、天皇の崩じたことを、新羅の金霜林達に宣下した。金霜林達は三度哀悼を述べた。二月の庚寅が朔の辛卯の日に、大宰が、新羅の年貢の、金・銀・絹・布・皮・銅・鐵など十余の物、あはせて別に献上した佛像・種々の彩絹・鳥・馬のなど十余のもの、及び霜林が献上した金・銀・彩色・種々の珍しい物、あわせて八十余の物を献上した。己亥の日に、霜林達を筑紫館で饗応した。其々差をつけて物を与えた。乙巳の日に、「今から以後、国忌にあたる日毎に、必ずものいみしなさい」と詔勅した。戊午の日に、霜林達が帰った。三月の己未が朔の己卯の日に、けまんを殯宮に進上した。藤原の朝臣の大嶋が弔辞を述べた。夏五月の戊午が朔の乙丑の日に、百済の敬須徳那利を、甲斐の国に遷した。六月の戊子が朔の戊戌の日に、「天下に号令して、繋がれた囚人の死刑は、本の罪を一等減らせ。軽い刑でつながれた囚人は皆赦免しなさい。天下の皆の今年の年貢を半分にしなさい」と詔勅した。秋七月の丁巳が朔の丁卯の日に、干ばつの為、大規模に雨乞いした。丙子の日に、百済の僧の道藏に命じて雨乞いした。夜明け前から国中に雨が降った。八月の丁亥が朔の丙申の日に、殯宮にその年に収穫したものを供えて声を上げて激しく嘆き泣いた。そこで、大伴の宿禰の安麻呂が哀悼を述べた。丁酉の日に、淨大肆の伊勢王に命じて、葬儀を宣下させた。辛亥の日に、耽羅の王は佐平の加羅を派遣して、やって来て土産を献上した。九月の丙辰が朔の戊寅の日に、耽羅の佐平の加羅達を筑紫館で饗応した。其々差をつけて物を与えた。冬十一月の乙卯が朔の戊午の日に、皇太子、公卿・官僚達と諸国の賓客を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。そこで、供え物してたてふしの舞を奉納した。臣下が其々、自分の先祖達が仕える形式で、入れ替わり進み出て弔辞を述べた。己未の日に、蝦夷百九十余人が、年貢を背負って弔辞を述べた。乙丑の日に、布勢の朝臣の御主人・大伴の宿禰の御行が入れ替わり進み出て弔辞を述べた。直廣肆の當摩の眞人の智徳、歴代天皇が即位した順序だって弔辞を奉じた。礼儀にのっとって昔の皇統を述べ終わって大内の陵に葬った。十二月の乙酉が朔の丙申の日に、蝦夷の男女二百一十三人を飛鳥寺の西のけやきの下で饗応した。それで冠位を授けて、其々差をつけて物を与えた。】とあり、六月戊子は6月2日で前月が小の月、十一月乙卯は10月30日でそれ以外は標準陰暦に合致する。

霜林はもし本当に新羅の王子なら、681年即位の神文王の子の長男の孝昭王が692年の若いときに即位して子もいないため、聖徳王が702年に即位した後の王子の可能性が高く、大長2年705年の記事の可能性がある。

天武天皇元年の壬申の乱の時、不破宮に派遣した冠位を記述しない大伴連安麻呂を記述し、 天武天皇十三年二月「小錦中大伴連安麻呂」、天武天皇十三年十二月「大伴連・・・五十氏賜姓曰宿禰」と宿禰を賜姓され、2年後の朱鳥元年「直廣參大伴宿禰安麻呂・・・次直廣參大伴宿禰安麻呂誄大藏事」と前回述べた天武天皇四年「小錦上大伴連御行爲大輔」と『続日本紀』の「御行難破朝右大臣大紫長徳之子也」と大臣の子の出世前が小錦上と差が1ランクで差が無い。

その後、持統二年に冠位を記述しない「大伴宿禰安麻呂誄焉」が記述されただけで、『続日本紀』の大宝元年三月の建元時に9位の「直大壹大伴宿祢安麻呂」、翌年の大宝二年には大出世して、6位の「從三位大伴宿祢安麻呂爲兵部卿・・・從三位大伴宿祢安麻呂爲式部卿」になり、やはり701年の政権交代で大出世した。

そして、704年慶雲二年に4位の「從三位大伴宿祢安麻呂爲大納言・・・大納言從三位大伴宿祢安麻呂爲兼大宰帥」に、708年和銅元年には5位の「正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言」、死亡時の714年和銅七年には「大納言兼大將軍正三位大伴宿祢安麻呂薨」と大將軍で死んでいる。

やはり、八月丁亥朔が標準陰暦どおりの朔で、大化年号を建元した天智天皇の子の天武天皇の史書の資料で、大伴宿祢安麻呂も、大宝建元した文武天皇の政権樹立に貢献した高官の一人であったことが解る。


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