2021年3月26日金曜日

最終兵器の目 持統天皇14

  日本書紀 慶長版は

八年春正月乙酉朔丙戌以正廣肆授直大壹布勢朝臣御主人與大伴宿祢御行増封人二百戸通前五百戸並爲氏上辛丑饗公卿等己亥進御薪庚子饗百官人等辛丒漢人奏請蹈歌五位以上射壬寅六位以下射四日而畢癸夘唐人奏蹈歌乙巳幸藤原宮即日還宮丁未以務廣肆等位授大唐七人與肅愼二人戊申幸吉野宮三月甲申朔日有蝕之乙酉以直廣肆大宅朝臣麻呂勤大貳臺忌寸八嶋黃書連本實等拜鑄錢司甲午詔曰凢以無位人任郡司者以進廣貳授大領以進大參授小領巳亥詔曰粤以七年歲次癸巳醴泉?()於近江國益湏郡都賀山諸疾病停宿益湏寺而療差者衆故入水田四町布六十端原除益湏郡今年調役雜傜國司頭至目進位一階賜其初驗醴泉者葛野羽衝百濟土羅々女人絁二匹布十端鍬十口乙巳奉幣於諸社丙午賜神祇官頭至祝部等一百六十四人絁布各有差夏四月甲寅朔戊午以淨大肆贈筑紫大宰率河內王幷賜賻物庚申幸吉野宮丙寅遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神丁亥天皇至自吉野宮庚午贈律師道灮賻物五月癸未朔戊子饗公卿大夫於內裏癸巳以金光明經一百部送置諸國必取毎年正月上玄讀之其布施以當國官物(?死:充)之六月癸丒朔庚申河內國更荒郡獻白山鶏賜更荒郡大領小領位人一級幷賜物以進廣貳賜獲者刑部造韓國幷賜物秋七月癸未朔丙戌遣巡察使於諸國丁酉遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神八月壬子朔戊辰爲皇女飛鳥度沙門一百四口九月壬午朔日有蝕之乙酉幸吉野宮癸夘以淨廣肆三野王拜筑紫大宰率冬十月辛亥朔庚午以進大肆賜獲白蝙蝠者飛騨國荒城郡弟國郡弟日幷賜絁四匹綿四屯布十端其戸課役限身悉免十一月辛巳朔丙午赦殊死以下十二月庚戌朔乙夘遷居藤原宮戊午百官拜朝巳未賜親王以下至郡司等絁緜布各有差辛酉宴公卿大夫

【八年の春正月の乙酉が朔の丙戌の日に、正廣肆を、直大壹の布勢の朝臣の御主人と大伴の宿禰の御行とに授けた。二百戸を増やして以前からと併せて五百戸に増封し、ならびに氏上にした。辛卯の日に、公卿達を饗応した。己亥の日に、薪を献上した。庚子の日に、役人達を饗応した。辛丑の日に、漢人達が、足で地を踏み拍子をとる舞踊を奏上し五位以上が矢を射た。壬寅の日に、六位以下が矢を射た。四日かけて終了した。癸卯の日に、唐人が、足で地を踏み拍子をとる舞踊を奏上した。乙巳の日に、藤原の宮に行幸した。その日に、宮に帰った。丁未の日に、務廣肆などの位を、大唐の七人と肅愼の二人に授けた。戊申の日に、吉野の宮に行幸した。三月の甲申が朔の日に、日食が有った。乙酉の日に、直廣肆の大宅の朝臣の麻呂・勤大貳の臺の忌寸の八嶋・黄書の連の本實達を、貨幣鋳造の役人にした。甲午の日に、「全ての位が無い人を、郡司が任命したら、進廣貳を大領に授け、進大參を小領に授けなさい」と詔勅した。己亥の日に、「歳次が癸巳の七年に、おいしい湧き水が、近江国の益須の郡の都賀山に涌いた。諸々の病人が、益須の寺に宿泊して、療養する者が多い。それで水田四町・布六十端を寺に与えなさい。益須の郡の今年の強制労働・雑役を免除しなさい。国司の長官から四等官までに、位を一階進めなさい。その最初にうまい湧き水を飲んだ葛野の羽衝・百済の土羅羅女に、人毎に太絹二匹・布十端・鍬十口をあたえなさい」と詔勅した。乙巳の日に、ごへいを諸社に奉納した。丙午の日に、神祇官の頭目から祝部達まで、百六十四人に太絹・布を各々差をつけて与えた。夏四月の甲寅が朔の戊午の日に、淨大肆を、筑紫の大宰の率の河内王に贈り、あはせて遺族に物を贈った。庚申の日に、吉野の宮に行幸した。丙寅の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神を祭らせた。丁亥の日に、天皇は吉野の宮から帰った。庚午の日に、律師の道光の遺族に物を贈った。五月の癸未が朔の戊子の日に、公卿と高官を内裏で饗応した。癸巳の日に、金光明経百部を、諸国に送って配置させた。必ず毎年の、正月の上玄の日読経しなさい。その布施は、その国への収入としなさい。六月の癸丑が朔の庚申の日に、河内国の更荒の郡が、白いキジを献上した。更荒の郡の大領・少領に、人毎に一級進めた。あはせて物を与えた。進廣貳を、捕獲した刑部の造の韓國に授けて、あわせて物与えた。秋七月の癸未が朔の丙戌の日に、巡察使を諸国に派遣した。丁酉の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神をお祭りさせた。八月の壬子が朔の戊辰の日に、皇女の飛鳥の為に、僧侶百四人を出家させた。九月の壬午が朔の日に、日食が有った。乙酉の日に、吉野の宮に行幸した。癸卯の日に、淨廣肆の三野王を、筑紫の大宰の率にした。冬十月の辛亥が朔の庚午の日に、進大肆を、白いコウモリを捕獲した飛騨の国の荒城の郡の弟國部の弟日に与えた。あわせて太絹四匹・綿四屯・布十端を与えた。その戸の強制労働は、一代に限って残らず免除した。十一月の辛巳が朔の丙午の日に、死罪以下を赦免した。十二月の庚戌が朔の乙卯の日に、藤原の宮に遷都した。戊午の日に、役人が朝拝した。己未の日に、親王以下、郡司達までに太絹・綿・布を各々差をつけて与えた。辛酉の日に、公卿と高官の為に宴席を設けた。】とあり、五月癸未朔は4月30日で、4月が小の月なら標準陰暦と合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。

吉野宮行幸は応神天皇1回、雄略天皇2回、天武天皇八年1回、持統三年2回、四年5回、五年4回、六年3回、七年5回、八年3回、九年4回、十年3回、十一年1回と持統天皇の行幸が群を抜いて遂行されている。

ところが、『続日本紀』では大宝元年六月「太上天皇幸吉野離宮」、文武天皇は大宝元年二月、大宝二年七月の2回で698年から701年まで持統天皇の行幸が行われていないが、在位期間中29回も行幸したのに天武天皇を忘れてしまって退位したら後1回というのは奇妙で、実際は大宝元年が最初の行幸とすると、天武八年は大化八年702年の行幸となり、持統三年は701年に天武天皇がクーデターで失脚した701年を元年とした總持天皇三年703年の行幸となり、持統十一年は大長八年の行幸、この年に大長年号が終了する。

701年の文武天皇行幸は、向かうときは吉野離宮が帰りは吉野宮、702年の行幸は帰りを記述しておらず、どちらも7月で701年の太上天皇がクーデターで帰れず、大宝元年七月壬辰「壬申年功臣隨功等第亦賜食封」と贈ではなくて「賜村國小依」と生前の賜で、小依が生きている可能性が高い。

大宝元年三月甲午「建元爲大寶元年」と建元し、大宝元年三月甲午「直廣壹藤原朝臣不比等正正三位」と10番目から5番目と大出世し、この時クーデターが発生したことが解る。

吉野宮は斉明天皇二年に「後飛鳥岡本宮」を作ったときに一緒に造られていて、この時期の飛鳥は筑後平野の明日香と考えられ、その離宮が吉野宮で、クーデターがあった飛鳥浄御原も筑紫都督府近辺にあり、7日程度で行き来でき、『古事記』「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元洊雷應期」と天武天皇の時に潜んでいた文武天皇が電光石火に蜂起したと記述して、よく対応している。

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