「十年春正月甲辰朔庚戌饗公卿大夫甲寅以直大肆授百濟王南典戊午進御薪巳未饗公卿百寮人等辛酉公卿百寮射於南門二月癸酉朔乙亥幸吉野宮乙酉至自吉野三月癸夘朔乙巳幸二槻宮甲寅越度嶋蝦夷伊奈理武志與肅愼志良守叡草錦袍袴緋紺絁斧等夏四月壬申朔辛巳遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神戊戌以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石幷賜人絁四匹絲十絇(口→ム)布二十端鍬二十口稻一千束水田四町復戸調役以慰久苦唐地巳亥幸吉野宮五月壬寅朔甲辰詔大錦上秦造綱手賜姓爲忌寸乙巳至自吉野己酉以直廣肆授尾張宿祢大隅幷賜水田四十町甲寅以直廣肆贈大狛連百枝幷賜賻物六月辛未朔戊子幸吉野宮丙申至自吉野秋七月辛丒朔日有蝕之壬寅赦罪人戊申遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神庚戌後皇子尊薨八月庚午朔甲午以直廣壹授多臣品治幷賜物褒美元從之功與堅守關事九月庚子朔甲寅以直大壹贈若櫻部朝臣五百瀬幷賜賻物以顯元從之功冬十月巳巳朔乙酉賜右大臣丹比真人輿杖以哀致事庚寅假賜正廣參位右大臣丹比真人資人一百二十人正廣肆大納言阿倍朝臣御主人大伴宿祢御行並八十人直廣壹石上朝臣麿直廣貳藤原朝臣不比等並五十人十一月巳亥朔戊申賜大官大寺沙門辨通食封三十戸十二月巳巳朔勅旨縁讀金光明經毎年十二月晦日度淨行者一十人」
【十年の春正月の甲辰が朔庚戌の日に、公卿や高官達を饗応した。甲寅の日に、直大肆を、百済王の南典に授けた。戊午の日に、薪を進上した。己未の日に、公卿・役人達を饗応した。辛酉の日に、公卿や役人達が、南門で矢を射た。二月の癸酉が朔の乙亥の日に、吉野の宮に行幸した。乙酉の日に、吉野から帰った。三月の癸卯が朔の乙巳の日に、二槻の宮に行幸した。甲寅の日に、越の度の嶋の蝦夷の伊奈理武志と、肅愼の志良守の叡草とに、錦の上着と袴・薄赤紫色の緋紺の太絹・斧等与えた。夏四月の壬申が朔の辛巳の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神とをお祭りさせた。戊戌の日に、追大貳を、伊豫の国の風速郡の人の物部の藥と、肥後の国の皮石の郡の人の壬生の諸石とに授けた。あはせて人毎に太絹四匹・絹糸十すが・布二十端・鍬二十口・稲千束・水田四町を与えた。家への追加の強制労働を元に戻した。これで長く唐の地で苦しんだことをねぎらった。己亥の日に、吉野の宮に行幸した。五月の壬寅が朔の甲辰の日に、大錦上の秦造の綱手に詔勅して、姓を与えて忌寸とした。乙巳の日に、吉野から帰った。己酉の日に、直廣肆を、尾張の宿禰の大隅に授けた。あはせて水田四十町与えた。甲寅の日に、直廣肆を、大狛の連の百枝に贈って遺族に物を与えた。六月の辛未が朔の戊子の日に、吉野の宮に行幸した。丙申の日に、吉野から帰った。秋七月の辛丑が朔の日に、日食があった。壬寅の日に、罪人を赦免した。戊申の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神とをお祭りさせた。庚戌の日に、後の皇子の尊が薨じた。八月の庚午が朔の甲午の日に、直廣壹を、多の臣の品治に授けた。あはせて物を与えた。最初から奉公した功績と関所を堅く守ったことを褒賞した。九月の庚子が朔の甲寅の日に、直大壹を、若櫻部の朝臣の五百瀬に贈って、あはせて遺族に贈り物を与えた。これは最初から奉公した功績を顕彰した。冬十月の己巳が朔の乙酉の日に、右大臣の丹比の眞人に輿・杖を与えた。これは官職を退いて引退することを哀しんでのことだ。庚寅の日に、仮に、正廣參位の右大臣の丹比の眞人に、近習を百二十人与えた。正廣肆の大納言の阿倍の朝臣の御主人・大伴の宿禰の御行には、ともに八十人。直廣壹の石上の朝臣の麻呂・直廣貳の藤原の朝臣の不比等には、ともに五十人。十一月の己亥が朔の戊申の日に、大官大寺の沙門の辨通に、四十戸を封じた。十二月の己巳が朔の日に、詔勅して、金光明経を読経させたので、年毎の十二月の晦日の日に、けがれない修行者十人を出家させた。】とあり、五月壬寅朔は5月2日、十月己巳朔は9月30日で4月が小の月なので大の月なら、また9月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。
「日有蝕之」は『日本書紀』に11回出現し、その内、推古天皇三六年三月丁未朔戊申、舒明天皇九年三月乙酉朔丙戌は天文学的には日蝕が有った日が朔で1日は晦日にあたり、その間の舒明天皇八年春正月壬辰朔は朔の日で、前日は12月29日で小の月だ。
この間の暦が平朔法なら、16.36ヶ月に1回大の月が多いのだから、3279日111ヶ月あるので6~7ヶ月、大の月が多くなるはずが、『日本書紀』では大小のペア59日で除算した余りが34で、111ヶ月と奇数月なので大の月の余なら4、小の月の余なら5日で4~5日しか大の月が多くならないので、平朔法と推定できない。
日食は『漢書』や『後漢書』の三国時代より前は天文学的にも干支も朔の日に発生しているが晦日に発生したと記述し、朔は晦日の次の、天文学的にも干支でも2日を朔と記述し、『三国史記』は中国史書をそのまま流用している。
ところが、『三国史記』の592年に百済威德王三十九年「秋七月壬申晦日有食之」は本来8月1日の癸酉に日食が有ったはずなのに晦日の日干支を記述し、『舊唐書』には661年龍朔元年に「五月甲子晦日有蝕之」と6月1日の日干支を晦日と記述し、これは百済と友好関係をもつ国が朔を晦日とし、661年の敵国記事の日食を唐がそのまま流用した可能性が高い。
その唐の敵国で百済の友好国は倭で、推古・舒明紀は倭国王朝の記事で、その倭国の晦日の日食記事を俀国王朝の天智天皇は、倭国の30日が晦日と考えて、628年と637年2月の日食は3月1日が晦日とするため3月2日が朔と判断して日食の日と記述、舒明八年636年1月の日食は倭国以外の資料を使った可能性もある。
倭国は漢の時に漢の臣下となったので、朔を晦日とする習慣を持ち、俀国は隋と決裂して新羅と友好関係となったので、新羅と同じく朔を1日とする習慣が出来たと考えられ、『日本書紀』の朔日がズレた記事は倭国記事の可能性が高く、朔日がズレた記事は倭国の有った九州では俀国王朝になった後も朔日がズレた資料を残したのではないだろうか。
『日本書紀』の日干支は暦法によるものではなく、殷からはじまる日干支や周の武王の父文王が『史記』發の項に「改法度制正朔矣」、「十一年十二月戊午」と月の周期で1から12月を制定し、その方法が日本にも伝わり記録として残ったものと思われる。
中国には周以降晦日が朔ではない朔日を朔とする勢力もあり、その中に畿内日本も含まれ、周の影響下の晦日が朔の九州の記録を併せて、『日本書紀』の記録となったと思われる。
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