日本書紀 慶長版は
「四年春正月戊寅朔物部麿朝臣樹大盾神祗伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞畀忌部宿祢色夫知奉上神璽劔鏡於皇后皇(后)即天皇位公卿百寮羅列匝拜而拍手焉已夘公卿百寮拜朝如元會儀丹比嶋真人與布勢御主人朝臣奏賀騰極 庚辰宴公卿於內裏甲申宴公卿於内裏仍賜衣裳壬辰百寮進薪甲午大赦天下唯常赦所不免不在赦例賜有位人爵一級鰥寡孤獨篤癃貧不能自存者賜稻蠲服調役丁酉以解部一百人拜刑部省庚子班幣於畿內天神地祗及増神戸田地二月戊申朔壬子天皇幸于腋上陂觀公卿大夫之馬戊午新羅沙門詮吉級飡北助知等五十人歸化甲子天皇幸吉野宮丙寅設齋於內裡壬申以歸化新羅韓奈末許滿等十二人居于武藏國三月丁丒(丑)朔丙申賜京與畿內人年八十以上者嶋宮稻人二十束其有位者加賜布二端夏四月丁未朔巳酉遣使祭廣瀬大忌神與龍田風神癸丑賜京與畿內耆老耆女五千三十一人稻人二十束庚申詔曰百官人及畿內人有位者限六年無位者限七年以其上日選定九等四等以上者依考仕令以其善最功能氏姓大小量授冠位其朝服者淨大壹巳下廣貳巳上黒紫淨大參己下廣肆巳上赤紫正八級赤紫直八級緋勤八級深緑務八級淺緑追八級深縹進八級淺縹別淨廣貳巳上一畐一部之綾羅等種々聽用淨大參巳下直廣肆巳上一畐二部之綾羅等種々聽用綺上下通用帶白袴其餘者如常戊辰姶祈雨於所々旱也五月丙子朔戊寅天皇幸吉野宮乙酉百濟男女二十一人歸化庚寅於內裏始安居講說六月丙午朔辛亥天皇幸泊瀬庚午盡召有位者唱知位次與年齒秋七月丙子朔公卿百寮人等始著新朝服戊寅班幣於天神地祗庚辰以皇子髙市爲太政大臣以正廣參授丹比真人爲右大臣幷八省百寮皆遷任焉辛巳大宰國司皆遷任焉壬午詔令公卿百寮凢有位者自今以後於家內著朝服而參上未開門以前蓋昔者到宮門而著朝服乎甲申詔曰凡朝堂座上見親王者如常大臣與王起立堂前二王以上下座而跪巳丑詔曰朝堂座上見大臣動坐而跪是日以絁絲綿布奉施七寺安居沙門三千三百六十三別爲皇太子奉施於三寺安居沙門三百二十九癸巳遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神」
【四年の春正月の戊寅が朔の日に、物部の麿の朝臣が、大盾を樹てた。神祇伯の中臣の大嶋の朝臣は天神壽詞を読んだ。読み終わって忌部の宿禰の色夫知が、神の璽・剱・鏡を皇后に奉上した。皇后は、天皇に即位した。公卿や官僚が、ぐるっと囲んで拝礼して手拍子をした。己卯の日に、公卿や官僚が、天皇を拝礼したのは、元日節会?(改元儀礼)のようだった。丹比嶋の眞人と布勢の御主人の朝臣とが即位のお祝いを奏上した。庚辰の日に、公卿のため内裏で宴を開いて、衣裳を与えた。壬辰の日に、官僚に薪を与えた。甲午の日に、天下に大赦を公布した。ただし重罪で赦すことが出来ないものは恩赦に含めず、位が有る人に爵位一級を与えた。やもめや独り身・重病人・貧しくして暮らせない者に、稲を与えて年貢を許した。丁酉の日に、訴訟を扱う百人を、刑部省に雇った。庚子の日に、幣を畿内の天神地祇に分け与えた。神戸や田地増やした。二月の戊申が朔の壬子の日に、天皇は腋上の堤に行幸して、公卿や高官の馬を観た。戊午の日に、新羅の沙門の詮吉と・級飡の北助知達、五十人が帰化した。甲子の日に、天皇は吉野の宮に行幸した。丙寅の日に、内裏でに斎食を伴う法会を開いた。壬申の日に、帰化した新羅の韓奈末の許滿達十二人を、武藏国に居住させた。三月の丁丑が朔の丙申の日に、京と畿内の人の、年齢八十より上の者に、嶋宮の稻、人ごとに二十束を与えた。その位が有る者には、布二端を加えて与えた。夏四月の丁未が朔の己酉の日に、使者を派遣して廣瀬の大忌神と龍田の風神の祭を行った。癸丑の日に、京と畿内との60歳以上の男女五千三十一人に、稻を人ごとに二十束与えた。庚申の日に、「官僚及び畿内の人の、位が有る者は六年を限としなさい。位が無い者は七年を限りとして、それを上回る日数で、九等に選別して決めなさい。四等以上は、考課の決まりどおりに、その勤務態度の良し悪しや技能の良しあし、氏姓の大小で、推し量って冠位を授ける。その朝服は、淨大壹より下、廣貳より上には黒紫。淨大參より下、廣肆より上には赤紫。正の八級には赤紫。直の八級には緋。勤の八級には深緑。務の八級には淺緑。追の八級には深縹。進の八級には淺縹。それとは別に淨廣貳より上には、一畐(幅)一部の綾絹と薄絹などを種々に用いることを許可する。淨大參より下、直廣肆より上には、一畐二部の綾絹と薄絹などを種々に用いることを許可する。薄絹の帯・白い袴は、位の上下通して用いなさい。それ以外はいままでどおりにしなさい」と詔勅した。戊辰の日に、始めて所々で雨乞いした。旱魃のためだ。五月の丙子が朔が戊寅の日に、天皇は、吉野の宮に行幸した。乙酉の日に、百済の男女二十一人が帰化した。庚寅の日から、内裏で安居で説教を始めた。六月の丙午が朔が辛亥の日に、天皇は、泊瀬に行幸した。庚午の日に、残らず位が有る者を呼んで、位の席次と年齢とを報告させた。秋七月の丙子が朔の日に、公卿と・官僚達が、始めて新しい朝服を着た。戊寅の日に、幣を天神地祇に分け与えた。庚辰の日に、高市皇子を、太政大臣とした。正廣參を、丹比の嶋の眞人に授けて、右大臣とした。あはせて八省・役人、皆任を遷した。辛巳の日に、大宰・国司達皆の任を遷した。壬午の日に、「公卿や官僚、凡て位が有る者は、今後、家の中で朝服を着て、まだ門が開く前に出仕しなさい」と詔勅した。おそらく昔は宮門についてから朝服を着たのだろうか。甲申の日に、「全て朝堂の座の上で、親王を見るときにはいつものようにしなさい。大臣と王は、起立して堂の前に立っていなさい。二位の王より上は、座から下りて跪きなさい」と詔勅した。己丑の日に、「朝堂の座の上で、大臣を見るときには、坐を移動して跪け」と詔勅した。この日に、太絹・きぬ糸・綿・布を、七寺の安居の修行僧、三千三百六十三人に施しを行った。別に皇太子の為に、三寺の安居の修行僧、三百二十九に施しを行った。癸巳の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神のお祭りを行った。】とあり、正月戊寅朔は前年12月30日、三月丁丑朔も2月30日で小の月なら標準陰暦と合致し、七月丙子朔は7月2日で前月が大の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。
持統天皇が三種の神器を継承して皇位に就いたが、この三種の神器のセットは継体天皇の元年の「大伴金村大連乃跪上天子鏡劔璽符再拜」とこの時だけで、そのほかは允恭天皇の璽符、清寧・顕宗・孝徳天皇の爾、推古・舒明天皇の璽印と記述され、天皇を証明する押印された符とその印のセットのようだ。
そして、これらは、天皇前紀や元年に記述されて、これまで見てきたように、皇后は天皇と一心同体以上、皇太后・皇后が天皇即位の前提で、持統天皇は天武天皇死後、すでに爾を手にしていて、改めて継承する必要が無く、王朝交代の時に記述される記事である。
すなわち、この記事は持統天皇の説話ではなく、文武天皇・大宝4年にあたる慶雲元年、若しくは、和銅4年の大長年号終了時の總持天皇から元明天皇への交代時の説話と考えられ、『続日本紀』に慶雲元年五月「改元爲慶雲元年」、慶雲元年十一月「始定藤原宮地」と改元と遷都を記述し、元明なら和銅三年「始遷都于平城」と遷都して遷都と政権交代で大きな行事に矛盾が無い。
また、物部麿朝臣を記述しているが、『先代舊事本紀』天孫本紀に「十七世孫物部連公麻侶・・・淨御原朝御世天下万姓改定八色之日改連公賜物部朝臣姓同御世改賜石上朝臣姓」、天武天皇十三年「物部連・・・凡五十二氏賜姓曰朝臣」と684年に既に石上朝臣のはずが物部姓で、この記事が684年以前の記事か八色の姓が690年以降のことと考えなければならない。
『続日本紀』に717年養老元年「左大臣正二位石上朝臣麻呂薨年七十八・・・難波朝衛部大華上宇麻乃之子也」とあり、670年頃に30代で、天武天皇元年に「大友皇子走無所入・・・群臣皆散亡唯物部連麻呂且一二舍人從之」と合致し、父宇麻の難波朝が664年の孝徳天皇の可能性が高く、石上賜姓も『日本書紀』に記述されないため八色の姓が690年以降が有力だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿