2021年3月10日水曜日

最終兵器の目 持統天皇7

  日本書紀 慶長版は

八月乙巳朔戊申天皇幸吉野宮乙夘以歸化新羅人等居于下毛野國九月乙亥朔詔諸國等曰凡造戸籍者依戸令也乙酉詔曰朕將巡行紀伊之故勿收今年貢師田租口賦丁亥天皇幸紀伊丁酉大唐學問僧智宗義德淨願軍丁筑紫國上陽咩郡大伴部博麻從新羅送使大奈末金髙訓等還至筑紫戊戌天皇至自紀伊冬十月甲辰朔戊申天皇幸吉野宮癸丑大唐學問僧智宗等至于京師戊午遣使者詔筑紫大宰河內王等曰饗新羅送使大奈末金髙訓等准上送學生土師宿祢甥等送使之例其慰勞賜物一依詔書乙丒詔軍丁筑紫國上陽咩郡人大伴部博麻曰於天豊財重日足姫天皇七年救百濟之役汝爲唐軍見虜洎天命開別天皇三年土師連富杼氷連老筑紫君薩夜麻弓削連元寶兒四人思欲奏聞唐人所計縁無衣粮憂不能達於是博麻謂土師富杼等曰我欲共汝還向本朝縁無衣粮倶不能去願賣我身以充衣食富杼等任博麻計得通天朝汝獨淹滯他界於今三十年矣朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠故賜務大肆幷絁五匹緜一十屯布三十端稻一千束水田四町其水田及至曽孫也免三族課役以顯其功壬申髙市皇子觀藤原宮地公卿百寮從焉十一月甲戌朔庚辰賞賜送使金髙訓等各有差甲申奉勅姶行元嘉曆與儀鳳曆十二月癸夘朔乙巳送使金髙訓等罷歸甲寅天皇幸吉野宮丙辰天皇至自吉野宮辛酉天皇幸藤原觀宮地公卿百寮皆從焉乙丒賞賜公卿以下各有差

【八月の乙巳が朔の戊申の日に、天皇は、吉野の宮に行幸した。乙卯の日に、帰化した新羅人達を、下毛野の国に居住させた。九月の乙亥が朔の日に、諸国司達に「全ての戸籍を造るのに、戸の決まりどうりしなさい」と詔勅した。乙酉の日に、「私は、紀伊を巡行する。それで今年の京師の田租・口賦を徴収してはならない」と詔勅した。丁亥の日に、天皇は、紀伊に行幸した。丁酉の日に、大唐の学問僧の智宗・義徳・淨願、軍丁の筑紫国の上陽咩の郡の大伴部の博麻、新羅の送使の大奈末の金高訓達が一緒に、筑紫に遣って来た。戊戌の日に、天皇、紀伊から帰った。冬十月の甲辰が朔の戊申の日に、天皇は、吉野の宮に行幸した。癸丑の日に、大唐の学問僧の智宗達が、京師に着いた。戊午の日に、使者を派遣して、筑紫の大宰の河内王達に、「新羅の送使の大奈末の金高訓達を饗応することや、学生の土師の宿禰の甥達を上送した送使の例に準じて、その慰労に物を与えることは、詔書のようにしなさい」と詔勅した。乙丑の日に、軍丁の筑後の国の上陽咩の郡の人の大伴部の博麻に、「天豐財重日足姫天皇の七年に、百済を救ふ戦に、お前は、唐軍の為に捕虜となった。天命開別天皇の三年に停泊して、土師の連の富杼・氷の連の老・筑紫君の薩夜麻・弓削の連の元寶の子の四人が、唐人の計略を報告しようと思ったが、衣食が無かったので、達成できないことを憂いた。そこで、博麻は土師の富杼達に、『私は、お前達に、本朝に帰ろうと思っても、衣服が無いので、一緒に離れることが出来ない。頼むから、我が身を売って、衣食に充当しろ』と言った。富杼達は、博麻の計画どおりに、天朝に通報できた。お前ひとりだけ他国に滞在して、今帰国まで三十年かかった。私は、その朝廷を尊んで国を愛して、己を売って忠義を見せたことをとても嬉しい。それで務大肆の位と、太絹五匹・綿一十屯・布三十端・稲千束・水田四町を与えた。その水田は曽孫まで所有を認め、三族の課役を免除して、その功績を顕彰しよう」詔勅した。壬申の日に、高市皇子は藤原の宮地を観察した。公卿や官僚が従った。十一月の甲戌が朔の庚辰の日に、送使の金高訓達に差をつけて褒賞した。甲申の日に、詔勅を聞いて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを採用した。十二月の癸卯が朔の乙巳の日に、送使の金高訓達が帰った。甲寅の日に、天皇は、吉野の宮に行幸した。丙辰の日に、天皇は、吉野の宮から帰った。辛酉の日に、天皇は、藤原に行幸して宮地を観察した。公卿や官僚が、皆付き従った。乙丑の日に、公卿より下にそれぞれ差をつけて褒賞した。】とあり、九月乙亥朔は9月2日で前月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。

大伴部の博麻が30年を経ての帰国の記事があるが、天命開別天皇三年は天智天皇一〇年「筑紫君薩野馬韓嶋勝娑婆布師首磐四人從唐來曰」記事が671年ではなく664年でなければ、690年持統四年の30年前と合致せず、郭務悰が初めて来日した天智天皇三年五月の「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物」の時が合致することを述べた。

日本への連絡が最初の唐軍の来日時でなくては意味をなさず、筑紫君は天萬豐日で、664年6月に蘇我蝦夷天皇・入鹿皇太子に対するクーデターを鎌足達が起こして、天智が20歳未満で皇位継承権が無かったので孝徳天皇が即位した。

元嘉暦は平朔法、儀鳳暦は定朔法で、『舊唐書』は、後世の模範になった大衍暦以降で太陽運行の不均等を考慮した太陽運行表が編制され、暦計算は補完されたもので記述され、『日本書紀』が完成した時は唐も日本も儀鳳暦の時代だった。

私は、これまで標準陰暦と称してユリウス日を使用した天文学的計算法で朔や中気のユリウス日を計算して、ユリウス日に日干支を対応させて朔の日を1日、中気の無い月を閏月で中気に合せて何月かを当て嵌めて作成した陰暦を基準に求めてきた。

日食発生日が史書では朔日だったり晦日だったり、2日だったりしたが、この標準陰暦ではほとんど朔の日干支で、合わない日食日は史書の挿入間違いの可能性が高く、『日本書紀』の2日に発生した、標準陰暦では朔の日干支の日食は九州でしか見られない日食で、九州の暦であることが解り、朔の日干支が正しい記述は朝廷の資料、そうでない記述は他の王家の資料と証明できた。

そして、天智天皇より前の天皇元年の最初の朔はほとんど合致し、これから宮の始まりからの記録を元に天皇元年とし、紀元前660から何らかの記録が残されたと判断し、その朔からズレるのは違う暦を使用する王朝や国の記録と考え、史書の暦は記録で、暦法は行事の計画に使用したと考えられる。

たとえば持統十一年二月丁卯朔と持統十年十二月己巳朔のユリウス差は58日で小の月が2回続くが、平朔法の元嘉暦なら大の月は並ぶが小の月はならばず、持統六年の九月癸巳朔から十一月辛卯朔も同様だ。

中国史書・『日本書紀』を通じてユリウス数間隔を大小の月のペア59で除算して検討すると小の月が多い間隔が多数存在し、平朔法で計算された記述は考えられず、『日本書紀』の8世紀の創作は有りえず、日食記事の少ない『日本書紀』も、日食記事が多い中国史書も、記録をもとに編集されたことが証明された。

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