日本書紀 慶長版は
「六年春正月丁夘朔庚午増封皇子髙市二千戸通前五千戸癸酉饗公卿等仍賜衣裳戊寅天皇觀新益京路壬午饗公卿以下至初位以上癸巳天皇幸髙宮甲午天皇至髙宮二月丁酉朔丁未詔諸官曰當以三月三日將幸伊勢冝知此意備諸衣物陰陽博士沙門法藏道基銀人二十兩乙夘詔刑部省赦輕繋是日中納言直大貳三輪朝臣髙市麿上表敢直言諫爭天皇欲幸伊勢妨於農時三月丙寅朔戊辰以淨廣肆廣瀬王直廣參當麻真人智德直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官於是中納言三輪朝臣髙市麿脱其冠位擎上於朝重諫曰農作之節車駕未可以動辛未天皇不從諫遂幸伊勢壬午賜所過神郡及伊賀伊勢志摩國造等冠位幷免今年調役復免供奉騎士諸司荷丁造行宮丁今年調役大赦天下伹盜賊不在赦例甲申賜所過志摩百姓男女年八十以上稻人五十束乙酉車駕還宮毎到行輙會郡縣吏民務勞賜作樂甲午詔免近江美濃尾張參河遠江等國供奉騎士戸及諸國荷丁造行宮丁今年調役詔令天下百姓困乏窮者稻男三束女二束夏四月丙申朔丁酉贈大伴宿祢友國直大貳幷賜賻物庚子除四畿內百姓爲荷丁者今年調役甲寅遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神丙辰賜有位親王以下至進廣肆難波大藏鍬各有差庚申詔曰凢繋囚見一皆原散五月乙丒朔庚午御阿胡行宮時進贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麿等兄弟三戸服十年調役雜傜復免挾杪八人今年調役辛未相摸國司獻赤鳥鶵二隻言獲於御浦郡丙子幸吉野宮庚辰車駕還宮辛巳遣大夫謁者祠名山岳瀆請雨甲申贈文忌寸智德直大壹幷賜賻物丁亥遣淨廣肆難波王等鎮祭藤原宮地庚寅遣使者奉幣于四所伊勢大倭住吉紀伊大神告以新宮」
【六年の春正月の丁卯が朔の庚午の日に、皇子の高市に二千戸、以前と併せて五千戸に増封した。癸酉の日に、公卿達を饗応して衣物を与えた。戊寅の日に、天皇は、条坊制の京の道路を観た。壬午の日に、公卿以下、初位以上に至るまでに饗応した。癸巳の日に、天皇は、高宮に行幸した。甲午の日に、天皇は、高宮から帰った。二月の丁酉が朔の丁未の日に、役人に、「丁度、三月三日に、伊勢に行幸しようと思う。この決意を知って、諸々の衣物を備えなさい」と詔勅した。陰陽道の博士の僧侶の法藏・道基に銀二十両を与えた。乙卯の日に、刑部省に詔勅して、軽罪の囚人を赦した。この日に、中納言の直大貳の三輪の朝臣の高市麻呂が、「天皇が、伊勢に行幸しようとして、農繁期の妨げになる」と、上表を敢えて直言して、面と向かって諌めた。三月の丙寅が朔の戊辰の日に、淨廣肆の廣瀬王・直廣參の當摩の眞人の智徳・直廣肆の紀の朝臣の弓張達を、留守官にした。そこで、中納言の大三輪の朝臣の高市麻呂はその位冠を脱いで、天皇に突き挙げて、重ねて、「農繁期に、行幸の際に乗るくるまを動かしてはなりません」と諌めた。辛未の日に、天皇は、諫言に従わないで、とうとう伊勢に行幸した。壬午の日に、通り過ぎる神郡、および伊賀・伊勢・志摩の国造達に冠位を与えあはせて今年の強制労働を免除し、また、おともの行列に加わる騎士・役人の荷物持ち・行宮を造る人足の今年の強制労働を免除して、天下に大赦を公布した。ただし盜賊は赦さなかった。甲申の日に、通り過ぎる志摩の百姓の男女の年齢八十以上に、稲を、人毎に五十束を与えた。乙酉の日に、行幸の際に乗るくるまが宮に帰った。行き到る毎に、郡縣の役人と人民を集めて、つとめをねぎらって、物を与え、歌と舞を行った。甲午の日に、詔勅して、近江・美濃・尾張・參河・遠江等の国のおともの行列に加わった騎士、及び諸国の荷物持ち・行宮を造った人足の今年の追加の強制労働を元に戻した。詔勅して、天下の百姓の、困窮者に稲を男には三束、女には二束与えた。夏四月の丙申が朔の丁酉の日に大伴の宿禰の友國に直大貳を贈ってあはせてその遺族に物を贈った。庚子の日に、四の畿内の百姓の荷物持ちの今年の強制労働をやめた。甲寅の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神のお祭りをさせた。丙辰の日に、位が有る者で、親王以下進廣肆までに、難波の大藏の鍬を各々差をつけて与えた。庚申の日に、「全ての囚人・見つけた罪人は、皆一斉に野に放ちなさい」と詔勅した。五月の乙丑が朔の庚午の日に、阿胡の行宮に滞在した時に、物産を献上した紀伊の国の牟婁の郡の人で阿古志の海部の河瀬麻呂達は、兄弟の三家に、十年間の強制労働・雑役を免除する。また、船員八人に、今年の追加の強制労働を元に戻した。辛未の日に、相模の国司が、赤い烏の雛二隻を献上した。「御浦の郡で獲た」と言った。丙子の日に、吉野の宮に行幸した。庚辰の日に、天皇が宮に帰った。辛巳の日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、名のある山岳や用水の祠で雨乞いをした。甲申の日に、文の忌寸の智徳に直大壹を贈ってあはせてその遺族に物を贈った。丁亥の日に、淨廣肆の難波王達を派遣して、藤原の宮地の地鎮祭を行った。庚寅の日に、使者を派遣して、ごへいを伊勢・大倭・住吉・紀伊の四所の大神に奉納した。新しい宮のことを告げた。】とあり、三月丙寅は2月30日、五月乙丑は4月30日でともに前月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。
伊勢旅行は『万葉集』の柿本人麻呂の歌が有名で、実際に伊勢旅行を行ったことが証明されているが、実際の旅行が692年だったのか疑問である。
それは、『万葉集』では人麻呂が明日香皇女・高市皇子・日並皇子が「殯宮之時」の歌で生前の歌が無く、705年死亡の忍壁皇子以降の軽皇子・長皇子・新田部皇子・泊瀬部皇女に「殯宮之時」の歌が無い。
日並皇子は『粟原寺鑪盤銘』に「日並御宇東宮・・・以甲午年始」と694年は東宮で、東宮は敏達天皇五年「菟道貝鮹皇女是嫁於東宮聖徳」、舒明天皇十三年「是時東宮開別皇子年十六而誄之」、天智天皇八年「天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家」と、聖徳・開別・大皇弟(?大海)のように推古天皇の甥、孝徳天皇の甥、天智天皇の弟で直系でない人物が跡継ぎに指名された人物の呼び名で、日並は天武天皇の子草壁皇子と確定するのは難しい。
すなわち、『新唐書』の「天智死子天武立」と天智天皇の子の天武が即位して大化年号を建元して、天智の叔父若しくは弟が日並で人麻呂は「軽皇子宿于安騎野時」の歌に「吾大王 高照 日之皇子」と軽皇子を大王と呼び695年以降705年までに文武天皇に仕えた歌人で、日並が東宮から廃位されて只の「皇子」と呼ばれ、天皇御遊雷岳之時の歌に「皇者神二四座者天雲之雷之上尓」、高市皇子尊城上殯宮之時「鼓之音者雷之聲登聞麻弖吹響流」と『古事記』上卷序に「曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世濳龍體元洊雷應期」、「皇輿忽駕淩渡山川六師雷震三軍電逝」がよく合致している。
すなわち、この伊勢旅行は大化6年700年の説話の可能性が有り、天智天皇の子の天武が農繁期に遊び惚けて散財し、廃位した日並や高市皇子がクーデターを起こして薨去し、軽皇子が文武天皇として即位して『新唐書』「長安元年其王文武立改元曰太寶」、『続日本紀』701年大宝元年三月「建元爲大寶元年」と現代まで続く元号を発布した。
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