2021年3月22日月曜日

最終兵器の目 持統天皇12

  日本書紀 慶長版は

七年春正月辛夘朔壬辰以淨廣壹授皇子髙市淨廣貳授皇長與皇子弓削是日詔令天下百姓服黃色衣奴皁衣丁酉饗公卿大夫等癸夘賜京師及畿內有位年八十以上人衾一領絁二匹緜二屯布四端乙巳以正廣參贈百濟王善光幷賜賻物丙午賜京師男女年八十以上及困乏窮者布各有差賜舩瀬沙門法鏡水田三町是日漢人等奏蹈歌二月庚申朔壬戌新羅遣沙飡金江南韓奈麻金陽元等來赴王喪己巳詔造京司衣縫王等收所掘尸巳丒以流來新羅人牟自毛禮等三十七人付賜憶德等三月庚寅朔日有蝕之甲午賜大學博士勤廣貳上村主百濟食封三十戸以優儒道乙未幸吉野宮庚子賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物壬寅天皇至自吉野宮乙巳賜擬遣新羅使直廣肆息長真人老勤大貳大伴宿祢子君等及學問僧弁通神叡等絁綿布各有差又賜新羅王賻物丙午詔令天下勸殖桑紵梨栗蕪菁等草木以助五穀夏四月庚申朔丙子遣大夫謁者詣諸社祈雨又遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神辛巳詔內藏寮?(久:允)大伴男人坐贓降位二階解見任官典鑰置姶多久與菟野大伴亦坐贓降位一階解見任官監物巨勢邑治雖物不入於巳知情令盜之故降位二階解見任官然置始多久有勤勞於壬申年役之故赦之伹贓者依律徵納五月己丒朔幸吉野宮乙未天皇至自吉野宮癸卯設無遮大會於內裏

七年の春正月の辛卯が朔の壬辰の日に、淨廣壹を、皇子の高市に授けた。淨廣貳を、皇(?)の長と皇子の弓削とに授けた。この日に、詔勅して天下の百姓に、黄色の衣を着させ、しもべは灌木の樹皮などで染めた焦茶色の衣を着させた。丁酉の日に、公卿や高官達を饗応した。癸卯の日に、京師および畿内の、位が有って年齢八十以上の人毎に寝具一領・太絹二匹・綿二屯・布四端を与えた。乙巳の日に、正廣參を、百済王の善光に贈りあわせてその遺族に物を贈った。丙午の日に、京の男女の、年齢八十以上、および困窮している者に布を各々差をつけて与えた。船瀬の僧侶の法鏡に水田三町与えた。この日に、漢人達が、足で地を踏み拍子をとる舞踊を奏上した。二月の庚申が朔の壬戌の日に、新羅は、沙飡の金江南・韓奈麻の金陽元達を派遣して王の喪の報告に来た。己巳の日に、京を造る責任者の衣縫王達に詔勅して、掘った死体を収容した。己丑の日に、漂着した新羅人の牟自毛禮達三十七人を、憶徳達に従わせた。三月の庚寅が朔の日に、日食が有った。甲午の日に、大学の博士の勤廣貳の上村の主の百濟に、三十戸を与えた。これで儒学の道に専念させた。乙未の日に、吉野の宮に行幸した。庚子の日に、直大貳の葛(?)原の朝臣の大嶋の遺族に物を贈った。壬寅の日に、天皇は、吉野の宮から帰った。乙巳の日に、新羅に派遣する直廣肆の息長の眞人の老・勤大貳の大伴の宿禰の子君達および学僧の辨通・神叡達に、太絹・綿・布を各々差をつけて与えた。また新羅の王の遺族に物を贈った。丙午の日に、詔勅して、天下に、桑・麻・梨・栗・かぶ等の草木を植えることを勧めた。それで五穀の助けとなる。夏四月の庚申が朔の丙子日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、諸社に参拝して雨乞いをした。また使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神のお祭りをさせた。辛巳の日に、「内蔵寮の第三等の官の大伴の男人が賄賂を受け取った。位を二階下げて、解任しなさい。倉の鍵をつかさどる置始の多久と菟野の大伴も、賄賂を受け取った。位を一階下げて、解任しなさい。庫の鍵を管理していた巨勢の邑治は、物を懐に入れなかったが、横領を知りながら見逃した。それで位を二階下して、解任しなさい。しかし置始の多久は、壬申の年の戦いで骨身を惜しまず働いたので赦せ。ただし盗った物は法に従って取り上げなさい」と詔勅した。五月の己丑が朔の日に、吉野の宮に行幸した。乙未の日に、天皇は、吉野の宮から帰った。癸卯の日に、だれにでも財施・法施を行う大法会を内裏で開いた。】とあり、二月庚申は1月30日で五月己丑は4月30日で前月が小の月なら標準陰暦と合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。

ここに出現する葛原朝臣大嶋は天武天皇十年「大山上中臣連大嶋・・・授小錦下位」、天武天皇十二年「小錦下中臣連大嶋并判官」、天武天皇十四年「藤原朝臣大嶋・・・賜御衣袴」、朱鳥元年「直大肆藤原朝臣大嶋誄兵政官事」、持統元年「直大肆藤原朝臣大嶋」、持統二年「藤原朝臣大嶋誄焉」、持統四年・持統五年「神祗伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞」、持統七年「賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物」、『続日本紀』文武二年「藤原朝臣所賜之姓宜令其子不比等承之但意美麻呂等者縁供神事宜復舊姓焉」、715年『粟原寺鑪盤銘』「仲臣朝臣大嶋・・・甲午年始至和銅八年」と685から688年で、ある天皇の末の2年間とある天皇の始まりの2年間のみ藤原姓を名乗っている。

これは、天智八年「授大織冠與大臣位仍賜姓爲藤原氏」が天武十三年にあたり、実際は692年に相当し、この年は「鎭祭藤原宮地」と藤原宮を建設し始め、この時に危篤の鎌足に新しく建設する宮地の名前を与え、大化2年の698年まで大嶋も藤原姓を使用し、698年の中臣姓に復帰したが、『続日本紀』の701年「山背國葛野郡月讀神樺井神木嶋神波都賀志神等神稻自今以後給中臣氏」の時葛原姓を使用して同年大化7年701年に薨じ、715年の『粟原寺鑪盤銘』に中臣一門の姓で記述したと考えられる。

天皇の継承は父系の中臣氏ではなく母系の物部系の春日日爪臣と蘇我稲目の血を引く宗賀倉王の媛の子の菟野皇女の皇子の日並および、日並の妻で稲目の媛の額田姫、すなわち、豐御氣炊屋比賣と同系の媛の子である。


0 件のコメント:

コメントを投稿