日本書紀 慶長版は
「閏五月乙未朔丁酉大水遣使修行郡國禀貸灾害不能自存者令得漁採山林池澤詔令京師及四畿內講說金光明經戊戌賜沙門觀成絁十五匹綿三屯布五十端美其所造鈆粉丁未伊勢太神奏天皇曰免伊勢國今年調役然輸其二神郡赤引絲參拾伍斤於來年當折其代乙酉詔筑紫大宰率河內王等曰冝遣沙門於大隅與阿多可傳佛教復上送大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿弥陀像六月甲子朔壬申勅郡國長吏各禱名山岳瀆甲戌遣大夫謁者詣四畿內請雨甲申賜直丁八人官位美其造大內陵時勤而不懈癸已天皇觀藤原宮地秋七月甲午朔乙未大赦天下伹十惡盜賊不在赦例賜相模國司布勢朝臣色布智等御浦郡少領(闕姓名)與獲赤烏者鹿嶋臣櫲樟位及祿服御浦郡三年調役庚子宴公卿壬寅幸吉野宮甲辰遣使者祀廣瀬與龍田辛酉車駕還宮是夜熒惑與歳星於一步內乍光乍沒相近相避四遍八月癸亥朔乙丒赦罪巳夘幸飛鳥皇女田莊即日還宮九月癸巳朔辛丑遣班田大夫等於四畿內丙午神祇官奏上神寶書四卷鑰九箇木印一箇癸丑伊勢國司獻嘉禾二本越前國司獻白蛾戊午詔曰獲白蛾於角鹿郡浦上之濱故増封笥飯神二十戸通前冬十月壬戌朔壬申授山田史御形務廣肆前爲沙門學問新羅癸酉幸吉野宮庚辰車駕還宮十一月辛夘朔戊戌新羅遣級飡朴億德金深薩等進調賜擬遣新羅使直廣肆息長真人老務大貳川內忌寸連等祿各有差辛丒饗祿新羅朴憶德於難波館十二月辛酉朔甲戌賜音博士續守言薩弘恪水田人四町甲申遣大夫等奉新羅調於五社伊勢住吉紀伊大倭菟名足」
【閏五月の乙未が朔の丁酉の日に、洪水があった。使者を派遣して郡国を巡回して、災害で生活できない者に扶持を貸し付け、山林池沢で漁や山菜取りを許した。詔勅して京および畿内4国で、金光明経を読経させた。戊戌の日に、僧侶の觀成に、太絹十五匹・綿三十屯・布五十端を与え、その作ったおしろいをほめた。丁未の日に、伊勢の大神が、天皇に「伊勢国の今年の強制労働を免除したが、その代わりに二つの神の郡から運ぶ、神御衣のための糸三十伍斤は、来年と折半してほしい」と奏上した。己酉の日に、筑紫の大宰の率の河内王達に「僧侶を大隅と阿多に派遣して、佛教を伝えなさい。また、大唐の大使の郭務悰が近江大津宮天皇の為に造った阿彌陀像を上送しなさい」と詔勅した。六月の甲子が朔の壬申の日に、郡国の長官に詔勅して、各々の名のある山岳や用水で祈祷させた。甲戌の日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、四国の畿内に詣でて雨乞いした。甲申の日に、大内陵を造った時に怠らないで勤めたことをほめて雑役八人に官位を与えた。癸巳の日に、天皇は、藤原の宮地を観た。秋七月の甲午が朔の乙未の日に、天下に大赦を発令した。ただし大罪の者や盗賊は赦さなかった。相模の国司の布勢の朝臣の色布智達・御浦の郡の少領と、赤い烏を獲た鹿嶋の臣の櫲樟とに、位及び俸禄を与えた。御浦の郡の三年の強制労働を許した。庚子の日に、公卿のために宴会を開いた。壬寅の日に、吉野の宮に行幸した。甲辰の日に、使者を派遣して、廣瀬と龍田とをお祭りさせた。辛酉の日に、天皇は宮に帰った。この夜、火星と木星が、一歩以内で、光ったり消えたり近づいたり遠ざかったりを4回繰り返した。八月の癸亥が朔の乙丑の日に、罪を赦した。己卯の日に、飛鳥皇女の領地に行幸した。その日に、宮に帰った。九月の癸巳が朔の辛丑の日に、班田の高官達を四の畿内に派遣した。丙午の日に、神祇官が、奏上して神寶書(?所蔵物目録)四卷・鍵(?所蔵庫のカギ)九箇・木の印一箇を上納した。癸丑の日に、伊勢の国司は、穂がたくさんついた優良な稲二本を献上した。越前の国司が白い蛾・蝶を献上した。戊午の日に、「白い蛾・蝶が角鹿の郡の浦上の浜でとれた。それで笥飯の神に二十戸を、前からの封に追加する」と詔勅した。冬十月の壬戌が朔の壬申の日に、山田の史の御形に務廣肆を授けた。前に僧となって、新羅で学んだ。癸酉の日に、吉野の宮に行幸した。庚辰の日に、天皇は宮に帰った。十一月の辛卯が朔の戊戌の日に、新羅は級飡の朴億徳・金深薩達を派遣して年貢を進上した。新羅に派遣する使者の直廣肆の息長の眞人の老・務大貳の川内の忌寸の連達に各々差をつけて俸禄を与えた。辛丑の日に、新羅の朴憶徳を難波館で饗応した。十二月の辛酉が朔の甲戌の日に、音の博士の續守言と薩弘恪人毎に四町の水田を与えた。甲申の日に、高官達を派遣して、新羅の年貢を、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足の五社に奉納した。】とあり、十一月辛卯朔は10月30日で10月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。
「『持統天皇5』で河内王の子が『続日本紀』に記述されない恵まれない地位にあまんじた」と記述したが『新唐書』に「子總持立・・・咸亨元年・・・使者不以情故疑焉又妄夸其國都方數千里」と總持天皇の王朝は唐朝が協力して蘇我倭国をクーデターで排して新羅との友好国俀国を日本の朝廷と認めた恩義を忘れて唐の意向に反し、数千Km四方の領地・日本列島と朝鮮半島を領土と疑いたくなる主張をしたと述べているが。
『続日本紀』に704年慶雲元年に「正四位下粟田朝臣眞人自唐國至初至唐時『唐人謂我使曰亟聞海東有大倭國謂之君子國人民豊樂禮義敦行今看使人儀容大淨豈不信乎語畢而去』」、これは『舊唐書』の貞觀五年631年に「遣使獻方物」とあり、この時遣って来た使者君子の国ではなく「君子国」と『山海經』に記述される 君子国が使者の出発した大倭国と述べ、それを引き継いだのが701年に開いた粟田眞人が仕える朝廷だと述べ、總持天皇の朝廷との立場と分けている。
『那須国造碑』に「永昌元年己丑・・・評督被賜歳次庚子年正月二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘」と789年に評督を拝命して碑を700年に建てて、700年まで評督として勤めたことを示し、評督の上部組織の筑紫都督府が700年まで有り、それ以降評が出現せず、都督府がなくなったことが解り、その結果が唐朝の「不以情故疑焉」の原因ではないだろうか。
それに対して、文武朝は粟田眞人を唐に「正六位上幡文通爲遣新羅大使」と新羅に派遣して『続日本紀』に698年文武二年の「新羅使一吉飡金弼徳等貢調物」と698年以降、文武朝が遷都した後の705年慶雲二年「新羅貢調使一吉飡金儒吉等來獻」まで新羅が年貢を持ってこなかったが年貢を再開したは大長年号が始まった總持天皇の時である。
685年天武天皇十四年「直大肆粟田朝臣眞人」と15位が700年文武四年「直大貳粟田朝臣眞人」と11位に出世するのに15年かかっていたのに、704年には8位に大出世して唐と新羅との外交に対して評価され、新王朝設立に活躍したことを示している。
『淮南子』の墬形訓の「自東南至東北方有大人國君子國」や『山海經』の「海外東經」の「君子國在其北衣冠帶劍」の君子国の有った大倭国と唐や元明朝まで継承され、『三国史記』では新羅の417年即位の訥祇麻立干が「形神爽雅有君子之風」、737年即位の孝成王に「新羅號爲君子之國・・・使知大國儒敎之盛」と儒教の君子を想定しており、中国では『春秋左傳』の桓公に「君子不欲多上人況敢陵天子乎」王は天子で、『莊子』の內篇 の大宗師に「故曰天之小人人之君子人之君子天之小人也」と天→天子→天の小人含む君子→君子の小人の序列だ。
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