2021年3月29日月曜日

最終兵器の目 持統天皇15

 日本書紀 慶長版は

「九年春正月庚辰朔甲申以淨廣貳授皇子舍人丙戌饗公卿大夫於內裏甲午進御薪乙未饗百官人等丙申射四日而畢閏二月己夘朔丙戌幸吉野宮癸巳車駕還宮三月戊申朔己酉新羅遣王子金良琳補命薩飡朴強國等及韓奈琳()金周漢金忠仙等奏請國政且進調獻物己未幸吉野宮壬戌天皇至自吉野庚午遣務廣貳文忌寸博勢進廣參下譯語諸田等於多祢求蠻所居夏四月戊寅朔丙戌遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神甲午以直廣參贈賀茂朝臣蝦夷幷賜賻物(本位勤大壹)以直大肆贈文忌寸赤麿幷賜賻物(本位大山中)五月丁未朔己未饗隼人大隅丁夘觀隼人相撲於西槻下六月丁丒朔己夘遣大夫謁者詣京師及四畿內諸社請雨壬辰賞賜諸臣年八十以上及痼疾各有差甲午幸吉野宮壬寅至自吉野秋七月丙午朔戊辰遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神辛未賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野務大貳伊吉連博德等物各有差八月丙子朔已亥幸吉野乙巳至自吉野九月乙巳朔戊申原放行獄徒繋庚戌小野朝臣毛野等發向新羅十月乙亥朔乙酉幸菟田吉隱丙戌至自吉隱十二月甲戌朔戊寅幸吉野宮丙戌至自吉野賜淨大肆泊瀬王賻物」

【九年の春正月の庚辰が朔の甲申の日に、淨廣貳を、皇子の舍人に授けた。丙戌の日に、公卿と高官を内裏で饗応した。甲午の日に、薪を進上した。乙未の日に、役人たちを饗応した。丙申の日に、矢を射させた。四日かかって終了した。閏二月の己卯が朔が丙戌の日に、吉野の宮に行幸した。癸巳の日に、天皇が、宮に帰った。三月の戊申が朔の己酉の日に、新羅は、王子の金良琳・補命の薩飡の朴強國達、および韓奈麻の金周漢・金忠仙達を派遣して、国の政策の相談を要請した。また、進んで年貢に物産を献上した。己未の日に、吉野の宮に行幸した。壬戌の日に、天皇は、吉野から帰った。庚午の日に、務廣貳の文の忌寸の博勢・進廣參の下の譯語の諸田達を多禰に派遣して、蛮族の居住地を調べさせた。夏四月の戊寅が朔の丙戌の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神とをお祭りさせた。甲午の日に、直廣參を、賀茂の朝臣の蝦夷に贈ってあはせて遺族に物を贈った。(本の位は勤大壹)。直大肆を、文の忌寸の赤麻呂に贈って、あはせて遺族に物を贈った。(元の位は大山中)。五月の丁未が朔の己未の日に、隼人大隅を饗応した。丁卯の日に、隼人の相撲を西のケヤキの木の下で観戦した。六月の丁丑が朔の己卯の日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、京および四の畿内の諸社に参拝させて雨乞いをした。壬辰の日に、諸臣の年齢八十以上および長期間病に臥せっている人(?戦傷者)に各々差を付けて与えた。甲午の日に、吉野の宮に行幸した。壬寅の日に、吉野から帰った。秋七月の丙午が朔の戊辰の日に、使者を派遣して、廣瀬の大忌神と龍田の風神とをお祭りさせた。辛未の日に、新羅に派遣する使者の直廣肆の小野の朝臣の毛野・務大貳の伊吉の連の博徳達に物を各々差を付けて与えた。八月の丙子が朔の己亥の日に、吉野に行幸した。乙巳の日に、吉野から帰った。九月の乙巳が朔の戊申の日に、監獄の囚人や労役の囚人を解放した。庚戌の日に、小野の朝臣の毛野達が、新羅に出発した。冬十月の乙亥が朔の乙酉の日に、菟田の吉穩に行幸した。丙戌の日に、吉穩から帰った。十二月の甲戌が朔の戊寅の日に、吉野の宮に行幸した。丙戌の日に、吉野から至った。淨大肆の泊瀬王の家族に物を贈った。】とあり、七月丙午朔は6月30日、九月乙巳朔は8月30日で6月と8月が小の月なら標準陰暦と合致し、潤二月己卯朔は2月28日が春分で3月29日晦日が穀雨で晦日が朔の地域では3月29日は4月1日に変換され、3月が閏月となり、三月己卯朔は閏二月己卯朔になり、他は標準陰暦と合致する。

このように、元明天皇は2種以上の資料をまとめて『日本書紀』を完成させていて、一方の資料は月毎の中気や朔日・晦日の日干支を残した資料が有り、もう一方には次項で述べる古い周時代から中国の晦日を朔とする長い歴史を持つ資料が有ったことが類推される。

小野朝臣毛野は『続日本紀』和銅七年に「中納言從三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨小治田朝大徳冠妹子之孫小錦中毛人之子也」と714年に薨じ、從三位は6番目の地位で父毛人は大紫から数えて7番目、妹子は推古天皇十五年「大禮小野臣妹子遣於大唐」と唐に行った時は5番目の大禮で、薨去時は最高位の大徳としている。

『小野毛人墓誌』には「小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と677年に薨じ、地位は『続日本紀』と「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上」のように異なるが、恐らく敗れたほうの王朝での地位なのだろう。

問題は小野毛人の7番目という地位の低さで、毛野との死亡時の差が37年で20年近く若死で40歳ころの死亡と考えられ、すると、小野妹子は推古天皇十五年の遣唐使では年齢が合致せず、630年代の遣唐使と証明され、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「小治田大宮治天下大王天

皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」とあるように小治田天皇が667年に存在し、36年間小治田宮があったとすると、631年から小治田宮が有り、推古15年は641年の貞觀十五年の唐来日時に「唐客裴世清罷歸則復以小野妹子臣爲大使」と妹子が翌年送使で訪唐して蘇因高を号し、妹子遣唐使は654年の永徽五年で妹子が660年代の死亡ならよく合致する。

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