2017年8月30日水曜日

最終兵器のミサ  『藤氏家伝』

 前回までは当然原本は無かったり見ることはできないけれど、古い写本が写真のライブラリーとして国会図書館の文献で確認して分析できてきた。けれど、古い写本が見れないけれどネット上にあふれている原文と言っている情報があふれていて古代史を考えるための参考にできる。
しかし、所詮は古写本をさらに一部書き換えてある可能性があって一段階下にして注意深く考えないといけないけれど、とても重要な文献だ。だからネット上で脚色されているかもしれないけれど、まず、何度も触れた『藤氏家伝』を見てみると、矛盾が2点あって、1点が白雉と白鳳の年号の違いと2点目が斉明天皇に13年はなく白鳳13年なら673年になってしまう。
だけれども、白鳳を白雉にすればよいわけでもなくて、白鳳を白雉にすると天智天皇はまだ摂政ではなくて「庶務委」と言えない。皇太子が摂政でなくても「庶務委」ならことさら書く必要がなく、もっと大きな矛盾は645年にはまだ大錦冠がまだ制定されていないくて日本書紀にさえも矛盾がある。さらに、天皇の死亡が13年の問題は舒明天皇13年なら間違いではないが朝倉宮は無関係になり斉明天皇7年の間違いと言わなければならない。けれど、12・13・14と同じ間違いを繰り返すことは有り得ないと思うし、間違いならどうして間違えたか合理的な説明ができない。
『日本書紀』
孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年六月庚戌 「以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣 増封若于戸云云」
白雉五年正月壬子 「以紫冠授中臣鎌足連 増封若干戸」
大化三年是歳 「制七色一十三階之冠一曰・・・四曰 錦冠 有大小二階其大錦冠以大伯仙錦爲之」
『藤氏家伝』
「白鳳五年 秋八月 ・・・其大綿冠内臣中臣連 功侔建内宿禰 位未允民之望 超拝紫冠 増封八千戸
・・・俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲 皇祖母尊 俯從物願 再應寶暦 悉以庶務 委皇太子 
・・・故遷大紫冠 進爵爲公 増封五千戸 前後并凡一萬五千戸・・・ 
冬十一月 天皇喪至自朝倉宮 殯于飛鳥川原・・・ 十四年 皇太子攝政 契闊早年」

しかし、日本書紀では舒明天皇の死亡時に東宮開別皇子が16歳と天皇には若いかもしれないけれど摂政には十分な年齢になっていて矛盾がない。白鳳5年の間違いも日本書紀通りに白雉5年と書こうとしたけれど矛盾を感じて白鳳にしたと思え、元々摂政も天皇が病気か幼少か不在の時に就任するものだ。日本の天皇は自らが先頭に立って戦うと倭王武が上表文に書いていて、実際に白村江の戦いが有ったのだから、天皇が朝鮮に出兵していた可能性も高く、665年には唐の天子と会っているので日本に不在だった。
『日本書紀』
舒明天皇十三年十月丙午 「丙午 殯於宮北 是謂百濟大殯 是時東宮開別皇子年十六而誄之」
『舊唐書』 劉仁軌傳
「麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅 擢拜大司憲」

日本書紀と 藤氏家伝はともに矛盾だらけで、舒明天皇13年に天智天皇が16さいで皇太子としているけれど、641年に16歳なら死亡時の671年は46歳で年齢が合わず、 藤氏家伝は皇太子を中大兄と殿下と呼ばないで孝徳天皇の皇太子になってから殿下と呼んでいる。何よりも日本書紀では鎌足の活躍が乙巳の変以降664年の郭務悰等との会談までなくて、これ以降何度も日本書紀に書かれている。
とゆうことで、 大紫蘇我連大臣薨が蝦夷の死亡で5月と書いてあるけれど或る本5月と念を押しているのは本来は6月なのだと思える。664年6月に入鹿を暗殺して蝦夷も殺して、 嶋皇祖母の死亡が後岡本天皇の死亡のことだとしたら、3人に対中国戦の責任を取らせたのだと思う。
『日本書紀』
天智天皇三年五月是月 「大紫蘇我連大臣薨 或本 大臣薨注五月」
天智天皇三年六月 「嶋皇祖母命薨」 
天智天皇三年十月乙亥朔 「宣發遣郭務悰等 勑是日中臣内臣 遣沙門智祥賜物於郭務悰」
『藤氏家伝』
「超拝紫冠 増封八千戸 俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲 皇祖母尊 俯從物願 再應寶暦」

権力の中枢の藤原氏の史書でさえも自由に書けないで、日本書紀と比べながら書いていて、日本書紀を創るときも藤原氏の資料どおりに書いていない。正史の日本書紀だとゆうことをまざまざと示していて、きっと、不比等の歴史も書きはしたけれど日本書紀や続日本紀と鎌足の歴史以上に矛盾が有りすぎて削除するほかなかったのだと思う。

2017年8月28日月曜日

最終兵器のミサ 『先代旧事本紀』と『上宮聖徳法王帝説』

 『上宮聖徳法王帝説』の在位年数を元明天皇の系図として考えて、小治田天皇の末年を700年とすると始まりが664年で小治田での中宮天皇政権の始まりでおさまりが良く、倉橋天皇の始まりは661年で白鳳年号の始まりと同じで、池邊天皇は658年、他田天皇は644年、志歸嶋天皇は603年が元年になる。
『上宮聖徳法王帝説』
志歸嶋天皇治天下卌一年 辛卯年四月崩 陵檜前坂合岡也
他田天皇治天下十四年 乙巳年八月崩 陵在川内志奈我原也
池邊天皇治天下三年 丁未年四月崩 秋七月奉葬 或云川内志奈我中尾稜 
倉橋天皇治天下四年 壬子年十一月崩 實爲嶋大臣所滅也 陵倉橋岡在也
小治田天皇治天下卅六年【戊子年三月崩 陵大野岡也 或云川内志奈我山田寸

そして、太子夫人を欽明天皇の夫人と混同してしまっているけれど、『先代旧事本紀』の作者は倭国の歴史と物部氏の秦王国の歴史を混同してしまっているようで、官位も日本書紀と全く違うし、遣唐使もまだ建国されていない607年に派遣したことになっているけれど、元明天皇の系図の欽明天皇15年617年は唐の傀儡政権の恭帝侑が皇帝で実質は唐の建国の時の話で遣唐使で間違いはない。
『先代旧事本紀』 推古天皇
十五年秋七月戊申朔庚戌大禮小野臣妹遣於大唐以鞍作福利爲通事此遣唐之始也
廾年春二月朔庚午政葬皇大夫人堅塩媛於檜隈大陵是日?()於輕街
・・・廾七年冬・・・別而名之謂八義於矣所謂八義者蓋謂孝悌忠仁礼義智信欤
『上宮聖徳法王帝説』
聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子 名刀自古郎女 生児山代大兄王・・・又聖王娶尾治王女子 位奈部橘王 生
『日本書紀』 
推古天皇十一年十二月壬申
「始行冠位 大徳 小徳 大仁 小仁 大禮 小禮 大信 小信 大義 小義 大智 小智 并十二階」
推古天皇十五年七月庚戌 「大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利爲通事」

唐にとってはとてもうれしい訪問だったのだろうけれど、遣唐使を派遣した秦大国は滅亡して蘇我氏と天氏の秦王国の跡目争いと倭国の皇太子イコール天皇とゆう制度のため高表仁とうまく折り合いがつかないで物別れになってしまったのだろう。
『旧唐書』
「貞観五年 遣使献方物 太宗矜其通遠 勅所司無令歳貢 又遣新州刺史高表仁 持節往撫之 表仁 無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還」

とゆうことは、対唐の小野妹子などは2つの時計が重なったもので、日本書紀の推古紀も物部氏の推古天皇の歴史が混じっていることが解って、唐は倭国と秦王国を値踏みして高句麗・新羅・百済・倭との駆け引きを活発にしていたことが解る。

2017年8月25日金曜日

最終兵器のミサ 『先代旧事本紀』

 聖徳太子関連の古文書で忘れてならないのが『先代旧事本紀』で聖徳太子が命令して蘇我氏馬子に書かせたと書いてあるけれど、実際は霊亀元年の715年の和泉国分割の話(続日本紀では霊亀2年)が書かれている。古事記に日本書紀の内容を加えるのでなくて日本書紀の背景を踏まえて書き加えてあって、馬子が書いたと言いながら蘇我氏の悪行をしっかり書いている。古事記が元明天皇の創作するときなら蘇我氏の悪口を同じように書いてあるはずだ。大安万呂は古事記を天皇名を変更しないで亦の名をつかったけれど、『先代旧事本紀』は天皇名を古事記にあわせて修正し、自家を天皇だと書くことは許されるはずはないけれど、自家が皇位を譲ったと書き改めている。もしかしたら、古事記が諸家の史書を書く基準となったと考えるべきかもしれない。
『先代舊事本紀』
序 「厩戸豊聰耳聖徳太子尊命大臣蘇我馬子宿禰等奉勅定宜録先代舊事」
國造本紀 「和泉國造 元河内國靈亀元年割置芳野監則改爲國元珍努宮」
『続日本紀』
霊亀二年三月癸夘丁丑朔廿七 「割河内國和泉日根兩郡 令供珍努宮」

その内容は、古事記神話の最初に狭霧尊をおいていかにも狭霧尊が建国者と書いていて、古事記ではその他大勢の国神にまぎれている。日本書紀では豐斟渟に勝っていて、国常立に次ぐNo2で日本書紀を書いた王朝が打ち破った王朝のように思え、逆に古事記では物部氏の祖宇摩志阿治をNo4に書いている。
『先代舊事本紀』
神代本紀 「高天原化生一神號日天譲日天狭霧國禅月國狭霧尊自厥以降獨化之外倶生二代耦生五代所謂」
『日本書紀』 「號國常立尊 次國狹槌尊 次豐斟渟尊 凡三神矣」
『古事記』 神代
「天之御中主神次高御産巣日神次神産巣日神・・・如葦牙因萌騰之物而成神名宇摩志阿斯訶備比古遲神」
「持別而生神名、天之狹土神訓土云豆知、下效此、次國之狹土神、次天之狹霧神、次國之狹霧神」

さらに、章の分け方が神武から神功皇后までの「天皇本紀」、応神から武烈天皇までの「神皇本紀」、継体から推古天皇までの「帝皇本紀」と、いままで王朝の交代で書いてきたものとよく似た分け方で、 天皇本紀は神国・大倭国、 神皇本紀は扶桑国、 帝皇本紀は秦王国として書いている。それに加えて物部氏の系図が関連付けて書いていて、自分がその天皇の家系で神皇本紀は物部氏がこの時代は神として活躍したと言っているような気がする。
そして、物部氏は饒速日の子孫で最初から天皇の璽を持っていたと書いているけれど、饒速日の義父長髓彦から宇摩志麻治が奪って神武天皇に渡したと、本来は長髓彦が天皇だったと書いている。その後天皇の璽の話を書いていないとゆうことは、本来饒速日の家系が持っていたとした資料が残っていて宇摩志麻治の同族の天皇に渡して石上神宮近辺で勢力を持っていて、本来の天皇は自分達だと言っている。
『先代舊事本紀』
天照太神詔日豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂國者吾御子正哉吾勝勝速日天押穂耳尊可知之國言・・・栲幡千千姫命爲妃誕生天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊之時・・・生之兒以此可降矣詔而許之
饒速日尊襄天神御祖詔乗天磐舩而天降坐於河內國河上哮峯則遷坐大倭國鳥見白山
饒速日尊便娶長髓彥妹御炊屋姬爲妃誕生宇摩志麻治尊矣
宇摩志麻治命不従舅謀誅殺佷戻帥衆歸順之・・・舅計帥軍歸順遂欵官軍朕嘉其忠節特加裒竉・・・復宇摩志麻治命以天神御祖饒速日尊天璽瑞寶十種壹而奉獻於天孫大嘉

とゆうことは、日本書紀の神武東征の中には饒速日と大物主の近畿侵入と天氏の筑紫平野侵入と武内氏の豊前侵入が入り混じった内容の可能性が高く、『先代舊事本紀』の神武東征は紀元前88年の4道侵攻の大彦(天香山の末裔)と長髓彥(東鯷国)の末裔との戦いの時に同族の宇摩志麻治が活躍してずっと石上神宮を祀っているとゆうことだ。『先代舊事本紀』で最初に大連になったのは羸津世襲で妹が孝昭天皇の妃で孝安天皇を産み紀元前88年の天皇は孝昭天皇にあたる。さらに、大連の家系と言った垂仁天皇の時大新河を大連を任命するとゆうことは、垂仁天皇が大連の上の地位の天皇という名前を制定したと考えるべきだろう。
『先代舊事本紀』
四世孫羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖 天忍男命子此命池心朝御世為大連供奉次建額赤 
妹世襲足姫命・・・腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇立爲皇后誕生・・・次日本足彦國杵人天皇是也
弟大新河命此命 纏向珠城宮御宇天皇御世 ・・・次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮其大連之號始起 

2017年8月23日水曜日

最終兵器のミサ 蘇我氏

 日本書紀の皇極天皇2年に興味をそそる文があって、入鹿の祖母が物部守屋の妹だから、母が権勢をふるっていたと書いている。『先代旧事本紀』では蝦夷を入鹿と書き間違えているかもしれないけれど「物部鎌媛大刀自」で物部贄古の娘だ。物部贄古は物部守屋大連の弟で姉の「御井夫人」が崇峻天皇妃で何故か弟の物部石上贄古連の夫人も「御井夫人」だ。そして、子供たちが推古天皇に仕えたと書いていて、その贄古の子の物部鎌媛大刀自」が蘇我馬子の妃だ。すなわち、物部贄古が崇峻天皇とおもわれるが、記紀には一言も書いてないけれども馬子と守屋の姻戚関係は書いてあり、用明天皇587年に物部守屋を滅ぼして入鹿の母親が栄華にしたるには年代的に早すぎて、間が抜けた話になってしまう。ところが、用明天皇が推古天皇にずれると様相が全く変わって、物部守屋の滅亡は推古天皇末年の628年で崇峻天皇も長らく天皇の同等の皇太子でその妃御井夫人も鎌媛大刀自も栄華を極める時間がたっぷりあったと思われる。物部贄古が崇峻天皇ならその兄物部守屋が用明天皇に、物部宿禰御狩が敏達天皇に、物部尾輿が欽明天皇、そして布都姫鎌媛が推古天皇かもしれない。
『日本書紀』 
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年七月
「蘇我大臣之妻 是物部守屋大連之妹也 大臣妄用妻計而殺大連矣」
皇極天皇二年十月壬子 
「入鹿擬大臣位復呼其弟曰物部大臣 大臣之祖母物部弓削大連之妹 故因母財取威於世」
『先代旧事本紀』
「十四世孫,物部大市御狩連公尾輿大連之子・・・弟贄古大連女宮 古郎爲妻生二兒 弟物部守屋大連公子日弓削大連・・・妹物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人・・・弟物部石上贄古連公 此連公異母妹御井夫人爲妻生四兒小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮
・・・
孫物部鎌束連公 贄古大連之子 弟物部長兄若子連公 弟物部大吉若子連公 妹物部鎌媛大刀自連公
此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政奉齋神宮 蘇我嶋大臣為妻生豊浦大臣名白入鹿連公」

 物部贄古の子が馬子の妃なのだから『上宮聖徳法王帝説』の626年または627年の馬子の死亡は蘇我稲目と考えられて、蘇我馬子が628年に物部氏を滅ぼして629年に蘇我王朝の推古紀が始まった。推古36年は664年になって664年に天皇と同等の皇太子入鹿がクーデターで暗殺され、蝦夷天皇も殺され、皇太子入鹿が死んだため史書作成が中途で終わってしまった。これが『上宮聖徳法王帝説』・『先代旧事本紀』の歴史観なのだろうか。
『上宮聖徳法王帝説』
曾我大臣 推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣・・・
又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之
『先代旧事本紀』
而修撰未竟 太子薨矣 撰録之事輟而不續

 そして、蘇我蝦夷・入鹿は天皇だから国政を執れたし、蝦夷が授号できて甘梼岡に御門があって、孝徳天皇より後に帯刀して入鹿が宮殿に登場しても何の問題もない。不満な人物だけが天皇と認めなかっただけで、それが天氏や中臣氏で、そして同族であっても不満が有った蘇我山田石川麻呂大臣の一門で、乙巳の変を引き起こした。すなわち、世代で考えれば、蝦夷と同じ年代が田村皇子や豐財の世代で、入鹿は天智天皇と同じ世代になる。
『日本書紀』
皇極天皇元年正月辛未 「大臣兒入鹿 更名鞍作 自執國政」
皇極天皇二年十月壬子 「蘇我大臣蝦夷 縁病不朝 私授紫冠於子入鹿 擬大臣位 復呼其弟曰物部大臣」
皇極天皇三年十一月 「蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣雙起家於甘梼岡 稱大臣家曰宮門 入鹿家曰谷宮門」

2017年8月21日月曜日

最終兵器のミサ 厩戸豊聰耳

 厩戸豊聰耳に関する文献はたくさん残っていて、異なっているところも多くあるが、おおむね日本書紀と似通っている。古事記の系図を書いたのは推古天皇までしか書いていないとゆうことは、書いたのは舒明天皇、すなわち蝦夷・入鹿が完成させていて、『上宮聖徳法王帝説』をそのまま古事記に付け加えてもまったく違和感を感じない紀伝体の文書だ。
『上宮聖徳法王帝説』には『法隆寺金堂坐釋迦佛光後銘文』(法隆寺本尊釈迦三尊像光背銘)が書かれていて、銘文を参考にしていることがよく解って、日本書紀とも多くが違和感を感じないとゆうことで、『上宮聖徳法王帝説』は日本書紀の前景となった資料と言ってもいい。蝦夷を豊浦大臣といかにも推古天皇と関連づけて推古天皇の子供として豊浦で生まれたような名前で、厩戸豊聰耳の子にも豐浦皇子と名前が書かれている。
『日本書紀』
用明天皇元年正月壬子朔 「立蘇我大臣稻目宿禰女石寸名爲嬪 是生田目皇子 更名豐浦皇子」
推古天皇即位前紀 「皇后即天皇位於豐浦宮」

そして、欽明天皇の在位年数が32年のはずが41年になってしまったのは『上宮聖徳法王帝説』を書いた人物にとって41年が常識で、古事記には欽明天皇の在位年数が書かれていなくて敏達・用明・崇峻は古事記と同じ年数で用明の日本書紀と違うところも同じで、推古は馬子の死亡年の迷いが出ているのだろう。
『上宮聖徳法王帝説』
志歸嶋天皇治天下卌一年 辛卯年四月崩 陵檜前坂合岡也
他田天皇治天下十四年 乙巳年八月崩 陵在川内志奈我原也
池邊天皇治天下三年 丁未年四月崩 秋七月奉葬 或云川内志奈我中尾稜 
倉橋天皇治天下四年 壬子年十一月崩 實爲嶋大臣所滅也 陵倉橋岡在也
小治田天皇治天下卅六年【戊子年三月崩 陵大野岡也 或云川内志奈我山田寸
・・・曾我大臣 推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣【曾我也】臥病
・・・又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之
『古事記』
御子、沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下十四歳也。
弟、橘豊日王、坐池辺宮、治天下三歳。
弟、長谷部若雀天皇、坐倉椅柴垣宮、治天下四歳。
妹、豊御食炊屋比売命、坐小治田宮、治天下三十七歳。
『日本書紀』
用明天皇二年四月癸丑 「天皇崩干大殿」

さらに『上宮聖德太子傳補闕記』では643年に起こった聖徳太子一家の滅亡記事で3年後に天皇になる「輕王」をその人物と考えていない書き方だ。「入鹿」も宗我氏でないような書き方になっていて日本書紀の3年後の天皇や林臣は入鹿を喩えたとゆう背景と少し違っているとゆうことは、入鹿や輕王は全くの別人と考えているのだろうか。
『上宮聖德太子傳補闕記』
癸卯年十一月十一日丙戌亥時 宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輕王 巨勢德太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣鹽屋枚夫等六人 發惡逆至計太子子孫 男女廿三王無罪被害
『日本書紀』
皇極天皇二年十一月丙子朔 「以伊波能杯爾而喩上宮 以古佐屡而喩林臣 林臣入鹿也」

日本書紀より後に創られた資料でも日本書紀と違っているからと言って間違いとはしないで、原則は正しいと考えて日本書紀との矛盾の背景を考えなければ多くの資料のある理由がなくなってしまい、後の資料を基にして日本書紀が間違いとするのも本末転倒だ。

2017年8月18日金曜日

最終兵器のミサ 船氏王後墓誌と法隆寺金堂薬師如来像

 古い遺物の続きだけれど、日本書紀より前に書かれた資料が日本にはいくつも残っていて1つが『船氏王後墓誌』でこれは668年に書かれたようで、天智天皇の即位の年だ。けれど、船王は乎婆陁宮天皇の時生まれて等由羅宮から阿須迦宮で仕えて阿須迦宮天皇之末の641年に死んだと書いてある。
墓誌を書いたときは政権が変わっていて天氏に仕えた官僚だから、墓に葬られた人物が活躍したおかげで現在の天皇家で良い地位を得られたために夫人を追葬して墓誌を書いたと思われる。日本書紀どおりなら阿須迦宮天皇ではなく岡本宮天皇だけれど日本書紀はできていないから天氏の新しい天皇家は丁度岡本天皇の夫の茅渟王への交代時期と考えられる。
『船氏王後墓誌』
「惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故 首之子也生於乎婆陁宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
三殞亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故 戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自 同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万 代之霊其牢固永劫之寶地也」

『船氏王後墓誌』に対して『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』では池辺宮天皇が646年に法隆寺と薬師如来像を造ったけれど間に合わなかったので小治田宮天皇と皇太子が667年に像を奉納したと書いている。けれど、天皇と大王天皇と書き分けていて、池辺天皇は蘇我氏、大王天皇は天氏の茅渟王と647年に亡くなる太子で、小治田大王天皇は天豊財、東宮聖王は天智天皇とゆうことになる。それぞれ、60年前と言われているけれど、像のデザイン年代と違ってしまう。池辺宮天皇はおそらく馬子で、日本書紀には馬子は崇峻天皇までしか活躍しないけれど、『上宮聖徳法王帝説』では推古天皇の時代も活躍していて、日本書紀の推古天皇の時代は馬子を天皇として書いてあると考えればよく、646年に35年目を迎える宮で死んだ。天豊財はまだ政権を奪った直後で蘇我氏の血縁が要職に居て、まだ歴史から消し去ることができないため、天皇と大王天皇を書き分けて蘇我天皇の冥福を祈ったと思える。666年にはその小治田天皇を野中寺金銅弥勒菩薩台座框』で中宮天皇と呼んで大病にかかったから野中寺に像を祀っている。大病の原因が蘇我氏の祟りと考えて翌年天皇の病状回復の後で像を奉納したのだろう
『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』
「池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉」
『日本書紀』 大化三年十二月晦
「是日 災皇太子宮 時人大驚恠」
『上宮聖徳法王帝説』
「曾我大臣 推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣・・・又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之」
『野中寺金銅弥勒菩薩台座框』
「丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」

とゆうことは、645年の乙巳の変以降蘇我大臣が現れないのは日本書紀の天皇を蘇我氏と読まなければならないとゆうことが解り、天氏の天皇と蘇我氏の天皇を見極めながら解釈しないといけない。とゆうことは、推古天皇の時代はすなわち用明天皇の時代から蘇我氏が書いたとゆうことが解る。

2017年8月11日金曜日

最終兵器のミサ 出土遺物

 前回は縄文時代の遺跡と絡めて日本の歴史を書いたので、続いて出土遺物の話をしてみようと思うけれど、出土遺物で1番に思いつくのが『漢委奴國王』の金印で『後漢書』にも建武中元二年57年と書いてある。志賀島で発見されたと言われているけれど発見された場所が違うやら盗んで隠したと自分の説に合わないからと難癖をつけている。しかし、私には難癖などつけなくてもそのまま受け入れられて、倭奴国は猪野皇大神宮がある場所で志賀島はその国の神域で漢が滅亡した時に用が済んだため祀ったと考えられる。
『後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五』
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」

次に現れるのは室見川で発見された銘板で『高暘左王作永宮斎鬲延光四年五』と彫られていて、「延光四年」は漢字でそれ以外は周時代から書き始められた篆字で書かれている。これの意味するところは、延光四年125に斎宮と分けて宮を造ったとゆうことで、しかも、この王様は周時代の文字の知識を持っていて書くことができたとゆうことで、しかも私が指定した宮の移り変わりの年号で126年から崇神天皇が始まる。その次は、奇抜な形をした刀の七支刀で、268年に作られて倭王旨に送っているけれど倭王の名前や百済の王子に合わないと違う年号に言い換えている。けれど、自分の王子が生まれた記念に日本に送るというとぼけた話があるとは思えない。実際は聖徳の子は応神天皇で応神天皇の誕生を祝って送ったのであって、倭王旨は仲哀天皇の死後皇位に就いた長男のことと考えられる。
『石上神宮伝世の七支刀』
泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世

次は『江田船山』の銀象嵌の刀があるけれど、年号が書かれていないし、王名が不明で分からないけれど、言われているような雄略天皇ではない。天皇ではなくて大王と書かれていて、磐井が豊や火を侵略したと書いていて磐井以前は火や豊は領域外で糟屋郡から逃れて肥後に遷ったと考えられる。そのため磐井より後の天氏の王だと思われ、大王の世の中ではなくて「世」とゆう王名で継体天皇元年に「世云」と一般には世の人が言っていると受け取られている。けれど、この言葉を述べて「踐祚」と皇位を継いでいるので、この王になった人物の言葉で、2代後ろの宣化天皇(火君)のことかと思われる。王の時代を言う場合は治天下天皇之時、世を使う場合は治天下の前に宮があって、宮で治めた天皇の世と書く。
『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』
「治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸」
『日本書紀』 継体天皇元年正月丙寅
「世云 勿論貴賎 但重其心 盖荒篭之謂乎 及至踐祚 厚加荒篭寵待」

そして、その次は『隅田八幡神社人物画像鏡』で癸未年は623年で聖徳太子が死んで2年後で私は聖徳太子がタリシヒコの弟で太子リカミタフリがもう一人の天皇としたけれど、聖徳太子が亡くなってその後を継ぐ皇太子イコール天皇がタリシヒコの長男で押坂彦人大兄皇子としたけれど、画像鏡には日十()大王が意柴沙加(押坂)宮で即位していて男弟王がその宮にいるときに鏡を作ったと書かれていてこれまたピッタリと符合する。
『隅田八幡神社人物画像鏡』
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等」

七支刀の記事の年号に矛盾があるけれど、この記事は268年がある天皇の宮の52年にあたっていて、日本書紀に接合するときにずれて挿入されたと考えるべきだと思える。日本書紀の日誌の部分は接合のズレを補正すれば正しい出来事と考えることができて、周時代使われた篆字を使いこなして、周時代に中国を訪問して、周時代の大夫とゆう制度を使ったとゆうことは周時代から資料を残している。そして、標準時計が無かったため年代が解らないだけだで、九州の王は漢が元号を始めたため標準時計ができ、その王の家系を日本書紀は日本の標準時計とした。
『日本書紀』
神功皇后摂政五十二年九月丙子
「久氐等從千熊長彦詣之 則獻七枝刀一口 七子鏡一面」

2017年8月9日水曜日

最終兵器のミサ 神話の背景

 「八」国王朝が最初の淡島を産む背景は何かと考えると、南九州でクジラ漁ではぐれて海を漂っているところに、日本書紀では国常立だけれど本来は伊弉神は8千年前頃対馬海流が発生した。日本書紀では磤馭慮島だけど本来は淡島が鍾乳石のできる様子を見ているような表現で島が出来たと書いているけれど、要は、神話を創った人物は船に乗って漂っていたら淡島を見つけて住み着いたのが現実だ。この人物たちはクジラを神と崇めて、クジラが島のような子供を産むところを見て、海底火山によって火山島ができるのを見て、そして、鍾乳石ができるところを見て神話を作り上げたようだ。このような神話を創り上げる人々は奄美群島か伊豆諸島で捕鯨を縄文初期から行っている人々しか見当たらない。この地域の栫ノ原遺跡(鹿児島県加世田市)から世界最古の1万2000年前に船を造る道具の丸のみ磨製石斧が発見されていて、雷下遺跡(市川市国分)から国内最古となる約7500年前の船が出土して、さらに、1万年以上前にすでに種子島と南部九州で交流が有ったことが解っていて、火山島・船・クジラとすべて揃った地域だ。世界最古と言われる船はエジプトのパピルス製筏で6千年前と言われ海流を横切ることは不可能だ。
『日本書紀』
「洲壞浮漂譬猶游魚之浮水上也・・・矛指下而探之是獲滄溟 其矛鋒滴瀝之潮凝成一嶋名之曰磤馭慮嶋」

そして、この地域の7千年前のアカホヤ以降の土器が朝鮮も含めた日本海西部から出土していて、日本海西部で遭難したり水葬すれば遺体が対馬(対岐黄泉国)に流れ着くと思われる。国産み神話の大八島からも縄文土器が発掘されていることから、アカホヤが「八」国を混乱させて、隠岐の島の島後にはアカホヤ以前の出雲と共通する土器が出土していることから、アカホヤ以前の水蛭子の「八」国をアカホヤによって逃げてきた壱岐・対馬・隠岐の島の島前の大日孁貴が奪ったとゆうことだ。
大日孁貴の王朝は黒曜石・イモガイ・漆・コールタール・稲などを東北・沖縄・河姆渡と交流のあった蛭子の王朝の「八」国と交易し、交易した地域から米作の痕跡が出土していて、例えば、6千年前の遺跡の彦崎貝塚(岡山県灘崎町)プラントオパールが、5千年前の遺跡の大矢遺跡(熊本県本渡市)籾の圧痕が見つかっている。
そして、水田が造られるようになった弥生時代になると、青銅製の武器で大八島の対岸の国々を支配したのだろう。そのため、スサノオが八岐のオロチを退治したとき自分の持っていた石剣がオロチの持っていた青銅製の剣のため折れてしまったと書かれている。
『日本書紀』
「頭尾各有八岐・・・時素戔鳴尊乃拔所帶十握劔寸斬其蛇至尾劔刄少缺・・・此所謂草薙劔也」

日本書紀は大戸之道・沙土煮と権力者が変わり、その後の泥土煮(根国?)・豐斟渟(豊国)・また國狹槌(狭霧国)が取り戻して国常立(天氏)と王朝が継続されたと書いていることが解る。「八」国(蛭子・東鯷国)→神国(狭霧国・日本)→扶桑国(豊国・御中主)→秦王国(物部氏)→倭(蘇我氏)→日本国(天氏・俀国)と王朝の変遷があった。天照大神は大戸之道の時代の人物で天氏も鹿児島や奄美群島出身でアカホヤで隠岐の沖之島に逃げてきた人物の子孫だと言えて、人々が縄文人と呼ぶのは蛭子王朝の人々で弥生人と呼ぶのは南九州や奄美群島・種子島・屋久島に住んでいた人々だとゆうことが解る。
『日本書紀』
「號國常立尊・・・次國狹槌尊 次豐斟渟尊・・・次有神 泥土煮尊 沙土煮尊 亦曰泥土根尊 沙土根尊 次有神 大戸之道尊」

2017年8月7日月曜日

最終兵器のミサ 国産み

 前回は日本の関東以西を富士の神木花開「耶姫」を祀ると思える国を「ヤ」と呼んでいたことを書いたけれど、「ヤ」と言えば伊弉諾の直前に吾屋橿城とゆう神が書かれている。神様の中でも最下位で、古事記の最下位の阿夜上訶志古泥よりも下位に置かれているけれど、神話で最後に書かれている神は実は一番古い神様とゆうことができる。後から支配した神様が遠慮して後ろの方に付け足すなどとゆう権力者を聞いたことがない。
日本の神話は伊弉とゆう神様が淤能碁呂島と蛭子とゆう神の子を産んだ神話が最初の神話で、吾屋橿が蛭子から淡島を奪ったことで「ヤ」国の国盗り物語が始まった。神話も支配者が変わるたびに書き換わって、もともと淡島の次に産んだ一番重要な国はその名の通り「吾の屋国」で伊弉に国産みさせたのは吾屋橿だと書いていて、すでに最初の国淡島は産んであり磤馭慮嶋とゆう名前だった。
そして、淡島は現在のどの島かと言えば、隠岐の島前3島を「オシコロ」の分国と書いていて島後が書いていないとゆうことは、島後が「オシコロ」島で「オノコロ」島と「コロ」が共通だ。本来島後は「コロ」島と呼ばれていたことが想像でき、淡島(あわしま)も大島の古い言い方のようで、神様の順として惶根の領域を大苫邊が奪っていて、大国と名前が変わったようだ。
『古事記』
「引上時 自其矛末垂落塩之累積 成島 是淤能碁呂島」
「興而生子 水蛭子 此子者入葦船而流去 次生淡島 是亦不入子之例」
「次 生隠伎之三子島 亦名天之忍許呂別」
『日本書紀』
「其矛鋒滴瀝之潮 凝成一嶋 名之曰磤馭慮嶋」
「由是始起大八洲國之號焉 即對馬嶋 壹岐嶋 及處々小嶋 皆是潮沫凝成者矣 亦曰水沫凝而成也」

大国が吾屋国を支配した物語が「稻羽之素菟」の説話で「八」上姫の争奪戦で同じ国の「八」十神を押しのけて「素」戔嗚と同じ「素」菟すなわち、「素」とゆう地域の神の助けで大国の穴牟遲が「八」の地域を得た話だ。素兎は淤岐島から渡ってきたと言っていて、島前の沖の島から島後に渡ってきたようだ。「素」とゆう地域は沖の島のことと思われ、大穴牟遲は沖の島の勢力を使って島後を奪って大国を打ち立てたとゆうことだ。
『古事記』
所以避者 其八十神各有欲婚稻羽之八上比賣之心 共行稻羽時 於大穴牟遲神 負帒 爲從者率往 於是到氣多之前時 裸菟伏也 ・・・菟答言、僕在淤岐島、雖欲度此地、無度因・・・此稲羽之素菟者也 於今者謂菟神也 故其菟白大穴牟遲神 此八十神者必不得八上比賣 雖負帒汝命獲之

そして、この隠岐の島島後の大国が新しい神話で大日孁貴を初代の王とする6合すなわち6国を合わせた、おそらく、壱岐出身の水蛭子の地域2島と隠岐の島4島の国を建国したと思われる。大日孁貴が隠岐を月読おそらく対岐黄泉が壱岐・対馬すなわち黄泉の国、そして、隠岐の沖の島出身の素戔嗚が日本海を任された神話を創ったようだ。
『日本書紀』
共生日神、號大日孁貴。大日孁貴、此云於保比屢咩能武智、孁音力丁反。一書云天照大神、一書云天照大日孁尊。此子、光華明彩、照徹於六合之內。

水蛭子を葦船に乗せて流したのは、日本書紀の様に磐樟船での子捨てではなく、すぐばらけてしまう葦船で水葬していることを表していて、壱岐で水葬したり難破すると対馬に死体が揚がることが多いと思われる。死者の国と呼ばれることは十分に考えられ、この黄泉の国の名を付けた人物は対馬海流の上流で船を操っている人々が名を付けたことが解る。
『古事記』
「興而生子 水蛭子 此子者入葦船而流去」
『日本書紀』
「次生蛭兒 雖已三歳脚猶不立 故載之於天磐 樟船而順風放棄」

2017年8月4日金曜日

最終兵器のミサ 神武天皇以前の国

 神話で最初に出てくる魅力のある人物が素戔嗚だけれど、素戔嗚が出雲に宮を造ろうとしたときすでに「耳」や「主」の官位を持つ人物がいて、しかも、十拳釼より硬い草那芸之大刀を得ている。すなわち、石剣で戦って銅剣か鉄剣を得た時代の話で、素戔嗚より前に、国譲りより前に出雲とゆう国が有って、主や耳の官位とゆう制度を持っていた王朝が有ったとゆうことだ。
『古事記 神代』
「速須佐之男命、抜其所御佩之十拳釼、切散其蛇者、肥河変血而流。故、切其中尾時、御刀之刃毀
負名号稲田宮主須賀之八耳神」

「ミサ 日本の国盗り物語」で書いたように日本には東鯷国とゆう国が既にあって20余国の領域を持っていたけれど、素戔嗚の子の天津日子根・天菩比や神武天皇の子の神八井耳の得る国が東鯷国の領有だったとゆうことだ。これら以外のところに国はありそうもなく、古事記で天菩比を「狭霧所成神」と書いてあって、『先代旧事本紀』の主神の狭霧国の狭霧は無関係とは思えず、順序は狭霧国が既にあったけれど、そこを素戔嗚があとで支配したとゆうことで、狭霧国が東鯷国を奪ったとゆうことができる。
『漢書』 卷二十八下 地理志第八下 呉地条
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」
『先代旧事本紀』
「高天原化生一神號日天譲日天狭霧國禅日(?)國狭霧尊」
『古事記』 神代
「乞度所纏右御美豆良之珠而、佐賀美迩迦美而、於吹棄気吹之狭霧所成神御名、天之菩卑能命」
「乞度所纏御縵之珠而、佐賀美迩迦美而、於吹棄気吹之狭霧所成神御名、天津日子根命」
「天菩比命之子建比良鳥命、此、出雲国造・无耶志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直・遠江国造等之祖也」
「天津日子根命者、凡川内国造・額田部湯坐連・茨木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閉国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造等之祖也」
「神八井耳命者、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹波臣・島田臣等之祖也」

そして、『先代旧事本紀』で神武天皇が建国の時はまだ神武天皇の制度が整っていないのに大夫・率・臣・連・国造などがあり、制度が整っていた。これが東鯷国の制度と考えられるけれど、大夫は中国の周の制度で、『論衡』で武王と会っている倭人は東鯷国の人物だと十分考えられる。さらに、3貴神が生まれる前に東鯷国があったとゆうことは、東鯷国の前身の大八島の建国で島の名前に「別」が付いていたのは伊余国や周芳国や筑紫国・狭国(淡路島の対岸瑞穂の畿内)と交易するための拠点だった可能性があり今から3千年以上前の周時代以前の話だとゆうことになる。素戔嗚が出雲に天降る時すでに東鯷国は銅剣と思われる草那芸之大刀を持っていて、敵は「八俣」の遠呂知で日本書紀では「八岐」と書いて「ヤ」が木花開「耶姫」を祀る東鯷国を表す地域で東北・北海道を除く日本を「ヤ」と言っていたとゆうことになる。
『先代旧事本紀』
「于時皇子大夫率臣連伴造國造而賀正朝拝矣凡厥建都即位践祚賀正如是之儀並始此時也宇摩志麻治命」
『論衡 恢國』
「武王伐紂 庸・蜀之夷 佐戰牧野 成王之時 越常獻雉 倭人貢暢」
『古事記』
「淡道之穂之狭別島・・・土左国謂建依別・・・天之忍許呂別・・・故、筑紫国謂白日別、豊国謂豊日別、肥国謂建日向日豊久士比泥別・・・熊曽国謂建日別・・・天御虚空豊秋津根別・・・建日方別・・・大多麻上流別」
「答白言、我之女者、自本在八稚女、是、高志之八俣遠呂知」
『日本書紀』
「往時吾兒有八箇少女 毎年爲八岐大蛇所呑」

2017年8月2日水曜日

最終兵器のミサ 扶桑国

 「ミサ 日本」で書いたように古事記を書いた王朝の国名は扶桑国だったけれど、扶桑国の歴史を考えてみると、履中天皇の時代に葛城氏が物部氏の住吉仲皇子を倒して王の璽を得て扶桑国を打ち立てた。けれど、扶桑国建国の歴史も日本書紀にちりばめられているようで、古事記では神武天皇は豊御毛沼で建国者は豊御毛沼だといっている。
『古事記』
神代 「若御毛沼命、亦名豊御毛沼命、亦名神倭伊波礼毘古命」

建国した豊御毛沼は大物主の娘を娶っていると言っていて、大物主を祀る神社と言えば琴平宮で瀬戸内に点在して、淡島を数に入れていないので国産みも淡路島が一番で、東侵の出発点も実のところ広島の安芸が出発点だ。とゆうことは、広島が元々の領地だとゆうことが解り、広島の安芸のお隣周防から突然西暦82年に出発した景行天皇の侵攻が有るけれど、周防からの侵攻で福岡県(豊前国)の京都郡に宮を造って九州南部の大分県や宮崎県・熊本県・福岡県の筑後地方を攻略して帰っている。けれど、この戦いが狗奴国との戦いで漢時代は倭の東に晋時代には倭の南に勢力範囲に狭まった。
『古事記』
神代 「次、生淡島。是亦不入子之例・・・如此言竟而、御合生子、淡道之穂之狭別島」
神武天皇 「美和之大物主神見感而、・・・即娶其美人生子、名謂富登多多良伊須須岐比売命」
『日本書紀』
景行天皇十二年九月戊辰  
「到周芳娑麼 時天皇南望之詔羣卿曰 於南方烟氣多起・・・到豐前國長峽縣 興行宮而居故號其處曰京也」
景行天皇十二年十月 「到碩田國 其地形廣大亦麗因名碩田也 到速見邑」
景行天皇十二年十一月  「到日向國 起行宮以居之 是謂高屋宮」
景行天皇十八年四月壬申 「自海路泊於葦北小嶋而進食」
景行天皇十八年五月壬辰朔 「從葦北發船到火國・・・是八代縣豐村」
景行天皇十八年六月癸亥 「自高來縣渡玉杵名邑」
景行天皇十八年六月丙子 「到阿蘇國也 其國郊原曠遠 不見人居」
景行天皇十八年七月丁酉 「到八女縣 則越藤山以南望粟岬」
景行天皇十八年八月 「故時人號其忘盞處曰浮羽 今謂的者訛也 昔筑紫俗號盞日浮羽」
『後漢書 東夷列傳』
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
『三国志 魏志倭人伝』
「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」

そして、福岡県京都郡には太祖神社があって最初の王様を祀った神社があるとゆうことは、この地域を支配したこの地域の神武天皇がいるとゆうことになる。西暦82年は孝元天皇の時代にあたっていて、扶桑国の先祖の武内宿禰は孝元天皇の出といっているとおりピタリとあてはまる。扶桑国の神武天皇は孝元天皇で名前は豊御毛沼で、武内宿禰は133年に日本国で大臣の地位を得た。
日本書紀
成務天皇三年正月己卯 「以武内宿禰爲大臣也」

そして葛城襲津彦(葛城氏)、平群木菟宿禰(平群氏)、許勢小柄宿禰(許勢氏)が分家して宮を造って葛城氏が日本国から政権を奪って扶桑国に国名を変更して、初めて史書を創った。