聖徳太子関連の古文書で忘れてならないのが『先代旧事本紀』で聖徳太子が命令して蘇我氏馬子に書かせたと書いてあるけれど、実際は霊亀元年の715年の和泉国分割の話(続日本紀では霊亀2年)が書かれている。古事記に日本書紀の内容を加えるのでなくて日本書紀の背景を踏まえて書き加えてあって、馬子が書いたと言いながら蘇我氏の悪行をしっかり書いている。古事記が元明天皇の創作するときなら蘇我氏の悪口を同じように書いてあるはずだ。大安万呂は古事記を天皇名を変更しないで亦の名をつかったけれど、『先代旧事本紀』は天皇名を古事記にあわせて修正し、自家を天皇だと書くことは許されるはずはないけれど、自家が皇位を譲ったと書き改めている。もしかしたら、古事記が諸家の史書を書く基準となったと考えるべきかもしれない。
『先代舊事本紀』
序 「厩戸豊聰耳聖徳太子尊命大臣蘇我馬子宿禰等奉勅定宜録先代舊事」
國造本紀 「和泉國造 元河内國靈亀元年割置芳野監則改爲國元珍努宮」
『続日本紀』
霊亀二年三月癸夘丁丑朔廿七 「割河内國和泉日根兩郡 令供珍努宮」
その内容は、古事記神話の最初に狭霧尊をおいていかにも狭霧尊が建国者と書いていて、古事記ではその他大勢の国神にまぎれている。日本書紀では豐斟渟に勝っていて、国常立に次ぐNo2で日本書紀を書いた王朝が打ち破った王朝のように思え、逆に古事記では物部氏の祖宇摩志阿治をNo4に書いている。
『先代舊事本紀』
神代本紀 「高天原化生一神號日天譲日天狭霧國禅月國狭霧尊自厥以降獨化之外倶生二代耦生五代所謂」
『日本書紀』 「號國常立尊 次國狹槌尊 次豐斟渟尊 凡三神矣」
『古事記』 神代
「天之御中主神次高御産巣日神次神産巣日神・・・如葦牙因萌騰之物而成神名宇摩志阿斯訶備比古遲神」
「持別而生神名、天之狹土神訓土云豆知、下效此、次國之狹土神、次天之狹霧神、次國之狹霧神」
さらに、章の分け方が神武から神功皇后までの「天皇本紀」、応神から武烈天皇までの「神皇本紀」、継体から推古天皇までの「帝皇本紀」と、いままで王朝の交代で書いてきたものとよく似た分け方で、
天皇本紀は神国・大倭国、 神皇本紀は扶桑国、
帝皇本紀は秦王国として書いている。それに加えて物部氏の系図が関連付けて書いていて、自分がその天皇の家系で神皇本紀は物部氏がこの時代は神として活躍したと言っているような気がする。
そして、物部氏は饒速日の子孫で最初から天皇の璽を持っていたと書いているけれど、饒速日の義父長髓彦から宇摩志麻治が奪って神武天皇に渡したと、本来は長髓彦が天皇だったと書いている。その後天皇の璽の話を書いていないとゆうことは、本来饒速日の家系が持っていたとした資料が残っていて宇摩志麻治の同族の天皇に渡して石上神宮近辺で勢力を持っていて、本来の天皇は自分達だと言っている。
『先代舊事本紀』
天照太神詔日豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂國者吾御子正哉吾勝勝速日天押穂耳尊可知之國言・・・栲幡千千姫命爲妃誕生天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊之時・・・生之兒以此可降矣詔而許之
饒速日尊襄天神御祖詔乗天磐舩而天降坐於河內國河上哮峯則遷坐大倭國鳥見白山
饒速日尊便娶長髓彥妹御炊屋姬爲妃誕生宇摩志麻治尊矣
宇摩志麻治命不従舅謀誅殺佷戻帥衆歸順之・・・舅計帥軍歸順遂欵官軍朕嘉其忠節特加裒竉・・・復宇摩志麻治命以天神御祖饒速日尊天璽瑞寶十種壹而奉獻於天孫大嘉
とゆうことは、日本書紀の神武東征の中には饒速日と大物主の近畿侵入と天氏の筑紫平野侵入と武内氏の豊前侵入が入り混じった内容の可能性が高く、『先代舊事本紀』の神武東征は紀元前88年の4道侵攻の大彦(天香山の末裔)と長髓彥(東鯷国)の末裔との戦いの時に同族の宇摩志麻治が活躍してずっと石上神宮を祀っているとゆうことだ。『先代舊事本紀』で最初に大連になったのは羸津世襲で妹が孝昭天皇の妃で孝安天皇を産み紀元前88年の天皇は孝昭天皇にあたる。さらに、大連の家系と言った垂仁天皇の時大新河を大連を任命するとゆうことは、垂仁天皇が大連の上の地位の天皇という名前を制定したと考えるべきだろう。
『先代舊事本紀』
四世孫羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖 天忍男命子此命池心朝御世為大連供奉次建額赤
妹世襲足姫命・・・腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇立爲皇后誕生・・・次日本足彦國杵人天皇是也
弟大新河命此命 纏向珠城宮御宇天皇御世 ・・・次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮其大連之號始起
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