2017年8月23日水曜日

最終兵器のミサ 蘇我氏

 日本書紀の皇極天皇2年に興味をそそる文があって、入鹿の祖母が物部守屋の妹だから、母が権勢をふるっていたと書いている。『先代旧事本紀』では蝦夷を入鹿と書き間違えているかもしれないけれど「物部鎌媛大刀自」で物部贄古の娘だ。物部贄古は物部守屋大連の弟で姉の「御井夫人」が崇峻天皇妃で何故か弟の物部石上贄古連の夫人も「御井夫人」だ。そして、子供たちが推古天皇に仕えたと書いていて、その贄古の子の物部鎌媛大刀自」が蘇我馬子の妃だ。すなわち、物部贄古が崇峻天皇とおもわれるが、記紀には一言も書いてないけれども馬子と守屋の姻戚関係は書いてあり、用明天皇587年に物部守屋を滅ぼして入鹿の母親が栄華にしたるには年代的に早すぎて、間が抜けた話になってしまう。ところが、用明天皇が推古天皇にずれると様相が全く変わって、物部守屋の滅亡は推古天皇末年の628年で崇峻天皇も長らく天皇の同等の皇太子でその妃御井夫人も鎌媛大刀自も栄華を極める時間がたっぷりあったと思われる。物部贄古が崇峻天皇ならその兄物部守屋が用明天皇に、物部宿禰御狩が敏達天皇に、物部尾輿が欽明天皇、そして布都姫鎌媛が推古天皇かもしれない。
『日本書紀』 
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年七月
「蘇我大臣之妻 是物部守屋大連之妹也 大臣妄用妻計而殺大連矣」
皇極天皇二年十月壬子 
「入鹿擬大臣位復呼其弟曰物部大臣 大臣之祖母物部弓削大連之妹 故因母財取威於世」
『先代旧事本紀』
「十四世孫,物部大市御狩連公尾輿大連之子・・・弟贄古大連女宮 古郎爲妻生二兒 弟物部守屋大連公子日弓削大連・・・妹物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人・・・弟物部石上贄古連公 此連公異母妹御井夫人爲妻生四兒小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮
・・・
孫物部鎌束連公 贄古大連之子 弟物部長兄若子連公 弟物部大吉若子連公 妹物部鎌媛大刀自連公
此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政奉齋神宮 蘇我嶋大臣為妻生豊浦大臣名白入鹿連公」

 物部贄古の子が馬子の妃なのだから『上宮聖徳法王帝説』の626年または627年の馬子の死亡は蘇我稲目と考えられて、蘇我馬子が628年に物部氏を滅ぼして629年に蘇我王朝の推古紀が始まった。推古36年は664年になって664年に天皇と同等の皇太子入鹿がクーデターで暗殺され、蝦夷天皇も殺され、皇太子入鹿が死んだため史書作成が中途で終わってしまった。これが『上宮聖徳法王帝説』・『先代旧事本紀』の歴史観なのだろうか。
『上宮聖徳法王帝説』
曾我大臣 推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣・・・
又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之
『先代旧事本紀』
而修撰未竟 太子薨矣 撰録之事輟而不續

 そして、蘇我蝦夷・入鹿は天皇だから国政を執れたし、蝦夷が授号できて甘梼岡に御門があって、孝徳天皇より後に帯刀して入鹿が宮殿に登場しても何の問題もない。不満な人物だけが天皇と認めなかっただけで、それが天氏や中臣氏で、そして同族であっても不満が有った蘇我山田石川麻呂大臣の一門で、乙巳の変を引き起こした。すなわち、世代で考えれば、蝦夷と同じ年代が田村皇子や豐財の世代で、入鹿は天智天皇と同じ世代になる。
『日本書紀』
皇極天皇元年正月辛未 「大臣兒入鹿 更名鞍作 自執國政」
皇極天皇二年十月壬子 「蘇我大臣蝦夷 縁病不朝 私授紫冠於子入鹿 擬大臣位 復呼其弟曰物部大臣」
皇極天皇三年十一月 「蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣雙起家於甘梼岡 稱大臣家曰宮門 入鹿家曰谷宮門」

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