2017年8月28日月曜日

最終兵器のミサ 『先代旧事本紀』と『上宮聖徳法王帝説』

 『上宮聖徳法王帝説』の在位年数を元明天皇の系図として考えて、小治田天皇の末年を700年とすると始まりが664年で小治田での中宮天皇政権の始まりでおさまりが良く、倉橋天皇の始まりは661年で白鳳年号の始まりと同じで、池邊天皇は658年、他田天皇は644年、志歸嶋天皇は603年が元年になる。
『上宮聖徳法王帝説』
志歸嶋天皇治天下卌一年 辛卯年四月崩 陵檜前坂合岡也
他田天皇治天下十四年 乙巳年八月崩 陵在川内志奈我原也
池邊天皇治天下三年 丁未年四月崩 秋七月奉葬 或云川内志奈我中尾稜 
倉橋天皇治天下四年 壬子年十一月崩 實爲嶋大臣所滅也 陵倉橋岡在也
小治田天皇治天下卅六年【戊子年三月崩 陵大野岡也 或云川内志奈我山田寸

そして、太子夫人を欽明天皇の夫人と混同してしまっているけれど、『先代旧事本紀』の作者は倭国の歴史と物部氏の秦王国の歴史を混同してしまっているようで、官位も日本書紀と全く違うし、遣唐使もまだ建国されていない607年に派遣したことになっているけれど、元明天皇の系図の欽明天皇15年617年は唐の傀儡政権の恭帝侑が皇帝で実質は唐の建国の時の話で遣唐使で間違いはない。
『先代旧事本紀』 推古天皇
十五年秋七月戊申朔庚戌大禮小野臣妹遣於大唐以鞍作福利爲通事此遣唐之始也
廾年春二月朔庚午政葬皇大夫人堅塩媛於檜隈大陵是日?()於輕街
・・・廾七年冬・・・別而名之謂八義於矣所謂八義者蓋謂孝悌忠仁礼義智信欤
『上宮聖徳法王帝説』
聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子 名刀自古郎女 生児山代大兄王・・・又聖王娶尾治王女子 位奈部橘王 生
『日本書紀』 
推古天皇十一年十二月壬申
「始行冠位 大徳 小徳 大仁 小仁 大禮 小禮 大信 小信 大義 小義 大智 小智 并十二階」
推古天皇十五年七月庚戌 「大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利爲通事」

唐にとってはとてもうれしい訪問だったのだろうけれど、遣唐使を派遣した秦大国は滅亡して蘇我氏と天氏の秦王国の跡目争いと倭国の皇太子イコール天皇とゆう制度のため高表仁とうまく折り合いがつかないで物別れになってしまったのだろう。
『旧唐書』
「貞観五年 遣使献方物 太宗矜其通遠 勅所司無令歳貢 又遣新州刺史高表仁 持節往撫之 表仁 無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還」

とゆうことは、対唐の小野妹子などは2つの時計が重なったもので、日本書紀の推古紀も物部氏の推古天皇の歴史が混じっていることが解って、唐は倭国と秦王国を値踏みして高句麗・新羅・百済・倭との駆け引きを活発にしていたことが解る。

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