「ミサ 日本」で書いたように古事記を書いた王朝の国名は扶桑国だったけれど、扶桑国の歴史を考えてみると、履中天皇の時代に葛城氏が物部氏の住吉仲皇子を倒して王の璽を得て扶桑国を打ち立てた。けれど、扶桑国建国の歴史も日本書紀にちりばめられているようで、古事記では神武天皇は豊御毛沼で建国者は豊御毛沼だといっている。
『古事記』
神代 「若御毛沼命、亦名豊御毛沼命、亦名神倭伊波礼毘古命」
建国した豊御毛沼は大物主の娘を娶っていると言っていて、大物主を祀る神社と言えば琴平宮で瀬戸内に点在して、淡島を数に入れていないので国産みも淡路島が一番で、東侵の出発点も実のところ広島の安芸が出発点だ。とゆうことは、広島が元々の領地だとゆうことが解り、広島の安芸のお隣周防から突然西暦82年に出発した景行天皇の侵攻が有るけれど、周防からの侵攻で福岡県(豊前国)の京都郡に宮を造って九州南部の大分県や宮崎県・熊本県・福岡県の筑後地方を攻略して帰っている。けれど、この戦いが狗奴国との戦いで漢時代は倭の東に晋時代には倭の南に勢力範囲に狭まった。
『古事記』
神代 「次、生淡島。是亦不入子之例・・・如此言竟而、御合生子、淡道之穂之狭別島」
神武天皇 「美和之大物主神見感而、・・・即娶其美人生子、名謂富登多多良伊須須岐比売命」
『日本書紀』
景行天皇十二年九月戊辰
「到周芳娑麼 時天皇南望之詔羣卿曰 於南方烟氣多起・・・到豐前國長峽縣 興行宮而居故號其處曰京也」
景行天皇十二年十月 「到碩田國 其地形廣大亦麗因名碩田也 到速見邑」
景行天皇十二年十一月 「到日向國 起行宮以居之 是謂高屋宮」
景行天皇十八年四月壬申 「自海路泊於葦北小嶋而進食」
景行天皇十八年五月壬辰朔 「從葦北發船到火國・・・是八代縣豐村」
景行天皇十八年六月癸亥 「自高來縣渡玉杵名邑」
景行天皇十八年六月丙子 「到阿蘇國也 其國郊原曠遠 不見人居」
景行天皇十八年七月丁酉 「到八女縣 則越藤山以南望粟岬」
景行天皇十八年八月 「故時人號其忘盞處曰浮羽 今謂的者訛也 昔筑紫俗號盞日浮羽」
『後漢書 東夷列傳』
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
『三国志 魏志倭人伝』
「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」
そして、福岡県京都郡には太祖神社があって最初の王様を祀った神社があるとゆうことは、この地域を支配したこの地域の神武天皇がいるとゆうことになる。西暦82年は孝元天皇の時代にあたっていて、扶桑国の先祖の武内宿禰は孝元天皇の出といっているとおりピタリとあてはまる。扶桑国の神武天皇は孝元天皇で名前は豊御毛沼で、武内宿禰は133年に日本国で大臣の地位を得た。
日本書紀
成務天皇三年正月己卯 「以武内宿禰爲大臣也」
そして葛城襲津彦(葛城氏)、平群木菟宿禰(平群氏)、許勢小柄宿禰(許勢氏)が分家して宮を造って葛城氏が日本国から政権を奪って扶桑国に国名を変更して、初めて史書を創った。
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