2017年7月31日月曜日

最終兵器のミサ 『傳記』・『天皇記及國記』・『日本世記』

  『四方志』と『日本舊記』で考えたように、 『四方志』で葛城圓大臣が天氏の資料や物部天皇の名前を大連と書き直して天皇名は自分として、即位していない建内宿祢を大臣と書いた。『古事記』で許勢男人まで天皇としたけれど、男人の子やその皇子が物部大連麁鹿火の軍に滅亡させられて、麁鹿火か金村が『日本舊記』を創って、おそらくその内容は古事記と同じように天皇葛城・平群・許勢氏を大臣と書いた。
さらに、継体天皇元年で天皇の璽が物部麁鹿火に遷り『日本舊記』を創ったけれど推古天皇、2代ずれて用明用明天皇の時物部守屋が穴穗部皇子から皇位を奪って天皇になって『傳記』を創って麁鹿火を大連と書き換えた。629年蘇我氏が物部氏を滅亡させて『天皇記及國記』で守屋も大連として蘇我氏を天皇と書いたため、推古天皇28年の『天皇記及國記』は593年でないもっと後の年を元年とした蘇我氏の年号と考えられる。
継体天皇元年二月甲午 「大伴金村大連、乃跪上天子鏡劔璽符再拜」
宣化天皇元年七月 「物部麁鹿火大連薨」
宣化天皇四年十一月丙寅 「皇后崩年傳記無載 孺子者盖未成人而葬歟」
用明天皇元年五月 
 「穴穗部皇子陰謀王天下之事 而口詐在於殺逆君 遂與物部守屋大連率兵圍繞磐余池邊」
推古天皇即位前紀 「乃從之 因以奉天皇璽印」
舒明天皇元年正月丙午 「天皇之璽印獻於田村皇子」
推古天皇二八年是歳 「嶋大臣共議之録天皇記及國記 臣連伴造國造百八十部并公民等本記」

そして、孝徳天皇が664年に蘇我氏を滅亡させて『日本世記』を創って、蘇我氏を大臣と書いて全てを天氏の天皇として日本書紀の原本が完成した。元明天皇が天皇の璽を得て即位して、『古事記』の系図を自分の系図に書き換えて、さらに『日本書紀』を創って系図を自分の系図に書き換えるとともに、残った天氏の姓の部分に白雉・大化・朱鳥の年号を入れこんで系図を動かした。
孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年 「天豐財重日足姫天皇授璽綬禪位」
皇極天皇四年六月己酉 「蘇我臣蝦夷等臨誅 悉燒天皇記 國記」
斉明天皇六年七月乙卯 「高麗沙門道顯日本世記曰 七月云云」
斉明天皇七年四月 「釋道顯日本世記曰 百濟福信獻書祈其君糺解於東朝」
天智天皇八年十月辛酉 「日本世記曰 内大臣春秋五十薨于私第」
持統四年正月戊寅朔 「畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劔鏡於皇后 皇后即天皇位」
持統五年八月辛亥 「上進其祖等墓記」

そして、ここで日本書紀の解釈の仕方を提起したけれど、元明天皇は蘇我氏の王朝を推古天皇に見立てていたことが解って、たとえば、璽を得た629年を推古元年とすると推古天皇36年が664年で蘇我氏の滅亡の年になって、これと同じことが葛城・平群・許勢の各氏にも当てはまっていて朝鮮の王の死亡記事など干支で1・2巡の間違いに見られるのも3氏が武内宿禰から分家して宮を造った年を元年とした年号が書かれていると考えるべきで間違いとするべきではない。
目立つのが応神天皇元年を他の王の元年とし、その当てはめられた本当の時間帯は履中天皇になり、葛城氏が政権を奪った時期に当てはまって、時計のない紀伝体の史書を編年体の標準時計に当てはめることを考えた時十分起こると思う。

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