2017年7月28日金曜日

最終兵器のミサ 『日本舊記』

  『四方志』に続いて、日本舊記』を考えてみると、日本舊記』は雄略天皇の時代のことが書かれていて、『古事記』の事かとも考えられるけれど、『古事記』には一度も日本とゆう言葉が出てきていないことから、日本を名乗る元明天皇が「古事記」から日本を削除することは考えられず、『古事記』の王朝(許勢大臣)を滅ぼした王朝が書いたと思われて、その王朝は自分の国を以前から日本と呼んだとゆうことがわかる。しかし、滅ぼした王朝は日本と一言も書いていないということは、古事記を書いた王朝の前の王朝が国名を日本と復活して呼んだことが解る。
『日本書紀』
雄略天皇二一年三月 「汶洲王蓋鹵王母弟也 日本舊記云 以久麻那利賜末多王 蓋是誤也」

そして、古事記では登場しなかった大連が、日本書紀で大臣が支配した以前から継続して書いてあるとゆうことは、日本舊記』を書いた王朝はおそらく物部氏で大連が最初に書かれた物部十千根大連より後を天皇と書いていて自王朝の始まりとし、袁本杼が王の璽を得て日本舊記』を書いた。
『日本書紀』
継体天皇元年二月甲午 「大伴金村大連乃跪上天子鏡劔璽符再拜・・・寡人敢不乖 乃受璽符」

この時一緒に戦った中臣氏は物部荒甲之大連と古事記に追加していて、この時は物部荒甲が天皇になったことが解り、日本書紀では大伴金村大連と書いているように物部荒甲から政権を奪ったことが解り、その後で物部大連尾輿・物部弓削守屋大連と政権は移っていく。けれど、『隋書』で国名が日本のはずが「秦王国」と呼ばれているので、守屋大連が日本と呼んでいなかったとゆうことは、日本舊記』を書いたのは大伴金村以前の可能性が高い。
『古事記』
袁本杼 「故 遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而 殺石井也」
『隋書』
「又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」

そして、以前に書いたように日本とゆう国名は神武天皇の建国時で紀元前28年より前に日本と呼んでいて、物部氏が大連になるまえから日本と呼んでいたことになって、大連の王朝の初代天皇の神武天皇は物部氏と同系の天香語山の家系で尾張氏だが、大伴氏(祖は日臣・道臣)の可能性もある。物部氏の先祖の宇摩志麻治が神武天皇に璽を渡していて宇摩志麻治から政権を奪いそれが大彦の埴安彦の戦いで、尾張氏は狹穗彦から完全に政権を奪った。一方、『先代旧事本紀』でも垂仁天皇の時から政権を奪われた物部氏は兄大新河とともに十千根が大連になって物部の姓をもらったと書いて尾張氏の配下となったと書いている
『日本書紀』
神武天皇三一年四月乙酉朔 「故因目之曰虚空見日本國矣」
崇神天皇十年九月壬子 「後彦國射埴安彦 中胸而殺焉」
垂仁天皇二年是歳 「于斯岐阿利叱智于岐 傳聞日本國有聖皇 以歸化之」
垂仁天皇五年十月己卯朔 「令撃狹穗彦 時狹穗彦與師距之 忽積稻作城 其堅不可破 此謂稻城也」
垂仁天皇二六年八月庚辰 「天皇勅物部十千根大連曰 屡遣使者於出雲國」
『先代旧事本紀』
天孫本紀
 七世孫  纏向珠城宮御宇天皇御世賜物部連公姓元為五太夫一次為大連奉齋神宮勑物部十市根大連」
天皇本紀 「宇摩志麻治命奉齋殿內於天璽瑞寶奉為帝后崇鎮御魂祈禱壽所謂御魂祭自此而始矣」

さらに、懿徳天皇の時に『先代旧事本紀』には出雲醜大臣と出雲の国に大臣とゆう人物を書いて、大臣も同族としている。けれど、物部姓をもらう前で兄弟や親子は兄や親が子や弟を後から支配した可能性があってどの程度血縁関係が有るかわからないけれど懿徳天皇時代に大臣の家系が始まったとゆうことだ。
『先代旧事本紀』
天孫本紀
 三世孫  「出雲色命此命軽地曲峡宮御宇天皇御世元爲申食国政大夫以爲大臣奉齋大神其大臣之號始起」

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