2017年7月5日水曜日

最終兵器のミサ 卑弥呼

  『魏志倭人伝』では卑弥呼は238年から247年の間に中国と外交していて、日本書紀でも神功紀に対応した年号239・240・243年の記事に書いていて神功皇后が卑弥呼と読めるように書いている。前回の宮の始まりだと景行天皇と成務天皇の在位期間209年から255年にあたって、成務天皇は古事記には子供がいるけれど日本書紀には子供がいなくて景行天皇がもう一人の天皇と書いた。
『日本書紀』
神功皇后摂政三九年 
「魏志云 明帝景初三年六月 倭女王遣大夫難斗米等 詣郡求詣天子朝獻 太守鄧夏遣使將送詣京都也」
神功皇后摂政四十年
「魏志云 正始元年 遣建忠校尉梯携等奉詔書印綬 詣倭國也」
神功皇后摂政四三年
「魏志云 正始四年倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻」
『魏志倭人伝』
「景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都
・・・其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授・・・
其八年・・・攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之・・・」

丁度、『魏志倭人伝』の女王卑弥呼(成務天皇)年齢24歳とこの時代では若いとは言えないし、弟(景行天皇)が補佐して「ミサ 太子4」で書いたように3年間景行天皇が宮を高穴穗宮に変えた。日本書紀には書いていないけれど『古事記』に書いてある成務天皇の宮と同じ宮で成務天皇の後を継いだ(更立男王)けれどまとまらず、やっぱり「ミサ 太子4」で書いたように13歳で即位した神功皇后(「宗女壹與年十三」)としっかり対応している。神功皇后の宮は筑紫橿日宮から始まっていて、『魏志倭人伝』の邪馬台国は以前『ミサ 「古田武彦」も信じていなかった』で書いたように福岡市東区の香椎宮近辺とピタリと当てはまっている。福岡市東区のお隣の糟屋郡久山町山田に斎宮跡が残っていて、同じく久山町猪野に天照皇大神宮があって漢からもらった金印の「漢委奴國王」印の委奴と無関係とはとても思えない。
『古事記』 成務天皇
若帯日子天皇、坐近淡海之志賀高穴穂宮、治天下也。
『日本書紀』
景行天皇五八年二月辛亥 「幸近江國 居志賀三歳 是謂高穴穗宮」
成務天皇即位前紀 「立爲太子 年廿四」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年 
「足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮・・・更造齋宮於小山田邑」
『魏志倭人伝』
「・・・名曰卑彌呼事鬼道能惑衆 年巳長大無夫婿有男弟佐治國・・・
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定・・・」

博多湾岸は古くから汽水域だったことが知られていて特に汽水域の沖浜を埋め立てたと言われていて、この近辺が近淡海で北に志賀島があって、あまりにもすべてがそろいすぎている。卑弥呼の宮殿は福岡県庁の近くと考えるべきだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿