その後、反正天皇が河内丹比の柴籬宮で5年間、允恭天皇はいつどこで宮を造ったか解らないけれど河内茅渟に途中に移動と木梨輕皇子に皇位継承して合計42年間、安康天皇は穴穗宮で3年間、雄略天皇は泊瀬朝倉宮で23年間、清寧天皇は甕栗宮で5年間即位した。けれど、顕宗天皇と仁賢天皇は4宮・3宮有ったように書いて、允恭天皇以降は允恭天皇や武烈天皇のように宮が変わっていなくても天皇を変え、整合性のある時間軸の変化とは思えず、日本書紀の書き方が変わった。
『日本書紀』
反正天皇即位前紀 去來穗別天皇二年 「立爲立爲皇太子」
反正天皇元年十月 「都於河内丹比 是謂柴籬宮」
反正天皇五年正月丙午 「天皇崩干正寢」
允恭天皇八年二月 「天皇則更興造宮室於河内茅渟」
允恭天皇二二年三月庚子 「立木梨輕皇子爲太子」
允恭天皇四二年正月戊子 「天皇崩 時年若干」
安康天皇即位前紀 「穴穗皇子 即天皇位 尊皇后曰皇太后 則遷都于石上 是謂穴穗宮」
安康天皇三年八月壬辰 「天皇爲眉輪王見弑」
雄略天皇即位前紀 「天皇命有司設壇於泊瀬朝倉即天皇位 遂定宮焉」
雄略天皇二二年正月己酉朔 「以白髮皇子爲皇太子」
雄略天皇二三年八月丙子 「崩于大殿」
清寧天皇元年正月壬子 「設壇場於磐余甕栗陟天皇位 遂定宮焉」
清寧天皇五年十一月戊寅 「葬于河内坂門原陵」
顕宗天皇即位前紀夏四月、「立億計王爲皇太子 立天皇爲皇子」
顕宗天皇元年正月己巳朔
「近飛鳥八釣宮 即天皇位 百官陪位者皆忻忻焉 或本云 弘計天皇之宮有二所焉 一宮於少郊 二宮於池野 又或本云 宮於甕栗」
顕宗天皇三年四月庚申 「天皇崩干八釣宮」
仁賢天皇元年正月乙酉 「皇太子於石上廣高宮即天皇位 或本云 億計天皇之宮有二所焉 一宮於川村 二宮於縮見高野」
日本書紀の書き方が変わっても日本の時計は日本書紀を書いた人の時計でないため引き続いて内容を無視して続いて、顕宗天皇は少郊・池野・(甕栗?)と宮を替えながら3年間在位、仁賢天皇は同じように川村・縮見高野と宮を変えて11年間在位、武烈天皇は宮が不明だけど列城宮に埋葬されて8年間在位した。
『日本書紀』
仁賢天皇七年正月己酉 「立小泊瀬稚鷦鷯尊爲皇太子」
仁賢天皇十一年十月癸丑 「葬埴生坂本陵」
武烈天皇八年十二月己亥 「天皇崩于列城宮」
そして、継体天皇は28年間在位したと書いているけれど、『百濟本記』に継体25年に天皇が死んだと書いてあるから25年にしたと書いていて、これから、継体天皇の25年目が実際は28年目でそれが西暦531年だと書いた。
『日本書紀』
継体天皇二五年冬十二月庚子
「葬于藍野陵。或本云 天皇廿八年歳次甲寅崩 而此云 廿五年歳次辛亥崩者 取百濟本記爲文 其文云・・・又聞 日本天皇及太子皇子倶崩薨 由此而 辛亥之歳當廿五年矣 後勘校者知之也」
とゆうことは、継体天皇は504年に、武烈天皇は496年に、仁賢天皇は485年に、顕宗天皇は482年に、清寧天皇は477年に、雄略天皇は454年に、安康天皇は451年に、允恭天皇は409年に、反正天皇は404年に、履中天皇は398年に、仁徳天皇は311年に、応神天皇は270年に、仲哀天皇と神功皇后は259年に、景行天皇と成務天皇は209年から、垂仁天皇は173から、崇神天皇は126から、開花天皇は99年から、孝元天皇は78年から、孝霊天皇は43年から、孝安天皇は紀元前33年から、孝昭天皇は紀元前95年から、懿徳天皇は紀元前116年から、安寧天皇は紀元前126年から、綏靖天皇は紀元前150年から、神武天皇は紀元前181年に建国して即位したことになる。私はとうとう真実に近い年表を知ることができ、神武天皇は紀元前181年に建国してそれが現在まで続いていることが解った。
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