2017年6月30日金曜日

最終兵器のミサ 太子4

 成務天皇は何故か立太子を2回書いていて、景行天皇五一年と成務天皇即位前紀に景行天皇卌六年と5年前24歳で太子になって39歳で即位して98歳で死んだのを107歳と書いている。景行天皇五一年に即位して成務天皇六〇年107歳とすると13歳違うことになる。これは、13歳の人物が成務天皇の宮で即位したと考えられ、すると景行天皇の3年間の後に成務天皇として即位したことになる。さらに、仲哀天皇の死後2年間天皇が不在のはずが神功皇后は太子に会っているとゆうことは他に天皇がいることになり、天皇がいなかったら子の太子が天皇になればよいのだから当然だ。すると、成務天皇の宮で成務51年から13歳で即位したのは神功皇后とゆうことになり、垂仁天皇が36年間珠城宮で在位後は成務天皇が47年間さらに景行天皇が3年間合計50年間高穴穗宮で即位、さらに、神功皇后が橿日宮で11年間即位したことになり、その後、若櫻宮で応神天皇が3歳で即位した。しかし、おそらく神功皇后が会った仲哀天皇の太子だった長男が即位して、その後9年間神功皇后が摂政して応神天皇は12歳に皇太子となったと考えられる。この間も権力はないけれど仲哀天皇の長男の天皇が存在していると思われ、菟道稚郎子が応神16年に太子と言うことは応神天皇が太子の摂政をしたか、神功皇后が再度天皇に返り咲いた。応神39年に神功皇后若しくは仲哀天皇の長男が死に応神40年菟道稚郎子が長男で応神天皇と同じ宮の実質最高権力の天皇に即位したけれど応神天皇が死に菟道稚郎子も殺害された。応神天皇は若櫻宮に41年間即位したということだけど、応神天皇から即位の書き方が立太子イコール新しい宮ではなくなり、実際に宮が終わるままでの期間となったようだ。最高権力者皇太子から最高権力者天皇になったようで、日本書紀を書く王朝が変わったように感じる。
『日本書紀』
垂仁天皇三七年正月戊寅朔 「立大足彦尊爲皇太子」
垂仁天皇九九年七月戊午朔 「天皇崩於纒向宮 時年百四十歳」
景行天皇五一年八月壬子 「立稚足彦尊爲皇太子」
成務天皇即位前紀 「大足彦天皇卌六年 立爲太子 年廿四 六十年冬十一月 大足彦天皇崩」
成務天皇六〇年六月己卯 「天皇崩 時年一百七歳」
仲哀天皇八年正月己亥 「到儺縣 因以居橿日宮」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年二月 「造齋宮於小山田邑」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年三月戊子 「皇后欲撃熊鷲而自橿日宮遷于松峽宮」
神功皇后摂政元年二月 「到菟道而軍之 皇后南詣紀伊國 會太子於日高 以議及群臣」
神功皇后摂政三年正月戊子 「立譽田別皇子 爲皇太子 因以都於磐余 是謂若櫻宮」
応神天皇即位前紀 皇太后攝政之三年 「立爲皇太子 時年三」
応神天皇十六年二月 「王仁來之 則太子菟道稚郎子師之 習諸典籍於王仁 莫不通達」
応神天皇四十年正月甲子 「立菟道稚郎子爲嗣」

そして、仁徳天皇は難波の高津宮で即位したけれど、履中天皇は仁徳天皇31年目に15歳で立太子して稚櫻宮で71歳に即位して6年後70歳死亡と全く合わない。2代後の允恭天皇の即位前に仁徳天皇から璽を得ていて、仁徳天皇からの政権移動したことを意味する。仁徳天皇と履中天皇の皇位継承は意味不明で、仁徳天皇と履中天皇の時期に前王朝が崩壊して允恭天皇から新しい王朝が発足して、仁徳天皇と履中天皇の内容からあとの王朝が記述しだしたことを意味している。すなわち、政権奪取の立役者の允恭天皇の時期は璽すなわち王朝の移動、日本書紀作者の変化すなわちこれも王朝の移動で、風土記のような四方志を書いてこれも元明天皇が古事記を書かせたように新しい王朝になって行う事績でその混乱が日本書紀に現れている。本来、允恭天皇の事績は履中天皇に埋め込むべきだったのだろう。
『日本書紀』
仁徳天皇元年正月己卯 「都難波 是謂高津宮 即宮垣室屋弗堊色也」
仁徳天皇三一年正月丁卯 「立大兄去來穂別尊爲皇太子」
仁徳天皇八七年十月己丑 「葬于百舌鳥野陵」
履中天皇即位前紀 「大鷦鷯天皇卅一年春正月 立爲皇太子 時年十五」
履中天皇元年二月壬午朔 「皇太子即位於磐余稚櫻宮」
履中天皇四年八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」
履中天皇六年三月丙申 「崩干稚櫻宮 時年七十」
允恭天皇即位前紀
「大鷦鷯天皇之子 雄朝津間稚子宿禰皇子 與大草香皇子 然雄朝津間稚子宿禰皇子 長之仁孝 即選吉日 跪上天皇之璽 雄朝津間稚子宿禰皇子」

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