2017年6月19日月曜日

最終兵器のミサ 日本

 前回、日本で最初に出現したいくつかの国をまとめた王朝東鯷国が出現してその国は銅鐸を象徴とする弥生時代の王朝と書いたけれど、その東鯷国を破った王は天菩比の子の建比良鳥で、破られた対象の人物は大国主・事代主・建御名方しかいない。大国主から奪った国は紀元前28年から200年まで神国日本と朝鮮で呼ばれ天皇名には、神倭伊波礼毘古や神沼河耳と神が付いて神国と呼べる。古事記では神話に鏡が多く書かれて、神武天皇以降は応神天皇の時に現れるだけでしかも朝鮮からの献上の品で日本書紀と比べ物にならないくらい扱いが低い。とゆうことは、古事記を書いた王朝は鏡とは縁のない王朝で、神話の神国が多くの鏡を墓に埋納していて、有名な三角縁神獣鏡は神国の支配の象徴と言える。
『日本書紀』
垂仁天皇二年是歳 「名曰于斯岐阿利叱智于岐 傳聞日本國有聖皇」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十月辛丑
「新羅王遥望以爲 非常之兵 將滅己國 讋焉失志 乃今醒之曰 吾聞 東有神國 謂日本 亦有聖王 謂天皇」

そして、神国が日本を支配していた時、西のはずれでは倭国と狗奴国が争っていた。けれど、安芸から出発した古事記の王朝が狗奴国を倭国の南まで勢力範囲を縮小して扶桑国を建国して神国を履中天皇の時代に滅ぼした。これが、巨大前方後円墳を特徴とする国だけれど、531年に扶桑国が滅亡して、朝鮮ではこのときこの地域を日本と呼んで、日本の皇族の崩薨と書いている。さらに、雄略天皇の記事を書いている日本舊記があって、日本舊記は物部氏が書いた史書のようで雄略天皇の国を日本と本の題に書いた。その地を支配した物部氏は自国を秦王国と名前を付け神国の復活だ。倭国が扶桑国の領地の火国や豊国に侵略したために、それまで共存していた倭国を扶桑国は許せなかったため滅ぼそうとしたけれど、物部麁鹿火に裏切られて扶桑国が滅ぼされた。
   『日本書紀』
雄略天皇二一年三月 「日本舊記云 以久麻那利賜末多王 盖是誤也」
継体天皇二五年冬十二月庚子 「日本天皇及太子皇子倶崩薨」
継体天皇二一年九月甲午 「於是磐井掩據火豐二國」
   『隋書』
「又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」

秦王国は628年蘇我氏に滅ぼされて、さらに664年その蘇我氏も滅び、天智天皇が日本世記を書いたように日本国と名前を変えたということは、蘇我氏は隋書の俀国の後に旧唐書が倭国と書いているように国名を倭国とよんだ。713年に完成した古事記には日本ではなく倭と呼んでいて、古事記は蘇我氏が完結させた日本の歴史で、元明天皇が古事記を受け取ったとき国名が倭国と書いて日本と書かれていなかった。ところが、叱って書き直させ無かったとゆうことは、古事記を受け取った後で、720年までに国名を正式に日本に変更した。
 このように、日本とゆう国名は日本書紀で読めもしない「やまと」と読ませ、古事記では日本を倭と書いてやはり読めもしない大和と読ませているとゆうことは、古事記は元々日本国と書かれていたのを蘇我氏が倭と書き換えた可能性が高い。すなわち、日本と言う国名は記紀に書いてある通り、遅くとも紀元前28年から西暦531年まで朝鮮で呼ばれ続け、秦王国、倭国を経て再度日本国とした。
   『日本書紀』
垂仁天皇二年是歳 「于斯岐阿利叱智于岐 傳聞日本國有聖皇」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十月辛丑 「吾聞 東有神國謂日本 亦有聖王 謂天皇 必其國之神兵也」

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