前にも書いたけれど、王様には必ず跡継ぎがいて、後継ぎがいないと王様が死んだとき後継者を選ぶのに戦いが起こって、その間に国が奪われてしまって一族郎党が食べていけなくなってしまう。だから、争いが起きないように王様になったらすぐに跡継ぎを決めておかないといけないのだけど、日本は珍しい国なのか、例えば神武天皇は筑紫のどういう名前の国かわからないけれどその国で兄がいるのに15歳の時皇太子になって、その国を放り出して何年か経って新しい土地で王様になった。けれど、そのまま31年間自分が長生きできることを信じ皇太子を決めないで32年目83歳の時に69歳の時の子供の16歳の綏靖天皇を皇太子にして76年目に死んだので翌年綏靖天皇が即位した。
『日本書紀』
神武天皇即位前紀 年十五立爲太子
神武天皇三二年正月甲寅 立皇子神渟名川耳尊爲皇太子
神武天皇七六年三月甲辰 天皇崩于橿原宮 時年一百廿七歳
どうせなら70年間くらい子供たちを観察してから皇太子を立てればと思えてくるけれど、127歳で死んでいるので、83歳で年を取ったから皇太子を決めたんだろうけれど、大昔なら即位する51歳でもいつ死んでも不思議でない年齢だのはず。
そして、次の綏靖天皇も48歳で神武天皇が死んだので、16歳の時太子になって、49歳で即位。即位して25年後の74歳で53歳の時の子で21歳の安寧天皇を皇太子にして、33年目に84歳で死亡ということはこの時代は即位と死亡は現在の「数え」で書いてあるようだけど、それでも、高齢出産が過ぎて、みんなが嘘というのが解る。
『日本書紀』
綏靖天皇即位前紀 至卌八歳 神日本磐余彦天皇崩
綏靖天皇三三年五月 癸酉崩 時年八十四
中には1年に2回年を取るという人がいるけれど、今度は太子の年齢が若すぎて何のために立太子を待ったかわからないし、半分でも4・50年の在位期間や7・80の死亡年齢は高年齢すぎて、現代じゃないかと思ってしまう。やはり、嘘と言われそうだけれど、後代の仲哀天皇の時は皇太子を決めていないのに神功皇后が応神天皇を皇太子にする前に皇太子と会っているし、応神天皇も立太子なしに菟道稚郎子を太子と言っていて、40年目に菟道稚郎子を皇太子にしている。
『日本書紀』
神功皇后摂政元年二月 皇后南詣紀伊國 會太子於日高
神功皇后摂政三年正月戊子 立譽田別皇子 爲皇太子 因以都於磐余
応神天皇十五年八月丁卯 阿直岐亦能讀經典 即太子菟道稚郎子師焉
応神天皇二八年九月 時太子菟道稚郎子讀其表 怒之責高麗之使
応神天皇四十年正月甲子 立菟道稚郎子爲嗣 即日任大山守命令掌山川林野 以大鷦鷯尊太子輔之
その後は仁賢天皇まで後年の立太子が続いているのだけど、立太子前に太子がいるということは立太子が無くてもやっぱり太子が有ることを示している。立太子なしでも普通に太子がいると言うのはその太子は長男が普通で、綏靖天皇には手研耳という義理の兄がいて「久歴朝機」と長い間即位していたと書いている。綏靖天皇の前に神武天皇を手伝い王だったと書いているように、立太子を書くまではやはり長男が太子どころか王だったとゆうことだ。
『日本書紀』 綏靖天皇即位前紀
手研耳が王だったということは、神武天皇も王なので王2人で1つの国を治めていたということで、天皇2人制ということだ。すると、51歳の建国は建国しないで兄がいるにもかかわらず皇太子と言うのは異様で実際は神武天皇36歳で建国したので手研耳15歳で皇太子という意味のように思える。
0 件のコメント:
コメントを投稿