新生天氏の日本とそれに対抗する中臣氏の元明天皇のなし崩しに日本の接続したけれど、はたくさんの問題が出てきて、日本書紀でクーデタをなかったこと、譲ってもらったことにして、血縁関係があるとかいた。けれど、このころは多くの人が文字を読み書きできるようになって、日本書紀ができて以降から、書くときは日本書紀を片手に書かなければならなかった。しかい、どうしても見落としてしまうのは当たり前で、日本書紀の中でも矛盾があるのだから。
『藤氏家伝』も矛盾だらけ聖徳太子に関する文も極端に多いけれど、やはり矛盾があって、例えば『上宮聖徳法王帝説』では乙巳の変の時天智天皇は19歳で21歳ではなく、志歸嶋天皇が治めたのは41年ではなく32年間だ。推古13年は辛丑ではなく乙丑で辛丑は641年で舒明天皇と現在言われているけれど、そうすると己酉649年の大臣は本来死亡していてこの右大臣の蘇我倉山田の死亡で文にまったく関係がなくなってしまい、内容から考えると推古天皇13年は641年で649年に違う蘇我大臣が害に遭遇したことになる。乙巳の変の時の太子は古事記と同じ背景のため蘇我氏の太子入鹿のように感じる。
『上宮聖徳法王帝説』
天皇御世乙巳年六月十一日 近江天皇【生廿一年】殺於林太郎■■ 以明日 其父豊浦大臣子孫等皆滅之
志歸嶋天皇治天下卌一年【辛卯年四月崩 陵檜前坂合岡也】
有本云 請願造寺 恭敬三寶 十三年辛丑 春三月十五日 始浄土寺云云
注云 辛丑年始平地 癸卯年立金堂之 戊申始僧住 己酉年三月廿五日大臣遇害
『七代記』には推古天皇13年に突然舒明天皇が出てくるけれど、まだ子供のはずなのに自分より偉い太子に対して土地を与えているし、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では癸寅年642年は日本書紀に合わないための矛盾で、さらに、推古天皇生誕100年が673年の癸酉なら推古天皇は577年4歳で敏達天皇の皇后になったことになり、まったく理にかなわない文だけれど、613年に中臣氏が蘇我氏に仕え始めて713年100年になった話なら十分理解できる。
『七代記』
秋七月 天皇請皇太子 令講勝鬘經 三日説了 又講法花經於岡本宮天皇大悦 以播磨國揖保郡佐勢田地五百代 施于皇太子 因以奉納於斑鳩寺
『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』
然大ゝ王天皇命等由良宮治天下時癸寅年 聰耳皇子召告
大ゝ王天皇令治天下時 天皇耳皇子白 今我等無朝生年之數算 建於百位竝道俗之法世建興建通
池邊列槻宮治天下橘豐日命皇子 馬屋門豐聰耳皇子 櫻井等由良治天下豐彌氣賀斯岐夜比賣命生年一百 歳次癸酉正月元日
日本書紀を横に置いて古事記と同じ背景の文を翻訳するとき、自分の王朝が中央政界に進出した時から天皇と置き換え皇太子と書くとゆう日本書紀をを書きつないだ方法と同じ方法で書いて、人の名前も古事記の名前で登場するので混乱は全くないけれど、内容を読むと矛盾だらけだ。
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