璽の移動を伴う政権奪取の戦いを調べると、最初は正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が持っていたと書いているけど、これはたいてい後の政権がもともと自分たちのものを取り返したことにしたかったのではと思う。だけれど、とにかく最初に璽を授かった饒速日の子(子孫)で物部氏の祖の宇摩志麻治が舅長髓彥から璽を奪って神武天皇に献上したことになっているけれど、おそらく、宇摩志麻治が王になったのであって、孝昭天皇の時代に瀛津世襲(おきつよそ)が大連すなわち天皇になった戦いが大彦の紀元前88年樟葉の戦いや狹穗彦・狹穗姫の戦いの紀元前25年の戦いと思われる。宇摩志麻治が璽を渡した神武天皇は瀛津世襲で、紀元前4年に物部十千根大連が書かれているのでこの時すでに次の日本書紀を最初にまとめた王朝が物部氏の配下として頭角を現した。
『先代旧事本紀』
「天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊」
「詔宇摩志麻治命日汝先考饒速日尊自天授來天璽瑞寶」
「磐余彦尊欲馭天下與帥東征・・・宇摩志麻治命以天神御祖饒速日尊天 璽瑞寶十種壹而奉獻於天孫大嘉特増寵異矣」
「四世孫羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖 天忍男命子此命池心朝御世為大連供奉次建額赤」
『日本書紀』
崇神天皇十年九月壬子
「射埴安彦 中胸而殺焉 其軍衆脅退則追破於河北 而斬首過半 屍骨多溢 故號其處曰羽振苑 亦其卒怖走」
垂仁天皇二六年八月庚辰
「天皇勅物部十千根大連曰 屡遣使者於出雲國 雖検校其國之神寶」
そして、201年には物部王朝の皇子忍熊王が住吉にいて、履中天皇即位前紀すなわち2代のズレで允恭天皇即位前に「住吉仲皇子」は住吉の名を冠している。古事記で最初に出てくる氏族安曇連を仲皇子は配下に持ち、さらに太子は石上にいて、石上は物部氏が管理する宝物庫がある場所で、古事記で反正天皇が曽婆訶理に大臣すなわち天皇の地位をもらえと言われている。とゆうことは仲皇子から天皇の位を奪えとゆうことを意味していて、さらに日本書紀では大臣すなわち天皇になる平群氏も活躍している。
『日本書紀』
神功皇后摂政元年二月 「忍熊王謂倉見別曰 是事大怪也 於此不可待敵 則引軍更返屯於住吉」
履中天皇即位前紀
「・・・時平群木菟宿禰・・・阿曇連濱子 ・・太子便居於石上振神宮・・・捉阿曇連濱子」
『古事記 履中天皇記』
「爾 其弟墨江中王 欲取天皇以火著大殿・・・爾 阿知直白 墨江中王 火著大殿・・・於是 曽婆訶理 窃伺己王入厠 以矛刺而殺也・・・是以 語曽婆訶理 今日留此間而 先給大臣位 明日上幸」
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