2017年6月28日水曜日

最終兵器のミサ 太子3

 安寧天皇が10年即位後、曲峽宮の懿徳天皇が21年間即位、池心宮の孝昭天皇が67年間、秋津嶋宮の孝安天皇が75年間、廬戸宮の孝霊天皇が35年間、境原宮の孝元天皇が21年間、率川宮の開化天皇が27年間、瑞籬宮の崇神天皇が36年間、珠城宮の垂仁天皇が36年間、日代宮の景行天皇が50年間即位したと続いてきたけれど、古事記では景行天皇が最後の3年間いた高穴穗宮と書いてあるけれど日本書紀で、成務天皇は宮を書かないで47年間即位したと書いているということは宮が変わらないで続いたことになり、原則が変わってしまった。
『日本書紀』
安寧天皇十一年正月壬戌朔 「立大日本彦耜友尊爲皇太子也」
懿徳天皇二年正月戊寅 「遷都於輕地 是謂曲峽宮」
懿徳天皇二二年二月戊午 「立觀松彦香殖稻尊爲皇太子 年十八」
孝昭天皇元年七月 「遷都於掖上 是謂池心宮」
孝昭天皇六八年正月庚子 「立日本足彦國押人尊皇太子 年廿」
孝安天皇二年十月 「遷都於室地 是謂秋津嶋宮」
孝安天皇七六年正月癸酉 「立大日本根子彦太瓊尊爲皇太子 年廿六」
孝霊天皇即位前紀 「都於黒田 是謂廬戸宮」
孝霊天皇三六年春正月己亥朔 「立彦國牽尊爲皇太子」
孝元天皇四年三月甲午 「遷都於輕地 是謂境原宮」
孝元天皇二二年正月壬午 「立稚日本根子彦太日日尊爲皇太子 年十六」
開化天皇元年十月戊申 「遷都于春日之地 是謂率川宮」
開化天皇二八年正月丁酉 「立御間城入彦尊爲皇太子 年十九」
崇神天皇三年九月 「遷都於磯城 是謂瑞籬宮」
崇神天皇四八年四月丙寅 「立活目尊爲皇太子」
垂仁天皇二年十月 「更都於纒向 是謂珠城宮也」
垂仁天皇三七年正月戊寅朔 「立大足彦尊爲皇太子」
景行天皇四年十一月庚辰朔 「則更都於纒向 是謂日代宮」
景行天皇五一年八月壬子 「立稚足彦尊爲皇太子」
景行天皇五八年二月辛亥 「幸近江國 居志賀三歳 是謂高穴穗宮」
成務天皇四八年三月庚辰朔 「立甥足仲彦尊爲皇太子」
『古事記』
「若帯日子天皇 坐近淡海之志賀高穴穂宮 治天下也」

成務天皇は日本書紀では子がいないため、立太子も即位してすぐに立太子をしなければならないのに48年も後で、しかも、成務天皇が設けた稲置の制度が前代の景行天皇に書かれていて、成務天皇と景行天皇が同時に天皇で、成務天皇が48年目に死んで、その後景行天皇が3年間継いだと考えると稲置の順も良く、ピタリと当てはまって、仲哀天皇がその後9年間継げば成務天皇も景行天皇も在位期間60年でつじつまが合う。
『日本書紀』
景行天皇二七年十月己酉 「故弟彦公便率石占横立 及尾張田子之稻置 乳近之稻置而來」
成務天皇五年九月 「令諸國 以國郡立造長 縣邑置稻置 並賜楯矛以爲表」

ということは、垂仁天皇37年に子供のいない成務天皇が高穴穗宮で即位したのと同時に立太子で景行天皇が日代宮で即位して47年目に成務天皇が死に景行天皇が高穴穗宮で即位しもう一人不明な日代宮の景行天皇の太子が即位して、高穴穗宮の景行天皇が50年目に死に笥飯宮の仲哀天皇が即位して9年で死んだたとゆうことになる。
『日本書紀』
仲哀天皇二年二月戊子 「幸角鹿 即興行宮而居之 是謂笥飯宮」
仲哀天皇九年二月丁未 「天皇忽有痛身 而明日崩 時年五十二」

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