ところで、安寧天皇は綏靖天皇二五年に21歳で皇太子になって、綏靖天皇三三年29歳の時前王が死んで30歳で即位して38年目に67歳になったはずが57歳で死んだと書いてある。そら間違いと言われそうだけど、立太子の時即位と考えればすなわち安寧天皇は綏靖天皇二四年数えの20歳すなわち19歳に皇太子になることが決まって綏靖天皇二五年に数え21歳(20歳)で正式に皇太子という天皇になって38年目の誕生日前に死んだと考えればよりスマートな考えになる。
数えを考えたり考えなかったりと不満はあるけれど、10歳の誤差と2歳の誤差だけど、実際は安寧天皇は11年目に亡くなっているかも知れないと考えられる。元々死亡年齢の57歳は計算上の年齢と思われ、要は、天皇の即位期間は立太子から次の立太子前年までで、もう一人の天皇が立太子以降即位しているけれど実権は皇太子が持っているとゆうことだ。
すなわち、綏靖天皇二五年に安寧天皇が皇太子とゆう実質最高権力者の皇太子という天皇が即位して、綏靖天皇は力がないお飾りの天皇として8年間即位して死んだとゆうことだ。どうして権力が遷ったかとゆうと、綏靖天皇に子供がいなかったので、綏靖天皇の弟安寧天皇が皇太子になった、すなわち、違う宮に住んでいる弟に実権が遷った。子供がいれば同じ宮で継続できたけれど2つの宮で国を統治するのだから、実権がある新しい宮に権力が集中するとゆうことだ。
だから、立太子は応神天皇以外すべて13歳以上で応神天皇には神功皇后という摂政が後ろに控えていて、宮を起こした時に太子という天皇になることができた。ということは、13歳以上の長男がいない天皇は弟やその他の人物を太子にしなければならないということだ。履中天皇と反正天皇は皇子がいるにもかかわらず5・6年の在位で允恭天皇の継承は異常だけどそれでも一番下の弟であるにも関わらず42年も即位している。
これは、履中天皇は長男が死亡して子供が小さいため即位2年に反正天皇を皇太子にして、反正天皇は皇太子がいたけれど允恭天皇に皇位を奪われたとゆうことだ。
『日本書紀』
反正天皇即位前紀 「去來穗別天皇二年 立爲立爲皇太子」
そうすると、神武天皇は31年に2代目神武天皇の手研耳が死亡して3代目手研耳が即位して長男が太子になるときに綏靖天皇が皇位を奪ったけれど、その時16歳の皇太子が一緒に即位して、神武天皇の宮はさらに45年間続いたけれど名ばかりの天皇だったことを意味している。綏靖天皇32歳、皇太子16歳で即位して24年目の2代目綏靖天皇が40歳で死んで、3代目綏靖天皇の子供が小さいため、弟の21歳の安寧天皇を皇太子にして3代目綏靖天皇は8年後に死に安寧天皇は33歳で死んだ。
ということは、橿原宮で神武天皇が即位して、32年後分家の高丘宮にいる綏靖天皇が政権を奪って即位して、その25年後に分家の浮孔宮にいる安寧天皇が即位したとゆうことだ。112年間と思われていた2代が5人55年間になって正常な皇位継承として説明がついたけれど、私は綏靖天皇の皇后の名前を「一書云」で合計3人書いていて3人の綏靖天皇を考えた。
『日本書紀』
神武天皇即位前紀 年十五立爲太子
神武天皇元年正月庚辰朔 「天皇即帝位於橿原宮」
神武天皇三二年正月甲寅 「立皇子神渟名川耳尊爲皇太子」
神武天皇七六年三月甲辰 「天皇崩于橿原宮 時年一百廿七歳」
綏靖天皇即位前紀 「至卌八歳 神日本磐余彦天皇崩」
綏靖天皇元年正月己卯 「神渟名川耳尊即天皇位 都葛城 是謂高丘宮」
綏靖天皇二年正月
「立五十鈴依媛爲皇后 一書云磯城縣主女川派媛 一書云春日縣主大日諸女糸織媛也」
綏靖天皇二五年正月戊子 「立皇子磯城津彦玉手看尊爲皇太子」
綏靖天皇三三年五月 「癸酉崩 時年八十四」
安寧天皇即位前紀 「天皇以神渟名川耳天皇廿五年 立爲皇太子 年廿一」
安寧天皇二年 「遷都於片鹽 是謂浮孔宮」
安寧天皇十一年正月壬戌朔 「立大日本彦耜友尊爲皇太子也」
安寧天皇三八年十二月乙卯 「天皇崩 時年五十七」
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