政権の移動の証拠がまだ有って、天照大神の子天菩比が国譲りのために最初に出雲に天下ったけれど、出雲に居付いたと言っているのに、子たちは出雲を含めた12ヶ国と6地域の支配者となったように天菩比は国譲りではなく12ヶ国の国を持つ王者から国を奪った。けれど、その地域は本州の関東から山口県までを含んでいて、そして、それに加えて神武天皇の奈良侵略の時に倭国と吉野国さらにその子には九州から関東まで支配して国と君の地域の合計22ヶ国となった。この22ヶ国は漢書に出てくる東鯷国の20余国とピタリと合致していてさらにこの地域からは銅鐸が発見された地域を多く含んでいてこれは弥生時代に入ってかなりたってからの出来事だ。
『漢書』 卷二十八下
地理志第八下 呉地条
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」
『古事記』 神代
「天菩比命之子建比良鳥命 此 出雲国造・无耶志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直・遠江国造等之祖也」
「天津日子根命者 凡川内国造・額田部湯坐連・茨木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閉国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造等之祖也」
神武記
「即賜名号槁根津日子 此者倭国造等之祖・・・参向耳 此者吉野国巣之祖・・・神八井耳命者 意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹波臣・島田臣等之祖也」
しかし、ここで重要なことは安芸国造や筑紫君が書かれていないということは、2国は国産みで建国した地域で奪った地域でないということで、くっきりと色分けされて信頼できる内容になっている。国譲りが日本国のはじまりで出雲から凡川内に遷った樟葉の戦いの結果だ。日本を得た古事記の神代を書いた王朝があって、その王朝から政権を奪取したのは、安芸から出発して奈良を奪取して古事記を書いた王朝が九州から関東までを支配したと書いた。
奈良は後から大三輪を祀っていて、天皇名に神倭すなわちミワの地域を含めていて東鯷国の時代は三輪神の支配だったはずなのに神武天皇が大物主の子孫を妃にしたことから、大物主が三輪神から奈良を奪ったことが解る。もちろん、ここで言う神武天皇は広島の安芸を豊国と呼んでいたのを大分県に豊国の名前を付けた豊御毛沼のことで、大分県で82年に建国した。その話が日本書紀の景行天皇紀に書いてあって、土地に名前を付けるときはそこを支配したことと同じことで、この土地には太祖神社があって初代の王を祀っている。応神天皇すなわち古事記にあわせて2代ずれて璽を得た履中天皇は吉備や三野を得ている。
『日本書紀』
景行天皇十二年九月戊辰 「到豐前國長峽縣 興行宮而居 故號其處曰京也」
応神天皇二二年三月戊子
「天皇幸難波居於大隅宮・・・因以割吉備國封其子等也 則分川 嶋縣封長子稻速別 是下道臣之始祖也 次以上道縣封中子仲彦 是上道臣 香屋臣之始祖也 次以三野縣封弟彦 是三野臣之始祖也」
古事記を書いた王朝は499年に沙門慧深が訪中したと梁書が書いていて、その国は扶桑国と呼んで527年までは続いていたとかいる。丁度継体天皇の時代までは扶桑国が日本にあったということは、丁度古事記を書いた王朝が滅亡する前とゆうことになる。滅亡後の531年から532年にかけて多くの屯倉を得たということは屯倉が有る地域の国を新しい王朝は得ていて、そこには難波も含まれその地には物部守屋が用明天皇の時代にいた。
『梁書
卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭』
「扶桑國者 齊永元元年 其國有沙門慧深來至荊州 説云 扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東」
『日本書紀』安閑天皇元年(甲寅531)四月癸丑朔
「伊甚屯倉・小墾田屯倉・櫻井屯倉・茅渟山屯倉・難波屯倉・三嶋竹村屯倉・安藝國過戸廬城部世倉・筑紫國膽狭山部・横渟・橘花・多氷・倉樔・筑紫穗波屯倉・鎌屯倉・豐國滕碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉取音讀・大拔屯倉・我鹿屯倉・火國春日部屯倉・播磨國越部屯倉・牛鹿屯倉・備後國後城屯倉・多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉・婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉・阿波國春日部屯倉・紀國經湍屯倉經湍・河邊屯倉・丹波國蘇斯岐屯倉皆取音・近江國葦浦屯倉・尾張國間敷屯倉・入鹿屯倉・上毛野國緑野屯倉・駿河國稚贄屯倉」
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