2017年6月12日月曜日

最終兵器のミサ 政権奪取3

 前回は扶桑国内の政権の移動をまとめたけれど、引き続いて璽の移動すなわち政権の移動の話だけれど、継体天皇の記事は前回書いたとおり仁賢天皇の話と次の王朝の話が集まり、そして日本書紀の2代のズレ宣化天皇の内容も書かれている可能性がある。
継体紀では筑紫君磐井すなわち倭王を攻めようと物部麁鹿火と天皇は筑紫より西を物部氏ということは物部麁鹿火はもともと火国・豊国の支配者に感じられ、東を天皇がもらうと言っている。けれど、天皇は倭国以外すべて天皇のもので日本書紀の継体紀を書いた天皇は大伴大連とおもわれて、許勢天皇は磐井に勝って葛子を殺さないで糟屋を手に入れたけれど、531年に滅ぼされた。日本書紀を書いた人は百濟本記にあわせて変更していて、本来は続けて534年まで書いていたということは、物部麁鹿火が葛子すなわち倭国と大伴氏と一緒に許勢氏を滅ぼして物部麁鹿火が璽を手に入れたけれども、536年5月には元気だった物部麁鹿火が7月に何の説明もなく死亡しており、物部麁鹿火から璽が大伴氏に移った。けれども日本書紀(日本旧事)を書いた大伴氏は継体天皇と同じ記事にまとめてしまって、この政権奪取が大倭国の復活で秦王国だ。
『日本書紀』
継体天皇二十年辛卯朔
「天皇親操斧鉞 授大連曰 長門以東朕制之 筑紫以西汝制之」
継体天皇二二年十二月
「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」
継体天皇二五年冬十二月庚子
「廿五年歳次辛亥崩者 取百濟本記爲文 其文云・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」
宣化天皇元年七月
「秋七月 物部麁鹿火大連薨」

同じように、 日本書紀を書いた蘇我氏は秦王国内の政権移動すなわち朝鮮政策の失敗で物部尾輿が大伴金村を追い落としたことを書いた。2人の天皇を大連として自らを天皇としたけれど、次の天智天皇の王朝は蘇我天皇を大臣と書き換えたようで、秦王国の首都はやはり大伴金村も住吉に住んでいて、日本の中心は摂津だ。
『日本書紀』 
欽明天皇即位前紀
「尊皇后曰皇太后 大伴金村大連 物部尾輿大連爲大連 及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣 並如故」
欽明天皇元年九月己卯
「於是大伴大連金村居住吉宅 稱疾不朝 天皇遣青海夫勾子 慰問慇懃 大連怖謝曰 臣所疾者非餘事也 今諸臣等謂臣滅任那・・・遂不爲罪」

そして、用明天皇の末年の628年に四天王寺を建てた場所に物部守屋がいて守屋を攻め滅ぼして都のあった四天王寺近辺を寺に半分分け与えて、蘇我氏が璽を得て舒明天皇の時代まで日本書紀を書き綴った。
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年六月辛亥
「誅宅部皇子 宅部皇子 桧隈天皇之子 上女王之父也 未詳 善穴穗部皇子 故誅」
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年七月
「倶率軍旅進討大連・・・大連之軍忽然自敗・・・於攝津國造四天王寺 分大連奴半與宅」

そして、664年のいわゆる乙巳の変で孝徳天皇に璽が移って、天智天皇が日本書紀の皇極天皇からの歴史を書いた。そして、712年に元明天皇に璽が移って中臣氏の初代天皇となって、720年に天武天皇と持統天皇の日本書紀を書いて系図を修正した。
蘇我氏が宮殿で帯刀して天皇より偉いと前に書いたように入鹿が国政を執ったり外交使節を自宅で対面したり褒章したり、父が大臣であるのに大臣を授けるということは父が天皇で自分が太子とゆう天皇で太子が国政を預かっていたからで、だから、自分の宮殿を御門と呼んでいた。
『日本書紀』
皇極天皇元年正月辛未 「以蘇我臣蝦夷爲大臣如故 大臣兒入鹿 自執國政 威勝於父」
皇極天皇元年四月乙未 「蘇我大臣於畝傍家喚百濟翹岐等」
皇極天皇元年十二月是歳 「蘇我臣專擅國政」
皇極天皇二年十月壬子 「私授紫冠於子入鹿。・・・復呼其弟曰物部大臣」
皇極天皇三年十一月 「蘇我大臣蝦夷 兒入鹿臣雙起家於甘梼岡 稱大臣家曰宮門 入鹿家曰谷宮門」

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