2022年12月30日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』欽明天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱天國排開廣庭尊者男大迹天皇嫡子也母日皇后手白香皇子清寧天皇皇女也天皇愛之常置左右天皇幼時夢有人云天皇寵愛秦大津父者及壯大必有天下寤驚遣使普覓得自山背國紀伊郡深草里姓字果如前夢於是忻喜遍身歎未曽夢乃告之曰汝有何事荅之無也但臣向伊勢商價來還山逢二狼相鬪汗血在乃下馬洗(?+)口手祈請曰汝是貴神而樂鹿行儻逢狩士見禽尤速乃抑止相鬪拭洗血毛遂造放之俱合全命矣 天皇曰必此報也乃令近侍優寵日新大致饒富及至踐祚拜大藏故郷武小廣國押盾天皇四年冬十月天皇崩天國排開廣庭皇子尊令群臣日余幼年淺識未閑政事山田皇后朋閑百揆請託而決山田皇后搶謝曰妾蒙恩寵山河詎同万機之難婦女安預今皇子者敬老慈少礼下賢者日中不食以待士如以幼而欤脫早擅嘉聲性是寬和務存矜宥請諸臣等早令臨登位光臨天下矣」、【諱は天国排開広庭は男大迹天皇の嫡子、母は皇后の手白香で、清寧天皇の皇女だ。天皇はいつもそばに置き可愛がり、まだ幼いとき、夢で「天皇が秦大津父という者を寵愛すれば、大人になったら必ず天下を手にする」と言い、目覚めて、驚いて使者を派遣し、広く探すと山背国紀伊郡の深草里で夢の通りその名の人を見つけ、夢ではないと喜んでため息をついて、「お前にも何かあったか。」と告げると、「無い、ただ、私が伊勢に商売で訪れ、帰る時、山で二匹の狼が闘って血が噴き出ていたのを見たので、馬を下りて、手を洗い口を漱いで、”あなたは貴神なのに、帝王のようであり、あるいは狩人のように獲物を見つけて取り押さえる。”と言って、嚙み合った血の付いた毛を拭い洗って救い放った。」と告げ、天皇は「その報いだろう」と言って、そば近くで寵愛し、とても金持ちになったので、即位してから故郷の大蔵()に任じた。武小廣國押盾天皇の四年冬十月、天皇は崩じた。天国排開広庭皇子は、群臣に「私は若く知識も浅く、政事に余裕がない。山田皇后は政務に余裕があるから、政務任せなさい」と命じた。山田皇后は「私は山河のように恩寵をこうむっている。かりにも、困難な政事を婦女に容易く任せてはなりません。今、皇子は老人を敬い、小児を慈しみ、下々の賢者に感謝し、青年が幼児を待つように昼まで食事もとらず、待っている。また早くから抜きん出て、声望をほしいままにし、心広く、許そうとする。諸臣は、早く天下を治めるよう、即位するのを願いなさい。」と辞退した。】と訳した。

秦大津父の説話は即位前なので『日本書紀』の欽明前紀にあるが、欽明元年「高麗百濟新羅任那並遣使獻並修貢職召集秦人漢人等諸蕃投化者」と記述され、これは522年の「筑紫君葛子恐坐父誅獻糟屋屯倉求贖死罪」の磐井敗北により、交流を邪魔されていた朝鮮が日本との交流を復活させ、漢人は『梁書』の「大漢國」が支配する倭人、秦人は『漢書』から『三國志』で記述される「辰人」、『後漢書』からの「秦人」のことと思われ、倭奴國は俀国に国名を変え、大漢國が糟屋を奪って倭国を引き継いで倭国糟屋宮元年となり、それが、武内宿祢が婿入りした紀伊の秦大津父の説話に繋がったと思われる。

秦氏は『宋書』の古歌の中に「日出東南隅照我秦氏樓秦氏有好女自名為羅敷羅敷喜蠶桑采桑城南隅・・・頭上倭墮髻」と東南隅は畿内か関東と思われ、そこで養蚕を行い、宋の古歌なのだから晋以前の歌、『三国志』も『晋書』も韓地が秦人の影響下の国と記述され、同じ観点の秦と考えられる。

宋と同時期の雄略紀、この頃、倭が百濟と同盟して中国の将軍に任じられて、新羅に勢力拡大をし、そこから逃れてきた秦民が畿内に逃れてきたようで、分散して住まわせたが、古歌で歌われた秦氏の秦造酒が箴言して秦造にゆだねられ、これは、秦氏が元々辰王の後裔で、天君・君主国の神を祖に祀っていた人々だからと考えられる。

山田皇后は『古事記』には安閑の皇后に記述されず、尾輿が即位する時、最高権力者が山田皇后だったと言う事で、甕栗宮の目大連は十一世、継體天皇目大連は十三世、目大連の子の倭古連は十四世、その倭古の娘の阿佐姫・加波流姫が十三世の尾輿の妃、磯城嶋宮の目大連は十五世、同じく十五世の雄君の妃が十三世と思われる目大連の娘の豊媛、すなわち、継體天皇目大連は十二から十五世にまたがる襲名した目連がいて、十三世以降の其々目連の子に襲名した弟の倭古連が存在したと思われる。

甕栗宮目大連の家系と木蓮子の家系が互いに婚姻関係になったということで、磯城嶋宮の目大連は尾輿の娘と2代目継體天皇目大連の子の目連がいて、その2代目の子の目連が尾輿の娘婿になった3代目磯城嶋宮の目大連の可能性が高く、磐余に住んだ人物で、磐余甕栗宮目、磐余玉穂宮目と、そして、宮3代の磐余池邊雙槻宮目、これが目大連の娘婿の橘豐日と思われ、天皇は「穴穗部皇子陰謀王天下之事」と穴穗部皇子、子の守屋大臣が皇太子と思われる。

2022年12月28日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』宣化天皇類書

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱武小廣國押盾尊者男大亦天皇第二子也勾大兄廣國押武金日天皇同母弟也二年十二月勾大兄廣國押武金日天皇崩無嗣群臣奏上鏡劔於武小廣國押盾尊元年丁巳使召天皇位爲元年天皇爲人器宇清通神襟朗明不以才智(?++)人諸王君子(?)服也二年春正月都遷檜前謂廬入宮三月壬寅朔有司請立皇后詔曰前正妃億計天皇女仲皇女立爲皇后誕生一男三女長日石姬皇女次小石姬皇女次稚綾姬皇女次上殖葉皇子亦名椀子前鹿妃大河内稚子媛生火焔皇子三年春二月巳(?)酉朔甲午天皇崩于廬入野宮年七十三冬十一月庚戌朔丙寅葬于大倭身狹桃花鳥坂上陵以皇后橘皇女及其孺子合葬于是陵也孺子者盖未成人而薨欤天皇(?)生二男三女兄石姬皇女次小石姬皇女次稚綾姫皇女次上殖葉皇子亦名椀子丹丘椎日君祖 次火焔皇子侓那君祖」、【諱は武小広国押盾、男大亦天皇の第二子で、勾大兄廣國押武金日の同母弟だ。二年十二月、勾大兄廣國押武金日天皇が崩じ、跡継がなかった。群臣達が鏡・剣を武小広国押盾に奉じた。治世元年丁巳に即位し、天皇の元年とした。天皇は、胸の内はわだかまりのなく清らかで心がすっきりとして、才智で人に驕らず王者ぶらず、君子らしかった。二年春正月に、檜隈に遷都し、廬入宮といった。三月壬寅朔、役人たちは皇后を立てて欲しいと言うので「以前からの正妃の億計天皇の娘の仲皇女を皇后としたい」と詔勅した。皇后は一男三女を生み、長女を石姫皇女、次を小石姫皇女、次を稚綾姫皇女、次を上殖葉皇子といい、またの名を椀子といった。前からの庶妃の大河内稚子は、火焔皇子を生んだ。三年春二月巳酉朔甲午、天皇は廬入宮で崩じ年七十三。冬十一月庚戌朔丙寅、天皇を大倭国の身狭の桃花鳥坂上陵に葬った。皇后の橘仲皇女と、その孺子をこの陵に合葬した。孺子は育たないで亡くなったものか。(以下略)】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「()()廣國押楯命坐檜坰之廬入野宮治天下也天皇娶意祁天皇之御子橘之中比賣命生御子石比賣命(此十三字脱訓石如石下効此次小石比賣命)次倉之若江王又娶川内之若子比賣生御子火穂王次恵波王此天皇之御子等并五王(男二女二)故大()穂王者(志比陀君之祖)恵波王者(韋祁()君・多治比君之祖也)」とあり、訳は略す。

元年丁巳は537年で『日本書紀』は二年にあたり、 三月壬寅朔は2日で廬入野宮の記録ではなく、壬寅が晦日が朔の日は536年12月30日、これなら、536年は僧聴元年で、「天皇位爲元年」記事は目大連の僧聴改元記事となり、そこに、押甲の丁巳537年即位の記事を含め、その資料が九州・倭国の記事だったと考えられ、『日本書紀』宣化天皇四年記事も三年記事とし、継体天皇目大連の皇太子の荒山が4年で押甲が3年の在位期間だったと考えられる。

荒山は娘が初代稲目の妃になって三代目の稲目の渟中倉太珠敷や娘の子の橘豐日・泊瀬部・豊御食炊屋姫が生れ、倭国が政権を奪ったと見做した。

それで、『日本書紀』は元年記事を『舊事本紀』の元資料537年の押甲の記事を536年に当て嵌めたため、麁鹿火が「秋七月物部麁鹿火大連薨是年也太歳丙辰」と536年に麁鹿火の死亡を記述し、押甲の大連を記述せず、3朝並立が一時あったようだ。

『大村骨臓器銘文』に「卿諱大村檜前五百野宮御宇天皇之四世・・・除小納言授勤廣肆以大宝元年律令初定」と『日本書紀』は「上殖葉皇子・・・偉那公凡二姓之先」、『古事記』は恵波王、『舊事本紀』は火焔皇子と名前・母親が異なるが、この皇子が生れたのが536年以前で、大村は大宝元年701年が初授なので680年ころには大村が生れていて、140年で4世代は非論理的で、天皇の宮世代ならもっと多くの世代があるが、『舊事本紀』の押甲の世代は14世で、石上朝臣を賜姓された麻侶は17世、この物部氏の世代なら四世代で良く合致し、すなわち、、天皇の宮世代と物部氏・尾張氏の世代に違いが有ることが解る。


2022年12月26日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』安閑天皇類書

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱廣國押武金日尊者,男大跡天皇長子也母日目子媛即尾張連草香之女也天皇爲性壚宇凝峻不可得窺桓桓寬大有人君之量二十五年春二月辛丑朔丁未男大迹天皇立大兄為天皇矣則是日男大迹天皇崩元年歳次甲寅春正月都遷倭勾謂金橋宮三月癸未朔戊子有司即天皇位納采春日山田皇女立為皇后更名山赤見皇女億計天皇之皇女也別立三妃立許勢男人大臣女紗乎(?)媛佃乎(紗手)媛弟香香有媛物部木蓮子大連女宅媛矣二年冬十二月癸酉朔己丑天皇崩于勾金橋宮年七十是月葬天皇於河内古市高盧丘陵生年七十皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬于是陵之也天皇無胤」、【諱は広国押武金日。男大迹天皇の長子、母を目子媛といい、尾張連草香の娘だ。天皇は見えない所でも厳かに手を差し延べ、武勇が優れ、心が広く君主の器であった。先の二十五年の春二月辛丑朔丁未に、男大迹天皇は大兄を天皇とし、その日に男大迹天皇は崩じた。元年甲寅の春正月に、倭の勾に遷都し金橋宮という。三月癸未朔戊子、役人に命じて、即位し、春日山田皇女をむかえて皇后とした。皇后のまたの名は山田赤見皇女。億計天皇の皇女だ。別に三妃を立て、許勢男人大臣の娘の紗手媛、紗手媛の妹の香香有媛、物部木蓮子大連の娘の宅媛だ。二年の冬十二月癸酉朔己丑、天皇は勾金橋宮で崩じ、七十年だった。この月、天皇を河内の古市高盧丘陵に葬った。年令七十。皇后春日山田皇女と、天皇の妹の神前皇女も合葬した。天皇に子はいない。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「(御子)廣國押建金日命()坐勾之金箸宮治天下也此天皇無御子也(乙卯年三月十三日崩)御陵在河内之古市高屋村也」、【子廣國押建金日は勾金箸宮で、天下を治め、この天皇には、子が無かった。乙卯年の三月十三日に崩じ、陵は河内の古市の高屋村に在る。】と訳した。

この廣國押建金日は武廣國押から続く蘇我氏の役職名で『紀氏家牒』「蘇我石河宿祢家大倭国高市県蘇我里」と蘇我里の王の蘇我石河宿祢が武廣國押と広国王の満智宿祢、広国押建金日とやはり広国王で建国を征服して金日国を造った韓子宿祢を表していると思われる。

そのため、天文学的朔でなく、『日本書紀』に記述が無い継体天皇の死亡日の春二月辛丑朔は1月30日の九州の暦、即位日の三月癸未朔は534年で継体28年に崩じた王の即位、十二月癸酉朔己丑は天文学的に正しい日干支になっていて、継体天皇死亡日は蘇我氏の資料で、即位と死亡は、死亡日が『古事記』と異なり、『舊事本紀』と『古事記』は別の王の死亡日を記述している。

『古事記』527年「 丁未年四月九日崩也」は若雀の死亡、535年「乙卯年三月十三日崩」は武廣國押の死亡の可能性が高くい。

すなわち、丁未527年に白髪朝廷から倭彦・巨勢・麁鹿火・押甲の朝廷が続き、金橋宮朝廷を535年に滅ぼし、継体目連は皇太子が死亡したため、叔父荒山を皇太子にしたと思われれ、元号も僧聴と改元し、そして、陵は蘇我氏の皇子達の陵で、草香の娘の母が住む、首都と異なる河内にあり、首都は()倭國勾金橋と淡海の政権で別朝廷の説話となっている。

妃も『古事記』には記述されず、『舊事本紀』は『日本書紀』と同じく記述されて矛盾し、金橋宮天皇と見做した麁鹿火の子の記述は、妃に子が記述されないので評価は難しいが、皇后が伊勢の宮主の家系の和珥臣日觸で伊勢王の血筋で皇統となり、巨勢男人は娘を麁鹿火の妃にし、淡海王の後ろ盾になることで皇位を奪取、もう一人の巨勢男人の娘と木蓮子の娘の宅媛は誰の妃か解らないが、稲目が台頭してきたこと、さらに、『古事記』が記述しない、継体天皇目大連側の、筑紫を手中にした蘇我稲目の妃の可能性がある。

『日本書紀』・『舊事本紀』・『古事記』すべて推古天皇まで蘇我氏が記述しているので、安閑以降推古までの天皇名は全て蘇我氏の大王の名と考えられ、『舊事本紀』の天皇は大連、『日本書紀』は大臣を天皇と見做し、実際の天皇は、これまで通り、皇后・皇太后が住む宮その物が天皇で、その為、100年を超える、人間では在位不可能な期間在位でき、大連・大臣などの姓も宮・天皇が変われば、姓も名も変わり、目連は磐余に住む物部氏の家系が目連を名乗ったと考えられる。

『舊事本紀』では十四世麁鹿火・押甲は同世代の荒山が十二世なのに十四世に記述され、世代と年代が合致しないが、この現象は『日本書紀』でも同じと考えられ、其々の王をどの年代に当て嵌めるかを、特に古代の人々は住む場所、役職名で同名の複数の人物が存在し、初代と末代では年代がズレてしまうため、この現象が起こっていると思われる。

2022年12月23日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』継体天皇類書5

  『梁書』卷五十四 列傳第四十八諸夷傳東夷条倭は「倭者自云太伯之後俗皆文身去帶方萬二千餘里・・・文身國在倭國東北七千餘里・・・大漢國在文身國東五千餘里無兵戈不攻戰風俗並與文身國同而言語異・・・扶桑國者齊永元元年其國有沙門慧深來至荊州説云扶桑在大漢國東二萬餘里地在中國之東・・・名國王爲乙祁・・・嗣王立三年不視國事其俗舊無佛法宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改慧深又云扶桑東千餘里有女國・・・天監六年有晉安人渡海・・・」とあり、訳は略す。

『梁書』の里単位はインド「中天竺國」が「在大月支東南數千里地方三萬里」とあって、ブータン~カシミールの間は千五百㎞、すなわち、1里50㎞と『三国志』の里単位と同じなので、倭までは従来の里数で書かれて、全く矛盾がないが、「文身國在倭國東北七千餘里」は350㎞なら伯耆、「大漢國在文身國東五千餘里」は250㎞で近江、「扶桑在大漢國東二萬餘里」は千㎞で東太平洋になってしまう。

しかし、同時期に記述された『隋書』に「夷人不知里數但計以日」と倭の東の人々は里数を知らないと記述されるが、夷人の慧深が里数を述べていて、知らないのではなく、里単位が異なると述べていると考えられ、夷人は隋朝時は俀国より東で、「大業三年其王多利思北孤遣使朝貢・・・明年上遣文林郎裴淸使於俀国・・・後十日又遣大禮哥多毗」と大業四年俀国の謁見から十日後、大禮哥多毗と裴淸が相見して「我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義」と俀国や倭国ではない夷人が存在し、この人物が里単位を知らなかったのである。

倭国は唐と闘った国で、俀国は倭を滅ぼして日本と名乗った国、俀国は隋滅亡前に「此後遂絶」と中国と断交し、倭によって滅亡した、扶桑国を滅ぼした後の日本で、扶桑国は高句麗の制度對盧と中国人が認識した制度を使っていたように、北朝と友好関係があったと考えられ、南朝の梁は慧深の言った里数を北朝の里数と考え、梁の里数にするのに8倍したと考えられる。

すなわち、文身國・大漢國は倭国の領域で「文身國在倭國東北七千餘里」は国境間距離35㎞で北九州市・長門、「大漢國在文身國東五千餘里」は25㎞で周防、そして、「扶桑在大漢國東二萬餘里」は夷人なので八分の一の二千五百里で国境間距離125㎞で吉備・小国から扶桑国となり、女国の千里は6㎞で比良山地若しくは琵琶湖が国境だったことになる。

扶桑国への仏教伝来が大明二年458年となっていて、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は「天國案春岐廣庭天皇御世蘇我大臣稻目宿禰仕奉時治天下七年歳次戊午十二月度來」と538年、『日本書紀』は欽明天皇十三年552年「大臣跪受而忻悦安置小墾田家懃脩出世業爲因淨捨向原家爲寺」となっているが、敏達天皇六年「百濟國王付還使大別王等獻經論若干卷并律師禪師比丘尼咒禁師造佛工造寺工六人遂安置於難波大別王寺」となっていて、難波大別王は427年の死亡と証明し、この記事が大別王の記事なら、百濟には384年に仏教が入り、405年頃に王仁が伝えた可能性が有り、399年頃阿知使主も去來穗別に伝えた可能性が有る。

そして、永元元年499年に乙祁(億計)が即位し、天監六年507年頃に嗣王が即位し、3年間政治を観なかったと有るが、507年継体元年に「癸酉納者據即天位」とあり、継体三年「遣使于百濟」まで「葬小泊瀬稚鷦鷯天皇于傍丘磐杯丘陵」以外記事が無く、良く合致している。

『上宮聖徳法王帝説』に「志歸嶋天皇治天下卌一年」と在位期間が41年で、『日本書紀』「廿五年歳次辛亥崩者取百濟本記爲文」で巨勢王朝が滅びその後、天國排開廣庭が巨勢氏の残党を保護して、自分がその後継と主張したと考えられる。


2022年12月21日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』継体天皇類書4

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故品太天皇五世之孫表(袁)本(大)杼命自近淡海國令上坐而(合)令於手白髪命授奉天下也(品太王五世孫)袁本杼命坐伊波礼之玉穂宮治天下也 天皇娶三尾君等祖名若比賣生御子大郎子次出雲郎女(二柱)又娶尾張連等之祖凢連之妹自()子郎女生御子廣國押建金日命次小建小廣國押楯命(二柱)又娶意()祁天皇之御子手白髪命(是大后也)生御子天國押波流岐廣庭命(波流岐三字以音)一柱又娶息長()手王之女麻組郎女生御子佐佐宜郎女(一柱)又娶坂田大俣王之女黒比賣生御子神前郎女次(馬來)田郎女(次田郎女)次白坂活日子郎女???又娶茨田連小望之女関比賣生御子茨田郎女???次野郎女亦名長目比賣(())又娶三尾君加多夫之妹倭比賣生御子大郎女次丸高王次耳上王次赤比賣郎女(四柱)又娶阿倍()之波延比賣生御子若屋郎女次都夫良郎女次阿豆王(三柱)此天皇之御子等并十九王(男七女十二)此之中天國押波流岐廣庭命者治天下次廣國押建金日命治天下次建小廣國押建()命治天下次佐々宜王者拝伊勢神宮也此之御世竺紫君石井不從天皇之命而多无礼故遣物部荒甲之大連大伴之金村連二人而殺石井也天皇御年肆拾参歳(丁未年四月九日崩也)御陵者三嶋之藍御陵也」、【品太天皇の五世の孫の袁本杼を近淡海國より上り坐して、手白髮に娶わせて、天下を授けた。品太王の五世の孫、袁本杼命は伊波禮玉穗宮で天下を治めた。(妃・子は略)この治世に、竺紫君石井が、天皇の命に従わず、全く礼儀が無かった。それで、物部荒甲大連、大伴金村連の二人を派遣して、石井を殺させた。天皇の年、肆拾參歳の丁未の四月九日に崩じた。陵は三島の藍陵だ。】と訳した。

陵が三嶋の藍野と首都の磐余玉穂宮と異なり、『日本書紀』・『舊事本紀』は目連を正統な皇統としていなくて、陵は三島、すなわち、三国と、彦天皇の出身地の三国の坂中井近辺に陵を造ったと考えられ、この、葬られた天皇は淡海の王朝「女国」の天皇である。

また、天皇名は『日本書紀』・『舊事本紀』は亦の名で彦太と彦の前に何も付加されない最上位の王の天皇を表し、只の「大」と大国の神、継体目大連を御大君すなわち神大君と記述し、『古事記』は目連が天皇ではなく、袁大杼と、いかにも、『日本書紀』には記述されない春日の丸迩臣佐都紀の娘の袁杼比賣を窺わせ、磐余若櫻宮応神天皇の若沼毛二俣王の末裔を意味し、三国の王とは全く異なり、「軽里星河辺」の巨勢男人のほうが良く合致する。

すなわち、『古事記』は長谷列木宮天皇を後継したのは、淡海朝廷の王の三尾君加多夫の妹の倭比賣を妃にし、正統な後継者の倭彦を追い出した男人の『古事記』に記述しない娘紗手媛・香香有媛の婿の袁本杼が即位したと考えている。

蘇我氏が完成させた『古事記』には「竺紫君石井不從」記事があり、『日本書紀』「天皇親操斧鉞授大連曰長門以東朕制之筑紫以西汝制之」と磐井の乱で大連と俀国の分割を決め、磐井の領地は安芸広国より西が磐井の領土と解り、磐井に勝利した後、結果的に糟屋郡以東の豊国は馬子、巨勢氏は馬子の保護下に、磐余に都を持つ継体天皇は名前のとおり広国より東の大国・小国・河内の根国を、稚国・三国・淡海は荒甲が手にしたようだ。

息長()手王の娘の麻組郎女は野洲王の妃と思われ、「侍伊勢大神祠」と女王となっていて、「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛」、「和珥臣日觸女大糠娘生一女是爲山田大娘皇女」と宅媛からはじまる宮主の王国が『梁書』の「慧深又云扶桑東千餘里有女國」と扶桑国難波から東北50㎞程度と合致し、山田大娘を妃にした荒甲が淡海巨勢王朝を引き継ぎ、さらに、稲目も和珥臣日觸の娘の糠子娘女、そして、おそらく、「不見母妃姓與皇女名字」と皇后の妹に無い、すなわち、稲目の妃糠子娘女の妹の日影皇女を妃にして権威を受け継いだようだ。


2022年12月19日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』継体天皇類書3

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「三月庚申朔詔曰神祇不可乏王宇宙不可無君天生黎庶樹以元首使司助養令全性命大連憂朕無息披試疑以國家世世盡忠朕日唯欤冝備禮義奉迎手白香皇女甲子立皇后即白香皇女循教于内誕生一男謂天國排開廣尊即嫡子也而幼年於二兄治後有共天下矣兄廣國排武金日尊次武小廣押盾楯癸酉納八妃夫納八妃雖有先背後而此日納者授即天位占擇良日初拜後宮為父也皆放比矣元妃尾張連公草香女日國(?)子媛生二子矣兄勾大兄皇子謂廣國排武金日尊次檜隈高向皇子謂武小廣盾后尊次妃三尾角折君妹曰稚子媛生一男一女大市皇子與出雲皇女次坂田大跨王女廣媛生三女神前皇女次茨田皇女次馬來田皇女次息長真年(?)王女廣續娘子生一女荳角皇女伊勢大神齋祠次茨田連小望女曰開媛生三女茨田大娘皇女次白坂洽日姫皇女次小野傾(?)娘皇女次三尾君堅拭女日倭媛生二男二女其一大娘子皇女次椀子皇女(?)次耳皇子次赤姬皇女次和珥臣河内女曰夷媛生一男二女第一稚綾姬皇女次圓姬皇女次厚皇女子欤次根王女廣媛生二男兄菟皇子次中皇子二年冬十月辛亥朔癸丑葬稚鷦鷯天皇于傍丘磐抔陵五年冬十月都遷山背謂筒城宮八年春正月勾大兄皇子冝處春宮肋朕(?+)仁翼吾補闕之矣廾五年春二月天皇病苦崩于磐余不譲(?玉穗)宮年八十二冬十二月丙申朔庚子葬并莖(?)野陵天皇(?)生八男十二女兄勾大兄廣國排武金尊次檜隈高田武小廣楯后尊次大郎皇子次出雲皇女次神前皇女次茨田皇女次馬來田皇女次荳角皇女伊勢齋大神祠次茨田大郎娘皇女次白坂治皇姬皇女次小野稚郎皇女次大娘子皇女次椀子皇女三國公祖次耳皇子次赤姬皇女次稚綾姬皇女次圓媛皇女次厚皇子次菟皇子濟人公祖次(?)中皇子坂田公祖」、【三月庚申朔、「王無しに地祇を祀れず、君子無しに天下を治められない。天は庶民を生み、元首を立てて役所に民を助け養わさせ、その生を全うさせる。大連は私に子が無いことを憂い、私の世だけでなく国家に忠誠を尽くす。礼を尽くして手白香皇女を迎えよ」詔勅した。甲子に手白香皇女を教え通りに皇后とし、一人の男子が生れた。天国排開広庭で、嫡子だが幼かったので、二人の兄が治めた後に、天下を治めた。兄は広国排武金日、次が武小広国押盾である。癸酉、八人の妃を召し、妃に前後があるが、この日に召したのは、即位し良い日を占い選んで、はじめて父の為、後宮で礼拝したからで、他も皆これにならっている。(妃・子略)二年の冬十月辛亥朔癸丑に、稚鷦鷯天皇を傍丘磐坏丘陵に葬った。五年冬十月、都を山背に遷し、筒城宮という。八年の春一月、勾大兄皇子に「春宮にいて、朕の仁愛を助けて、私を助けて政事を補え。」と命じた。二十五年春2月、天皇は病苦のため磐余玉穗宮で崩じた。八十二歳だった。冬十二月丙申朔庚子、藍野陵に併葬した。天皇が生んだ子は八男十二女。()】と訳した。

皇后の手白香は天国排開広庭の母なのだから、天国排開広庭は蘇我稲目の役職名で、その一代前の役職名の武小廣國押盾・馬背宿祢か、その前の 廣國押武金日・ 韓子宿祢の妃の可能性が高く、蘇我氏は川辺臣の祖でもあり、軽里星河辺に住む巨勢川辺宿祢の娘を妃にすることで川辺臣を引き継いだ可能性が高い。

川辺宿祢、子の巨勢川上宿祢、その子の巨勢男人宿祢、巨勢男人を継体天皇に当て嵌めると、手白香は春日大郎女が母で祖父が雄略となって川辺宿祢の時代に当てはまり、川辺宿祢と蘇我里に住む蘇我石河宿祢が姻戚、孫の韓子宿祢・廣國押武金日の妃が手白香で、孫の稲目が欽明天皇の大臣、同じく欽明二十三年に「副將河邊臣瓊缶出居曾山而欲問新羅攻任那之状」と川辺臣が初出し、手白香の力で稲目大臣と河辺臣の賜姓及び仲国・豊国を支配する蘇我氏に対する巨勢氏の「豐足臣」と豊国王の姓の関係性が理解できる。

広国排武金日、武小広国押盾が天国排開広庭を差し置いて即位したというのは、「継體天皇御世為大連」の目連の妹の『古事記』に記述されない宅媛の子の「磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連」の目連の先に荒山と尾輿が即位した説話に麁鹿火・押甲兄弟が別王朝の天皇になった説話の合体で、尾輿の妃が目大連の子の弓削連の祖の倭古連の娘で、その尾輿の子が守屋と御狩で御狩の子が時代を遡って「磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連」の目連、すると、磐余の甕栗・玉穗宮で目連なのだから、その宮が磯城嶋宮時代も続いた可能性が高く、御狩の幸玉宮の次の雙槻宮まで襲名した目連が天皇だった可能性があり、『梁書』に複数国が記述され、畿内に扶桑国・女国があり、2朝並立もしくは乱立の可能性もあり、『隋書』に俀国と倭国が記述されているだけなので、倉梯宮から倭国に統一されたと考えられる。

2022年12月16日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』継体天皇類書2

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「丙寅遣臣連等持節以備法駕奉迎三國夾衛兵仗肅愗容儀警蹕前駈奄然而至於是男大迹天皇妟然自若踞坐胡床齊列陪臣既如帝坐持節使等由是敬憚傾心委令冀壹忠誠然天皇意裏尚疑久而不就適知河内馬飼首荒籠密奉遣使具述大臣大連等所以奉迎本意留二日三夜遂發乃喟然歎曰懿哉馬飼首汝若無遣使來告殆取嗤於天下世之幼論貴賤唯重其心盖謂荒籠乎及至踐祚厚加寵待也甲申天皇行至樟葉宮二月辛卯朔甲午大伴金村大連乃跪上天子鏡劔璽符再拜男大迹天皇謝曰子民治國重事也寡人不才不足稱領請迴賢者寡人不放大伴大連伏地固請男大迹 天皇西向讓者三南面讓者再者大伴大連等皆曰伏計之大王子民治國最冝稱臣等爲宗廟社稷計不敢忽幸(?+)承之庶聽納矣男大迹天皇曰大臣大連將相諸臣咸推寡人不敢承之乃受璽符也即天皇位尊皇妃立爲皇大夫人媛也庚子大伴大連奏請曰臣聞前王之宰世也非維城之固無以鎮共乾坤非掖庭之親無以継共趹萼是故白髮天皇無嗣遣臣祖父大伴大連室屋毎州安置三請則白髮部以留後世之名嗟矣可不愴欤復請納手白香皇女立爲皇后復遣神祇伯等敬祭神祇求天皇息允荅民望天皇曰可矣」、【丙寅に臣・連達を派遣して、任命の刀を持って輿を備え、三国へ迎えに行った。兵士達が刀をうやうやしく囲み、儀礼を疎かにしない隊列を整え、先ばらいとして駆けつけると、男大迹天皇は落ち着いて動ぜずに床几にかけていた。侍臣を整列させて、帝王のようで、迎えの刀をもった使いは、かしこまり、心を傾け、命を捧げて忠誠を尽くすことを誓った。しかし、天皇はここれに裏のあるとなお疑い、皇位に就かなかった。天皇は、河内馬飼首の荒籠を知っていた。荒籠は密かに使い送り、詳しく大臣・大連が迎えようとしている本意を伝えた。二日三晩留まって、ついに出発した。そして歎息して「よかった、馬飼首。もしお前が使いを送って知らせてくれなかったら、私は天下の笑いものになるところだった。世に“貴賎を論ずることなく、ただその心だけを重んずべし”というのは、思うに荒籠のようなものをいうのだろう」と言って、即位してから、厚く荒籠を寵愛した。甲申に天皇は樟葉宮についた。二月辛卯朔甲午、大伴金村大連はひざまずいて、天子の璽の鏡と剣を奉って拝礼した。男大迹天皇は「民をわが子として国を治めることは重大な仕事だ。私は才がなく、天子を称するには力不足である。どうかよく考えて、真の賢者を選んでほしい。自分では到底できないから」と辞退した。大伴大連は地に伏して固くお願いした。男大迹天皇は西に向かって三度譲り、南に向かってもう一度譲り、大伴大連らは皆「考えるに、大王は民を子として国を治めるのに、最も適任だ。私達は国家のために考えて、幸せにすることをおろそかにしません。どうか人々の願いを聞いてください」と言って土下座した。男大迹天皇は「大臣・大連・将相・諸臣が私を推すのなら、私も受けないわけにはいかない」と言って、璽を受けて即位し、また、皇妃を尊んで皇大夫人媛とした。庚子、大伴大連が「臣が以前から聞くところ、王が世を治めるのに、城を維持せずに天地の鎮められず、後宮を養わずに後継できない。このため、白髮天皇は、跡継がなかったので、私の祖父の大伴大連室屋を派遣して、国ごとに三つの白髪部を置き、名を後世に残そうとし、とてもいたましかった。手白香皇女を皇后とし、神祇伯を派遣して、地祇を祭り、天皇の跡継ぎを求めて、民の望みに答えてほしい」と願い、天皇は「わかった」と言った。】と訳した。

二月辛卯朔甲午」は『日本書紀』に辛卯朔が記述されず、『日本書紀』が「二月甲午」の資料を記述したことが解り、継体天皇に即位を求めたのは、物部氏の資料だったということだ。

すなわち、小長谷の後継者争い、小長谷の妃の春日娘子の不明な兄弟と、それに対して春日山田皇女の夫と思われる麁鹿火が皇位を争い、麁鹿火の娘の影媛を妃にできなかったので、小長谷の皇位継承者に成れず、それに対して、勾金橋天皇妃の許勢男人大臣女紗手媛、香香有媛は少なくとも一人は小長谷の妃と思われ、許勢男人が後継争いに勝利し、『日本書紀』は目連や麁鹿火の資料を用いて記述しているようだ。

倭彦と男大迹の皇位争奪は三尾君の娘の名が倭媛とあり、三尾君の祖石衝別は布多遲能伊理毘賣の兄で帯中津日子の母、足仲彦天皇五世孫の倭彦も三尾君の姻戚の可能性が高く、足仲彦と思われる彦狹嶋は北陸を含む東山道十五國の都督で、倭媛は巨勢男人の妃と思われ、男人が小長谷の後を継いだと考えられ、寵愛された河内馬飼首は彦狹嶋の影響下だった近江毛野臣に付き従っている。

手白香皇女の夫は蘇我稻目宿禰の可能性が高く、それは、巨勢氏は巨勢臣藥が豐足臣の子と記述されるように豊国を統治していたようで、豊国は『筑後國風土記』に「筑紫君石井・・・獨自遁于豐前國上膳縣終于南山峻嶺之曲」と磐井に勝って奪った地域で、蘇我氏と協力関係だったと思われるからである。

2022年12月14日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』継体天皇類書1

   『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「十三世孫物部尾輿連公荒山太連之子此連公磯城嶋金剌宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮弓削連祖倭古連女子阿佐姫次加波流姫各兄生四兒弟生三兒弟物部奈洗連公孫物部麻佐良連公木(?)大連之子此連公泊瀬(?)城宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮須羽直女子古爲妻生二(?)兒弟物部目連公此連公継體天皇御世為大連奉齋神宮弟物部長目連公輕馬連等祖弟物部金連公借馬連野間連等祖弟物部具(?)足尼連公依羅連等祖此連公磯城嶋宮御宇天皇御世為宿尼弟物部建彦連公高橋連立野連都刀連横廣連勇井連伊勢荒比田連小田連等祖」とあり、訳は略す。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は「諱男大迹天皇更名彦太尊者譽田天皇五世孫彦主人王之子也母曰振媛振媛活目天皇七世之孫也天皇父聞振媛顔容妹妙甚有媺色自近江國高嶋郡三尾之別業遣使聘于三國坂名井納以妃遂彦天皇天皇幼年父王薨振媛迺歎曰妾命遠離桑梓安得膝養天皇天皇壯大愛土禮賢意豁如也小泊瀨天皇八年冬十二月巳亥元無男女可絕継嗣大伴金村大連議曰方今絶無継嗣天下何處繫心自古迄今禍由斯起今足仲彦天皇五世孫倭彦王在丹波國桑田郡請試設兵仗夾衛乘輿就而奉迎之為人主大臣大連等一皆隨焉奉迎如計於是倭彦王遙望迎兵愕然失色仍遁山巓不知所詣元年歳次丁亥春正月辛酉朔甲子大伴金村大連更籌議曰男大迹王性慈仁孝順可承天緒冀慇懃勸進紹隆帝業矣物部鹿火大連許勢男人大臣等僉曰妙簡孫賢者唯男大迹王矣 」、【諱は男大迹天皇でまたの名を彦太尊は、譽田天皇の五世の孫で、彦主人王の子だ。母は振媛で振媛は活目天皇の七世の孫だ。天皇の父が、振媛は容貌が端正ではなはだ美人であることを聞いて、近江国高島郡の三尾の領地に、使いを派遣して三国の坂中井に迎え入れて妃として、彦天皇が生れた。天皇が幼いうちに、父王は薨じた。振媛は「私は、遠く故郷を離れて、どうやって天皇を養えばいいのか」と嘆いた。成人して天皇は、人を愛しみ、賢人を敬い、心が豊かだった。小泊瀨天皇は八年冬十二月巳亥にもとから男女の子がなく、跡継が絶えてしまい、大伴金村大連が「いま絶えて継嗣がない。天下はなにを心の拠り所としたらよいか。古くから今に至るまで、禍はこういうことから起きている。今、足仲彦天皇の五世孫の、倭彦王が丹波国桑田郡にいる。試しに兵を派遣して、輿を守り迎えて、人々の主としよう」と皆にはかっていった。大臣・大連は皆従い、計画どおり迎えることになったが、倭彦王は、迎えに来た兵士を遠くで見て恐れ、血色を失って、山中に逃れて行方がわからなくなった。元年丁亥の春一月辛酉朔甲子、大伴金村大連は「男大迹王は、情け深く親孝行で、皇位を継ぐのに相応しい。ねんごろに勧めて、皇統を栄えさせよう」とはかっていった。物部麁鹿火大連、許勢男人大臣らは皆「()孫を選ぶと、賢者は確かに男大迹王が優れている」と言った。】と訳した。

継体天皇は自ら水間城王から始まる王朝の「中興の祖」と呼び、元号も『二中暦』「年始五百六十九年」と継体元年513年から569年前の前53年からと記述し、水間城帝から始まったと補足し、『舊事本紀』も継体天皇から帝皇本紀と王朝交代を示し、崇神60年に「神寶藏于出雲大神宮」と大神の神寶を得て崇神65年に「武諸隅命為大連物部氏祖」と物部王朝が始まり、そして、いま、物部目が中興の祖となったと主張している。

目連の母異(?)媛の父は不明で「御太君祖」と記述され、里媛の兄弟が御太君なら御太君の妹で良いので、子の目連が「継體天皇御世為大連」、欽明紀「物部目連公為大臣」とあるように、大臣は大君、御太君その物で、目連の次の勾金橋宮大連は麁鹿火連とあるが、男大迹を推したのが麁鹿火大連なので、麁鹿火は武烈・継体・安閑で大連となり、目連と重なり、更に、宣化朝は甕栗宮目大連の子の荒山と麁鹿火の弟の押甲が共に大連と重複している。

これは、麁鹿火王朝と目王朝の並立を示し、目連の後を荒山が継承しているので、目大連の子の荒山は仁賢天皇億計の娘ではなく、物部氏の仁賢天皇木蓮子と里媛の娘で目連の兄弟の橘仲比賣を妃にしたと考えられ、荒山の子の尾輿も欽明天皇の大連、荒山の曽孫、尾輿の孫、御狩の子の目がまた欽明天皇の大連、木蓮子の子の目連の弟の呉足尼も欽明天皇の足尼で、欽明天皇は目連の弟にあたる王朝で、木蓮子の子の目連の義弟の荒山の子が継承した王朝だと『舊事本紀』は述べている。


2022年12月12日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』武烈天皇類書

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「小長谷若鷦鷯()()坐長谷之列木宮治天下捌歳也此天皇无太子故爲御子代定小長谷部也御陵在片(伊山)崗之石坏岡()也天皇既崩」とあり、訳は略した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱小泊瀨稚鷦鷯尊者億計天皇太子也母曰春日大娘雄計天皇七年立爲皇太子天皇長好制理法令分明日(?)坐朝幽狂必達断獄得情又顯造諸惡不修一善几諸酷刑無不親堅國内居人咸皆震怖矣十一年八月億計天皇崩元年冬十一月戊寅朔戊子皇太子尊命有司設壇場於泊瀨列城宮陟天皇位遂定為都謂列城宮二年巳卯春三月丁丑朔戊寅春日娘女立為皇后物部麻佐良連公為大連八年冬十二月壬辰朔巳亥天皇崩于列城宮天皇無胤」、【諱は小泊瀬稚鷦鷯。億計天皇の皇太子で、母を春日大娘という。億計天皇七年に、皇太子になった。天皇は長じて法令を取り決め、日暮れまで裁くのを好み、朝から暗くなるまで朝廷に居て、調べて罪を裁くまで熱中し、一つの善政も無く、諸悪が蔓延しても、およそ、さまざまな極刑でないと興味を示さず、根国の人民はみな震え恐れた。十一年八月に、億計が崩じた。元年冬十一月戊寅朔戊子、皇太子は司に命じて祭壇を泊瀬列城宮に設けて、即位し、都にして、列城宮といった。二年己卯の春三月丁丑朔戊寅、春日娘女を皇后とし、物部麻佐良を大連とした。八年の冬十二月壬辰朔巳亥に、天皇は列城宮で崩じ、子はない。】と訳した。

長谷列木宮天皇には皇太子が記述されていないが、これまで示したように、天皇が即位できるのは、即位に足るバックボーン無くしては即位出来ないので、天皇は皇后の住む場所に婿入りして、皇后の兄弟や、皇后の子、皇后の兄弟の子が皇位を継承することで国を安定的に統治することができた。

すなわち、長谷列木宮天皇は母の前皇后春日大娘の兄弟の娘と思われる春日娘女を皇后にしていて、後継者は春日娘女の兄弟が皇太子候補で、『日本書紀』「春日大娘皇女大泊瀬天皇娶和珥臣深目之女童女君所生」とあるように、童女君の兄弟の子達、和珥臣深目の孫が皇太子になったと思われる。

継体24年に「及乎繼體之君欲立中興之功者・・・降小泊瀬天皇之王天下・・・朕承帝業於今廿四年」と継体帝は小泊瀬天皇が天下を治めていた時に即位して中興の天皇となって24年経ったと、すなわち、継体元年から24年、540年にこの宣言を行っている。

すなわち、大倭國勾金橋朝と桧隈廬入野朝は継体朝と別王朝で、大倭國勾金橋朝は長谷列木宮朝の継承王朝と考えられ、『古事記』は長谷列木朝も大倭國勾金橋朝も皇后を記述せず、『日本書紀』に記述される「億計天皇女春日山田皇女爲皇后・・・立許勢男人大臣女紗手媛紗手媛弟香香有媛物部木蓮子大蓮女宅媛」がこの2王朝と稲目の皇后と私は考えた。

継体天皇即位時、武烈天皇の後継者がいないと記述しているが、和珥臣深目の孫が皇位に就くのが当然で、それなのに、後継者を探すのは非論理的で、この後継者探しは、「廿五年歳次辛亥崩者・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」によって、後継者が死滅したので、継体天皇と対立する麁鹿火が、名目上の天皇を連れて来たと考えるほうが論理的だ。

継体25年の天皇の死亡は、継体23年の「巨勢男人大臣薨」が継体25年の2年前ではなく、継体28年の2年前の継体26年の死亡で、長谷列木宮天皇の後継の倭彦を推薦したが、麁鹿火に敗れて男人が死んだと考えられる。

麁鹿火の祖母異(?)媛は御太君の祖、おそらく、中興の祖の叔父目連・継体天皇・彦太が御太(みおう)・三国大国の新しい創始者()と思われ、異(?)媛は伊莒弗の子の甕栗宮の目大連がよく合致しそうで、玉穗宮継体天皇も磐余で磐余の時の物部氏の名が目連と考えられ、麁鹿火と目連が皇位を争ったと考えられる。

2022年12月9日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁賢天皇類書2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「元年歳次戊辰春正月辛巳朔乙酉皇太子尊即天皇位都於石上廣髙宮及有天下都瀨引城二月辛亥朔壬子前妃春日大娘皇女立爲皇后大泊瀨天皇娶和珥臣除自之女童女君所生也遂生一男六女一曰高橋大娘皇女二曰朝嬬皇女三日斗日(?手白)香皇女繼體天皇后矣四日斗白(?樟氷)皇女五曰栺(?)皇女六曰小泊瀨稚鷦鷯尊七日真稚皇女次和珥臣日爪女糠君娘生春日山田皇女冬十月丁未朔己酉葬雄計天皇于傍岳磐杯丘陵七年春正月丁亥朔己酉立小泊瀨稚鷦鷯尊爲皇太子十一年秋八月庚戌朔丁巳天皇崩正寢冬十月已酉朔癸丑葬填口坂本陵天皇所生一男七女」、【元年戊辰の春一月辛巳朔乙酉に、皇太子尊は即位した。石上広高宮に都を造った。二月辛亥朔壬子、以前からの妃の春日大娘皇女を立てて皇后とした。春日大娘皇女は、大泊瀨天皇が和珥臣の深目の娘の童女君を娶って生んだ。皇后は、一男六女を生み、第一を高橋大娘皇女といい、第二を朝嬬皇女といい、第三を手白香皇女、継体天皇の皇后だ。第四を奇日皇女といい、第五を橘皇女といい、第六を小泊瀬稚鷦鷯といい、第七を真稚皇女という。次に、和珥臣日爪の娘の糖君娘は、春日山田皇女を生んだ。冬十月丁未朔己酉雄計天皇を傍丘磐坏陵に葬った。七年の春正月丁亥朔己酉、小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子とした。十一年秋八月庚戌朔丁巳、天皇は崩じた。冬十月已酉朔癸丑、埴生坂本陵に葬った。天皇が生んだ子は、一男七女。】と訳した。

市邊王の陵を狹狹城山君の領地の蚊屋野に造り、市邊王の母は羽田矢代宿祢の娘の黒媛で羽田矢代宿祢は八代の王、すなわち、野洲王と考えられ、野洲王は()倭直、 倭直は雄略紀に「狹狹城山君韓帒」、顕宗紀に「近江國狹狹城山君祖倭帒宿禰」とあるように、羽田矢代宿祢は淡海朝を受け継ぐ王で、その孫が『日本書紀』では市邊王を稚日本根子、飯豐皇女を稚足姫と考え、『古事記』は市邊王が大倭根子・天皇と億計が記述したと思われる。

実際の大倭根子・天皇は磐城皇子と思われ、弘計の妃の難波小野王が「雄朝津間稚子宿禰天皇曾孫磐城王孫丘稚子王之女也」とあるように、磐城王は泊瀬朝倉宮天皇で皇太子が真鳥、真鳥が伊波禮甕栗宮で即位したが、皇太子の鮪が殺害され、妃の角刺宮の稚足姫飯豐皇女の弟、若しくは甥の億計が皇太子になったと考えられる。

『日本書紀』は磐城を朝倉宮天皇の子と記述するが『古事記』は記述せず突然に石木王とのみ記述し、『古事記』を書いた億計にとって、磐城は本来正統な皇位継承者だったので都合が悪い人物だったから記述しなかったのであり、『日本書紀』は難波小野王が皇位継承者で、星川皇子から奪取し、『古事記』の志毘の説話が星川皇子の説話と考えられる。

真鳥が崩じると、最大勢力の平群氏が皇位継承に応じず、「定策禁中」と臣下の平群氏が平群氏の丘稚子の娘の難波小野王の夫の弘計を後継にしたとすると、「定策禁中」の意味が理解できる。

甕栗宮天皇の姓が『日本書紀』が武廣國押稚日本根子で、雄略紀から蘇我氏が書いているので、蘇我氏の姓武廣國押と葛城氏の稚日本根子の合体と考えられ、『古事記』は葛城氏が書いているので、平群氏の後継者なので大倭根子白髪、億計の娘が手白髪で袁本杼の妃、その子が天国押波流岐広庭と蘇我氏に皇位が継承されたと記述した。

七年春正月丁亥朔己酉立・・・皇太子」は『日本書紀』では「七年正月丁未朔己酉」で正月丁亥朔なら天文学的には513年にあたり、倭王武は「天監元年鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と502年まで生存し、王朝交代なら513年が正しく、葛子が磐井の長男の皇太子が死んだため交代したと考えられる。

2022年12月7日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁賢天皇類書1

   『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「(袁祁王兄)意祁王坐石上廣高宮治天下也天皇娶大長谷若建天皇之御子春日大郎女生御子高木郎女次財郎女次久須毘郎女次手白髪郎女次小長谷若鷦鷯(雀)命次真若王又娶丸迩臣日爪臣之女糠若子郎女生御子春日山田郎女此天皇之御子并七柱此之中小長谷若鷦鷯(雀)之命(坐)者治天下也」とあり訳は略す。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「億計天皇諱大脚更大為字嶋即雄計天皇同母兄也天皇幼而総睿才敏多識壯而仁惠謙恕溫滋及穴穗天皇崩避難於丹波國余社郡白髮天皇元年冬十一月播磨國司山部連小楯詣亦求迎白髮天皇尋遣小楯持節左右舍人至赤石奉迎二年夏四月遂億計天皇立為皇太子之事具在雄計天皇紀五年白髮天皇崩以天下讓雄計天皇為皇太子如故事見雄計天皇紀三年夏四月雄計天皇崩」、【億計天皇は、諱は大脚。またの名は大為。字は嶋郎。雄計天皇の同母兄だ。天皇は幼い時から聡明で、才に敏く多識であった。壮年になってめぐみ深く、へりくだって穏やかだった。穴穗天皇の崩で、丹波国の余社郡に難を避けた。白髮天皇の元年冬十一月に、播磨の国司の山部連小楯が京に行き、迎えることを求めた。白髮天皇は小楯を引き続き派遣し、璽を持たせて左右の舎人をつけ、赤石に行って迎えた。二年夏四月、億計天皇を皇太子とした。雄計天皇の紀に詳らかである。五年に白髮天皇が崩じたことにより、天下は雄計天皇に譲られた。皇太子なのは元のままであった。三年夏四月に、雄計天皇は崩じた。」と訳した。

『古事記』は実質前項で記事が終了したが、『舊事本紀』が『日本書紀』とほゞ同じなのに対し、『古事記』はかなり差異があり、1番の違いは日干支の記述で、前項で述べたように、日干支記述は公式な朝廷の記録で、日付は会話や説話で言及される、日常に使用されたのが、現代まで残されたと考えられる。

ところが、葛城氏は天皇になっているので、『古事記』も数値表記で日干支表記の編年体を書いて、公式な史書として、残せていないということは、日干支の公式な記録を持つのは、朝廷ではなく、『舊事本紀』には『日本書紀』にない公式な日干支の記録が記載されているので、物部氏が日干支の公式な記録を持っていたと思われる。

すなわち、朔が朔日の記録を持つのは蘇我・葛城朝廷ではなく物部朝廷で、それに対して、紀元前600年以上前から朔が晦日の日干支の公式記録を持ったのは、『古事記』「日子穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳」とあるように、高千穂宮が、朔が晦日の日干支の公式記録を持っていた可能性が高い。

また、朔が朔日の公式記録は『舊事本紀』が記述し、『日本書紀』で初めて朔が朔日の日干支を残した三国王天日方奇日方で、「大神君祖天日方奇日方」と大神君、その大神を宇摩志麻治が「承奉齋大神」と大神を、首都の宮で祀り、伊香色雄が石上宮で天皇に即位して、大神を石上で祀って、以降石上神宮に公式記録を置いたと思われる。

『日本書紀』はこの公式記録に、『四志』・『諸記』等の記録を当て嵌めて正史とし、更に様々な史書や記録を付け加え、『舊事本紀』は正史と異なる事績を記述できず、正史の『日本書紀』の舒明天皇までの記事を基に物部氏の最後の天皇の小墾田宮ではなく豊浦宮天皇が記述して『帝皇本紀』を締めくくり、『天孫本紀』も公式記録の役職を解かれた麻侶で終えたと思われる。

それに対して、葛城氏の記録『古事記』は正史として編纂できず、『日本書紀』「或本云億計天皇之宮有二所焉一宮於川村二宮於縮見高野其殿柱至今未朽」と川村宮か縮見高野宮で書き続け、残った記録は安萬侶には解読できず、阿禮が読み上げ、安萬侶が纏めたものと考えられる。

2022年12月5日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』顕宗天皇類書6

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「元年己丑春正月己巳朔大臣大連等奏言皇太子億計聖德明茂奉讓天下陛下正統當奉鳴緒為郊社主承續祖無窮之烈上當天心下厭民望而不(?肯 正+)踐祚遂令金銀蕃國群僚遠近莫不失望天命有屬皇太子推讓聖德弥盛福祚孔章存殞而勤謙恭慈順冝奉兄命承統大業制曰可乃召公卿百僚於近飛鳥八釣宮即天皇位百官位者皆忻々焉都折甕栗宮立皇后難波小野王雄朝姪稚子宿祢天皇曽孫磐城王孫公稚子王之女也物部小前宿祢為大連三年四月丙辰朔天皇崩于八釣宮天皇無胤」、【元年春正月己巳朔、大臣・大連らが 「億計皇太子は聖明の徳が盛んで、天下を譲った。陛下は正統です。日嗣の位を受けて、天下の主となり、皇祖の無窮の業を受け継いで、上は天の心に沿い、下は人民の心を満足させてください。ですから、践祚を承知しないと、金銀を産する隣りの諸国の群僚など、遠近すべてのものが望みを失う。皇太子の推し譲られることで、聖徳はいよいよ盛んとなり、幸いは大変明らかです。幼いときからへりくだり敬い、いつくしみ順う心でした。兄の命令を受けて、大業を受け継いでください」と言った。ついに「ゆるす」と詔勅した。そこで公卿百官を、近飛鳥八釣宮に集めて、天皇に即位した。仕える官僚はみな喜んだ。甕栗宮を都とした。難波小野女王を皇后に立てた。雄朝津間稚子宿祢天皇の曾孫・磐城王の孫、丘稚子王の娘である。物部小前宿根を大連とした。三年四月丙辰朔、天皇は八釣宮で崩じた。天皇に子は無い。】と訳した。

『舊事本紀』はほとんどが日付を日干支で記述するが、「仁徳八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」、「履中六年壬申年正月三日崩」、「聖徳太子來年二月五日必死」と数値で記述した部分があり、『三國史記』も同様である。

同じ推古天皇まで記述した『古事記』は「和銅四年九月十八日」、「和銅五年正月廿八日」、「若帯日子天皇乙卯年三月十五日崩」、「息長帯日売命壬戌年六月十一日崩」、「品陀和気命甲午年九月九日崩」、「大雀命丁卯年八月十五日崩」、「伊耶本和気王壬申年正月三日崩」、「男浅津間若子宿祢王甲午年正月十五日崩」、「大長谷若建命 己巳年八月九日崩」、「袁本杼命丁未年四月九日崩」、「広国押建金日王乙卯年三月十三日崩」、「沼名倉太玉敷命甲辰年四月六日崩」、「橘豊日王 丁未年四月十五日崩」、「長谷部若雀天皇壬子年十一月十三日崩」、「豊御食炊屋比売戊子年三月十五日癸丑日崩」と全て日付で記述している。

『日本書紀』は朝鮮や中国と関係した部分が日付でそれ以外は日干支を使用し、中国史書は『史記』卷六秦始皇本紀第六記秦始皇本紀後(班固)「・・・孝明皇帝十七年十月十五日乙丑」と班固の注釈文、『後漢書』「顯宗孝明帝紀二永平二年冬十月・・・令月(二月)元日」等と元日、『宋書』本紀第八465年「明帝永光元年十一月二十九日夜也」、『舊唐書』「大曆十四年十二月・・・詔元日朝會不得奏祥瑞事」と記録ではなく会話の内容などで日付を使用している。

おそらく、中国史書や『三國史記』は正式記録は日干支であり、日蝕記事を多数記述することで朔を示して、日干支を特定できるようにしたと思われ、日本は朔の日干支を記述することで何時の記事かを特定出来るようにしたと思われる。

『古事記』は水歯別、穴穂、白髪大倭根子、袁祁、意祁、小長谷若雀、建小広国押楯、天国押波流岐広庭の死亡日付が記述されず、 水歯別、穴穂は大雀の王朝、白髪大倭根子は大長谷の王朝、 袁祁、意祁、小長谷若雀は袁本杼の王朝、建小広国押楯、天国押波流岐広庭は沼名倉太玉敷の王朝が並立して存在した可能性がある。

2022年12月2日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』顕宗天皇類書5

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「初天皇逢難逃時求奪其御粮猪甘老人是得求喚上而斬於飛鳥河之河原皆断其族之膝筋以是至()今其子孫上於倭之日必自跛也故能見志米岐其老所在(志米岐三字以音)故其地謂志米須也天皇深怨殺其父王之大長谷天皇欲報其靈故欲毀其大長谷天皇之御陵而遣人之時其伊呂兄意祁命奏言破壊是御陵不可遣他人専僕自行如天皇之御心破壊以参出尓天皇詔然随命宜幸行是以意祁命自下幸()少掘其御陵之傍還上復奏言既掘壊也尓天皇異其早還上而詔如何破壊荅白少掘其陵之傍土天皇詔之欲報父王之仇必悉破壊其陵何少掘乎荅曰所以爲然者父王之怨欲報其靈是誠理也然其大長谷天皇者雖爲父之怨還爲我之從父亦治天下之天皇是今單取父仇之志悉破治天下之天皇陵者後人必誹謗唯父王之仇不可非報故少掘其陵邊既以是恥足示後世如此奏者天皇荅詔之是亦大理如命可也故天皇崩即意()祁命知天津日継(續也)天皇御年参拾捌歳治天下八歳御陵在片()崗之石坏崗上也」、【初め天皇は、災難に逢って逃げた時、その食料を奪った猪甘の老人を探した。見つけて、呼び寄せて、飛鳥河の河原で斬って、その族の皆の膝の筋を切った。それで今に至っても、その子孫は、倭に上る日は、必ず自然に跛行した。それで、それを見せしめにしたので、そこを志米須という。天皇は、とても父王を殺した大長谷天皇を怨み、その霊に報いを与えようとして、大長谷天皇の陵を壊そうと思って、人を派遣した時、兄意祁が、「この陵を壊すのに、人を派遣するべきでない。私自ら行って、天皇の思うままに、破壊しに行こう。」と言った。そこで天皇が「それならあなたが言うように行きなさい。」と言った。それで意祁は、自ら下って、少しだけその陵の傍を掘り、帰って復奏して「もう掘って壊した。」と言った。そこで天皇は、早い帰還を怪しんで、「どう破壊したか。」と問うと、「少しだけその陵の傍の土を掘った。」と答えた。天皇は「父王の仇に報いるのなら、残らずその陵を破壊すべきを、どうして少しだけ掘った。」と聞くと、「こうしたのは、父王の怨む霊に報いようと思うのは、理に適っている。しかし、大長谷天皇は、父の敵ではあるが、もとはと言えば從父で、亦、天下を治めた天皇だ。今ただ父の仇との思いで、天下を治めた天皇の陵をのこらず壊せば、後代の人はきっとそしるだろう。思いのままに父王の仇と報いてはいけない。それで、少しだけ陵の邊を掘った。もうこんな恥を見せつければ、後代に見せしめるのに足るだろう。」と答えた。この様に奏上すると、天皇は「それも理屈だ。あなたの振舞いでよかった。」と答えた。それで、天皇が崩じて、意祁が後継天皇となった。天皇の年、三十八歳。天下を治めること八年だった。陵は片岡の石坏の岡の上に在る。】と訳した。

大長谷の陵は河内の多治比で袁祁の陵は香芝市の片岡石坏で意祁は『古事記』に記述されず、『日本書紀』では羽曳野市の埴生坂本で、『古事記』に意祁が記述されないのは、本来、親子は同一地域に埋葬され、最後の王の陵をこれまで記述してきていて、それを踏襲して意祁の陵を記述せず若雀のみ記述したと思われ、『日本書紀』の埴生坂本陵は河内にあるので平群氏の陵の可能性が高い。

列城宮は巨勢氏の王朝の可能性が高く、531年に「大歳辛亥三月・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」と王朝の滅亡が有り、陵を創れなかった可能性が高く、袁祁・意祁の王朝の宗廟は香芝市で、意祁は『日本書紀』の億計在位11年から弘計の3年在位をさし引いた506年まで8年間だった可能性が高く、『古事記』の年令38歳は、これまでも、大長谷が年「壹佰貳拾肆歳」、袁祁在位年「捌歳」など歳を宮を建てから滅びるまでの年月を記述していると思われる。

『日本書紀』の「天皇崩于磐余玉穗宮」とあるように、玉穗宮天皇は巨勢男人が見つけ出した倭彦と考えられ、倭彦は伊玖米入日子伊沙知の兄弟で武内宿禰の子と考えられ、羽田矢代宿祢にピタリと当てはまり、『舊事本紀』に「息長地名在近江國坂田郡」と屋主忍男武雄心・息長宿禰(八坂入彦)、甥の羽田矢代が彦根近辺、活目帝皇子羽田矢代の兄弟大入來の孫で豊木入彦の子の彦狭嶋(倭武)、その子が仲足彦で『日本書紀』「足仲彦天皇五世孫倭彦王」と合致する。

若櫻宮天皇の木梨輕(天皇)の母忍坂大中姫の実家が輕と呼ばれる地で、後見人は大前大臣で淡海朝の後継者、その輕の王だったのが、『紀氏家牒』「巨勢川辺宿祢亦曰軽部宿祢家軽里星河辺」と巨勢氏と思われ、「川辺宿祢男巨勢川上宿祢男巨勢男人宿祢」と軽部宿祢の孫が男人で男人は淡海朝の人物である。

袁本杼は淡海朝の応神天皇の稚野毛二派で子が忍坂大中姫の兄弟意富富杼王で意富富杼は大男人とも書け、木梨輕と従弟の乎非(軽部宿祢)、子の彦主人(巨勢川上宿祢)、袁本杼が男人と考えられる。