『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故品太天皇五世之孫表(袁)本(大)杼命自近淡海國令上坐而(合)令於手白髪命授奉天下也(品太王五世孫)袁本杼命坐伊波礼之玉穂宮治天下也 天皇娶三尾君等祖名若比賣生御子大郎子次出雲郎女(二柱)又娶尾張連等之祖凢連之妹自(目)子郎女生御子廣國押建金日命次小建小廣國押楯命(二柱)又娶意(冨)祁天皇之御子手白髪命(是大后也)生御子天國押波流岐廣庭命(波流岐三字以音)一柱又娶息長(真)手王之女麻組郎女生御子佐佐宜郎女(一柱)又娶坂田大俣王之女黒比賣生御子神前郎女次(馬來)田郎女(次田郎女)次白坂活日子郎女???又娶茨田連小望之女関比賣生御子茨田郎女???次野郎女亦名長目比賣(四(二)柱)又娶三尾君加多夫之妹倭比賣生御子大郎女次丸高王次耳上王次赤比賣郎女(四柱)又娶阿倍(信)之波延比賣生御子若屋郎女次都夫良郎女次阿豆王(三柱)此天皇之御子等并十九王(男七女十二)此之中天國押波流岐廣庭命者治天下次廣國押建金日命治天下次建小廣國押建(楯)命治天下次佐々宜王者拝伊勢神宮也此之御世竺紫君石井不從天皇之命而多无礼故遣物部荒甲之大連大伴之金村連二人而殺石井也天皇御年肆拾参歳(丁未年四月九日崩也)御陵者三嶋之藍御陵也」、【品太天皇の五世の孫の袁本杼を近淡海國より上り坐して、手白髮に娶わせて、天下を授けた。品太王の五世の孫、袁本杼命は伊波禮玉穗宮で天下を治めた。(妃・子は略)この治世に、竺紫君石井が、天皇の命に従わず、全く礼儀が無かった。それで、物部荒甲大連、大伴金村連の二人を派遣して、石井を殺させた。天皇の年、肆拾參歳の丁未の四月九日に崩じた。陵は三島の藍陵だ。】と訳した。
陵が三嶋の藍野と首都の磐余玉穂宮と異なり、『日本書紀』・『舊事本紀』は目連を正統な皇統としていなくて、陵は三島、すなわち、三国と、彦天皇の出身地の三国の坂中井近辺に陵を造ったと考えられ、この、葬られた天皇は淡海の王朝「女国」の天皇である。
また、天皇名は『日本書紀』・『舊事本紀』は亦の名で彦太と彦の前に何も付加されない最上位の王の天皇を表し、只の「大」と大国の神、継体目大連を御大君すなわち神大君と記述し、『古事記』は目連が天皇ではなく、袁大杼と、いかにも、『日本書紀』には記述されない春日の丸迩臣佐都紀の娘の袁杼比賣を窺わせ、磐余若櫻宮応神天皇の若沼毛二俣王の末裔を意味し、三国の王とは全く異なり、「軽里星河辺」の巨勢男人のほうが良く合致する。
すなわち、『古事記』は長谷列木宮天皇を後継したのは、淡海朝廷の王の三尾君加多夫の妹の倭比賣を妃にし、正統な後継者の倭彦を追い出した男人の『古事記』に記述しない娘紗手媛・香香有媛の婿の袁本杼が即位したと考えている。
蘇我氏が完成させた『古事記』には「竺紫君石井不從」記事があり、『日本書紀』「天皇親操斧鉞授大連曰長門以東朕制之筑紫以西汝制之」と磐井の乱で大連と俀国の分割を決め、磐井の領地は安芸広国より西が磐井の領土と解り、磐井に勝利した後、結果的に糟屋郡以東の豊国は馬子、巨勢氏は馬子の保護下に、磐余に都を持つ継体天皇は名前のとおり広国より東の大国・小国・河内の根国を、稚国・三国・淡海は荒甲が手にしたようだ。
息長(真)手王の娘の麻組郎女は野洲王の妃と思われ、「侍伊勢大神祠」と女王となっていて、「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛」、「和珥臣日觸女大糠娘生一女是爲山田大娘皇女」と宅媛からはじまる宮主の王国が『梁書』の「慧深又云扶桑東千餘里有女國」と扶桑国難波から東北50㎞程度と合致し、山田大娘を妃にした荒甲が淡海巨勢王朝を引き継ぎ、さらに、稲目も和珥臣日觸の娘の糠子娘女、そして、おそらく、「不見母妃姓與皇女名字」と皇后の妹に無い、すなわち、稲目の妃糠子娘女の妹の日影皇女を妃にして権威を受け継いだようだ。
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