『梁書』卷五十四 列傳第四十八諸夷傳東夷条倭は「倭者自云太伯之後俗皆文身去帶方萬二千餘里・・・文身國在倭國東北七千餘里・・・大漢國在文身國東五千餘里無兵戈不攻戰風俗並與文身國同而言語異・・・扶桑國者齊永元元年其國有沙門慧深來至荊州説云扶桑在大漢國東二萬餘里地在中國之東・・・名國王爲乙祁・・・嗣王立三年不視國事其俗舊無佛法宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改慧深又云扶桑東千餘里有女國・・・天監六年有晉安人渡海・・・」とあり、訳は略す。
『梁書』の里単位はインド「中天竺國」が「在大月支東南數千里地方三萬里」とあって、ブータン~カシミールの間は千五百㎞、すなわち、1里50㎞と『三国志』の里単位と同じなので、倭までは従来の里数で書かれて、全く矛盾がないが、「文身國在倭國東北七千餘里」は350㎞なら伯耆、「大漢國在文身國東五千餘里」は250㎞で近江、「扶桑在大漢國東二萬餘里」は千㎞で東太平洋になってしまう。
しかし、同時期に記述された『隋書』に「夷人不知里數但計以日」と倭の東の人々は里数を知らないと記述されるが、夷人の慧深が里数を述べていて、知らないのではなく、里単位が異なると述べていると考えられ、夷人は隋朝時は俀国より東で、「大業三年其王多利思北孤遣使朝貢・・・明年上遣文林郎裴淸使於俀国・・・後十日又遣大禮哥多毗」と大業四年俀国の謁見から十日後、大禮哥多毗と裴淸が相見して「我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義」と俀国や倭国ではない夷人が存在し、この人物が里単位を知らなかったのである。
倭国は唐と闘った国で、俀国は倭を滅ぼして日本と名乗った国、俀国は隋滅亡前に「此後遂絶」と中国と断交し、倭によって滅亡した、扶桑国を滅ぼした後の日本で、扶桑国は高句麗の制度對盧と中国人が認識した制度を使っていたように、北朝と友好関係があったと考えられ、南朝の梁は慧深の言った里数を北朝の里数と考え、梁の里数にするのに8倍したと考えられる。
すなわち、文身國・大漢國は倭国の領域で「文身國在倭國東北七千餘里」は国境間距離35㎞で北九州市・長門、「大漢國在文身國東五千餘里」は25㎞で周防、そして、「扶桑在大漢國東二萬餘里」は夷人なので八分の一の二千五百里で国境間距離125㎞で吉備・小国から扶桑国となり、女国の千里は6㎞で比良山地若しくは琵琶湖が国境だったことになる。
扶桑国への仏教伝来が大明二年458年となっていて、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は「天國案春岐廣庭天皇御世蘇我大臣稻目宿禰仕奉時治天下七年歳次戊午十二月度來」と538年、『日本書紀』は欽明天皇十三年552年「大臣跪受而忻悦安置小墾田家懃脩出世業爲因淨捨向原家爲寺」となっているが、敏達天皇六年「百濟國王付還使大別王等獻經論若干卷并律師禪師比丘尼咒禁師造佛工造寺工六人遂安置於難波大別王寺」となっていて、難波大別王は427年の死亡と証明し、この記事が大別王の記事なら、百濟には384年に仏教が入り、405年頃に王仁が伝えた可能性が有り、399年頃阿知使主も去來穗別に伝えた可能性が有る。
そして、永元元年499年に乙祁(億計)が即位し、天監六年507年頃に嗣王が即位し、3年間政治を観なかったと有るが、507年継体元年に「癸酉納者據即天位」とあり、継体三年「遣使于百濟」まで「葬小泊瀬稚鷦鷯天皇于傍丘磐杯丘陵」以外記事が無く、良く合致している。
『上宮聖徳法王帝説』に「志歸嶋天皇治天下卌一年」と在位期間が41年で、『日本書紀』「廿五年歳次辛亥崩者取百濟本記爲文」で巨勢王朝が滅びその後、天國排開廣庭が巨勢氏の残党を保護して、自分がその後継と主張したと考えられる。
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