2022年12月19日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』継体天皇類書3

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「三月庚申朔詔曰神祇不可乏王宇宙不可無君天生黎庶樹以元首使司助養令全性命大連憂朕無息披試疑以國家世世盡忠朕日唯欤冝備禮義奉迎手白香皇女甲子立皇后即白香皇女循教于内誕生一男謂天國排開廣尊即嫡子也而幼年於二兄治後有共天下矣兄廣國排武金日尊次武小廣押盾楯癸酉納八妃夫納八妃雖有先背後而此日納者授即天位占擇良日初拜後宮為父也皆放比矣元妃尾張連公草香女日國(?)子媛生二子矣兄勾大兄皇子謂廣國排武金日尊次檜隈高向皇子謂武小廣盾后尊次妃三尾角折君妹曰稚子媛生一男一女大市皇子與出雲皇女次坂田大跨王女廣媛生三女神前皇女次茨田皇女次馬來田皇女次息長真年(?)王女廣續娘子生一女荳角皇女伊勢大神齋祠次茨田連小望女曰開媛生三女茨田大娘皇女次白坂洽日姫皇女次小野傾(?)娘皇女次三尾君堅拭女日倭媛生二男二女其一大娘子皇女次椀子皇女(?)次耳皇子次赤姬皇女次和珥臣河内女曰夷媛生一男二女第一稚綾姬皇女次圓姬皇女次厚皇女子欤次根王女廣媛生二男兄菟皇子次中皇子二年冬十月辛亥朔癸丑葬稚鷦鷯天皇于傍丘磐抔陵五年冬十月都遷山背謂筒城宮八年春正月勾大兄皇子冝處春宮肋朕(?+)仁翼吾補闕之矣廾五年春二月天皇病苦崩于磐余不譲(?玉穗)宮年八十二冬十二月丙申朔庚子葬并莖(?)野陵天皇(?)生八男十二女兄勾大兄廣國排武金尊次檜隈高田武小廣楯后尊次大郎皇子次出雲皇女次神前皇女次茨田皇女次馬來田皇女次荳角皇女伊勢齋大神祠次茨田大郎娘皇女次白坂治皇姬皇女次小野稚郎皇女次大娘子皇女次椀子皇女三國公祖次耳皇子次赤姬皇女次稚綾姬皇女次圓媛皇女次厚皇子次菟皇子濟人公祖次(?)中皇子坂田公祖」、【三月庚申朔、「王無しに地祇を祀れず、君子無しに天下を治められない。天は庶民を生み、元首を立てて役所に民を助け養わさせ、その生を全うさせる。大連は私に子が無いことを憂い、私の世だけでなく国家に忠誠を尽くす。礼を尽くして手白香皇女を迎えよ」詔勅した。甲子に手白香皇女を教え通りに皇后とし、一人の男子が生れた。天国排開広庭で、嫡子だが幼かったので、二人の兄が治めた後に、天下を治めた。兄は広国排武金日、次が武小広国押盾である。癸酉、八人の妃を召し、妃に前後があるが、この日に召したのは、即位し良い日を占い選んで、はじめて父の為、後宮で礼拝したからで、他も皆これにならっている。(妃・子略)二年の冬十月辛亥朔癸丑に、稚鷦鷯天皇を傍丘磐坏丘陵に葬った。五年冬十月、都を山背に遷し、筒城宮という。八年の春一月、勾大兄皇子に「春宮にいて、朕の仁愛を助けて、私を助けて政事を補え。」と命じた。二十五年春2月、天皇は病苦のため磐余玉穗宮で崩じた。八十二歳だった。冬十二月丙申朔庚子、藍野陵に併葬した。天皇が生んだ子は八男十二女。()】と訳した。

皇后の手白香は天国排開広庭の母なのだから、天国排開広庭は蘇我稲目の役職名で、その一代前の役職名の武小廣國押盾・馬背宿祢か、その前の 廣國押武金日・ 韓子宿祢の妃の可能性が高く、蘇我氏は川辺臣の祖でもあり、軽里星河辺に住む巨勢川辺宿祢の娘を妃にすることで川辺臣を引き継いだ可能性が高い。

川辺宿祢、子の巨勢川上宿祢、その子の巨勢男人宿祢、巨勢男人を継体天皇に当て嵌めると、手白香は春日大郎女が母で祖父が雄略となって川辺宿祢の時代に当てはまり、川辺宿祢と蘇我里に住む蘇我石河宿祢が姻戚、孫の韓子宿祢・廣國押武金日の妃が手白香で、孫の稲目が欽明天皇の大臣、同じく欽明二十三年に「副將河邊臣瓊缶出居曾山而欲問新羅攻任那之状」と川辺臣が初出し、手白香の力で稲目大臣と河辺臣の賜姓及び仲国・豊国を支配する蘇我氏に対する巨勢氏の「豐足臣」と豊国王の姓の関係性が理解できる。

広国排武金日、武小広国押盾が天国排開広庭を差し置いて即位したというのは、「継體天皇御世為大連」の目連の妹の『古事記』に記述されない宅媛の子の「磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連」の目連の先に荒山と尾輿が即位した説話に麁鹿火・押甲兄弟が別王朝の天皇になった説話の合体で、尾輿の妃が目大連の子の弓削連の祖の倭古連の娘で、その尾輿の子が守屋と御狩で御狩の子が時代を遡って「磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連」の目連、すると、磐余の甕栗・玉穗宮で目連なのだから、その宮が磯城嶋宮時代も続いた可能性が高く、御狩の幸玉宮の次の雙槻宮まで襲名した目連が天皇だった可能性があり、『梁書』に複数国が記述され、畿内に扶桑国・女国があり、2朝並立もしくは乱立の可能性もあり、『隋書』に俀国と倭国が記述されているだけなので、倉梯宮から倭国に統一されたと考えられる。

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