『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱武小廣國押盾尊者男大亦天皇第二子也勾大兄廣國押武金日天皇同母弟也二年十二月勾大兄廣國押武金日天皇崩無嗣群臣奏上鏡劔於武小廣國押盾尊元年丁巳使召天皇位爲元年天皇爲人器宇清通神襟朗明不以才智(?コ+矛+令)人諸王君子(?所)服也二年春正月都遷檜前謂廬入宮三月壬寅朔有司請立皇后詔曰前正妃億計天皇女仲皇女立爲皇后誕生一男三女長日石姬皇女次小石姬皇女次稚綾姬皇女次上殖葉皇子亦名椀子前鹿妃大河内稚子媛生火焔皇子三年春二月巳(?乙)酉朔甲午天皇崩于廬入野宮年七十三冬十一月庚戌朔丙寅葬于大倭身狹桃花鳥坂上陵以皇后橘皇女及其孺子合葬于是陵也孺子者盖未成人而薨欤天皇(?所)生二男三女兄石姬皇女次小石姬皇女次稚綾姫皇女次上殖葉皇子亦名椀子丹丘椎日君祖 次火焔皇子侓那君祖」、【諱は武小広国押盾、男大亦天皇の第二子で、勾大兄廣國押武金日の同母弟だ。二年十二月、勾大兄廣國押武金日天皇が崩じ、跡継がなかった。群臣達が鏡・剣を武小広国押盾に奉じた。治世元年丁巳に即位し、天皇の元年とした。天皇は、胸の内はわだかまりのなく清らかで心がすっきりとして、才智で人に驕らず王者ぶらず、君子らしかった。二年春正月に、檜隈に遷都し、廬入宮といった。三月壬寅朔、役人たちは皇后を立てて欲しいと言うので「以前からの正妃の億計天皇の娘の仲皇女を皇后としたい」と詔勅した。皇后は一男三女を生み、長女を石姫皇女、次を小石姫皇女、次を稚綾姫皇女、次を上殖葉皇子といい、またの名を椀子といった。前からの庶妃の大河内稚子は、火焔皇子を生んだ。三年春二月巳酉朔甲午、天皇は廬入宮で崩じ年七十三。冬十一月庚戌朔丙寅、天皇を大倭国の身狭の桃花鳥坂上陵に葬った。皇后の橘仲皇女と、その孺子をこの陵に合葬した。孺子は育たないで亡くなったものか。(以下略)】と訳した。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「(弟)建(小)廣國押楯命坐檜坰之廬入野宮治天下也天皇娶意祁天皇之御子橘之中比賣命生御子石比賣命(此十三字脱訓石如石下効此次小石比賣命)次倉之若江王又娶川内之若子比賣生御子火穂王次恵波王此天皇之御子等并五王(男二女二)故大(火)穂王者(志比陀君之祖)恵波王者(韋祁(那)君・多治比君之祖也)」とあり、訳は略す。
元年丁巳は537年で『日本書紀』は二年にあたり、 三月壬寅朔は2日で廬入野宮の記録ではなく、壬寅が晦日が朔の日は536年12月30日、これなら、536年は僧聴元年で、「天皇位爲元年」記事は目大連の僧聴改元記事となり、そこに、押甲の丁巳537年即位の記事を含め、その資料が九州・倭国の記事だったと考えられ、『日本書紀』宣化天皇四年記事も三年記事とし、継体天皇目大連の皇太子の荒山が4年で押甲が3年の在位期間だったと考えられる。
荒山は娘が初代稲目の妃になって三代目の稲目の渟中倉太珠敷や娘の子の橘豐日・泊瀬部・豊御食炊屋姫が生れ、倭国が政権を奪ったと見做した。
それで、『日本書紀』は元年記事を『舊事本紀』の元資料537年の押甲の記事を536年に当て嵌めたため、麁鹿火が「秋七月物部麁鹿火大連薨是年也太歳丙辰」と536年に麁鹿火の死亡を記述し、押甲の大連を記述せず、3朝並立が一時あったようだ。
『大村骨臓器銘文』に「卿諱大村檜前五百野宮御宇天皇之四世・・・除小納言授勤廣肆以大宝元年律令初定」と『日本書紀』は「上殖葉皇子・・・偉那公凡二姓之先」、『古事記』は恵波王、『舊事本紀』は火焔皇子と名前・母親が異なるが、この皇子が生れたのが536年以前で、大村は大宝元年701年が初授なので680年ころには大村が生れていて、140年で4世代は非論理的で、天皇の宮世代ならもっと多くの世代があるが、『舊事本紀』の押甲の世代は14世で、石上朝臣を賜姓された麻侶は17世、この物部氏の世代なら四世代で良く合致し、すなわち、、天皇の宮世代と物部氏・尾張氏の世代に違いが有ることが解る。
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