2022年12月7日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁賢天皇類書1

   『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「(袁祁王兄)意祁王坐石上廣高宮治天下也天皇娶大長谷若建天皇之御子春日大郎女生御子高木郎女次財郎女次久須毘郎女次手白髪郎女次小長谷若鷦鷯(雀)命次真若王又娶丸迩臣日爪臣之女糠若子郎女生御子春日山田郎女此天皇之御子并七柱此之中小長谷若鷦鷯(雀)之命(坐)者治天下也」とあり訳は略す。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「億計天皇諱大脚更大為字嶋即雄計天皇同母兄也天皇幼而総睿才敏多識壯而仁惠謙恕溫滋及穴穗天皇崩避難於丹波國余社郡白髮天皇元年冬十一月播磨國司山部連小楯詣亦求迎白髮天皇尋遣小楯持節左右舍人至赤石奉迎二年夏四月遂億計天皇立為皇太子之事具在雄計天皇紀五年白髮天皇崩以天下讓雄計天皇為皇太子如故事見雄計天皇紀三年夏四月雄計天皇崩」、【億計天皇は、諱は大脚。またの名は大為。字は嶋郎。雄計天皇の同母兄だ。天皇は幼い時から聡明で、才に敏く多識であった。壮年になってめぐみ深く、へりくだって穏やかだった。穴穗天皇の崩で、丹波国の余社郡に難を避けた。白髮天皇の元年冬十一月に、播磨の国司の山部連小楯が京に行き、迎えることを求めた。白髮天皇は小楯を引き続き派遣し、璽を持たせて左右の舎人をつけ、赤石に行って迎えた。二年夏四月、億計天皇を皇太子とした。雄計天皇の紀に詳らかである。五年に白髮天皇が崩じたことにより、天下は雄計天皇に譲られた。皇太子なのは元のままであった。三年夏四月に、雄計天皇は崩じた。」と訳した。

『古事記』は実質前項で記事が終了したが、『舊事本紀』が『日本書紀』とほゞ同じなのに対し、『古事記』はかなり差異があり、1番の違いは日干支の記述で、前項で述べたように、日干支記述は公式な朝廷の記録で、日付は会話や説話で言及される、日常に使用されたのが、現代まで残されたと考えられる。

ところが、葛城氏は天皇になっているので、『古事記』も数値表記で日干支表記の編年体を書いて、公式な史書として、残せていないということは、日干支の公式な記録を持つのは、朝廷ではなく、『舊事本紀』には『日本書紀』にない公式な日干支の記録が記載されているので、物部氏が日干支の公式な記録を持っていたと思われる。

すなわち、朔が朔日の記録を持つのは蘇我・葛城朝廷ではなく物部朝廷で、それに対して、紀元前600年以上前から朔が晦日の日干支の公式記録を持ったのは、『古事記』「日子穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳」とあるように、高千穂宮が、朔が晦日の日干支の公式記録を持っていた可能性が高い。

また、朔が朔日の公式記録は『舊事本紀』が記述し、『日本書紀』で初めて朔が朔日の日干支を残した三国王天日方奇日方で、「大神君祖天日方奇日方」と大神君、その大神を宇摩志麻治が「承奉齋大神」と大神を、首都の宮で祀り、伊香色雄が石上宮で天皇に即位して、大神を石上で祀って、以降石上神宮に公式記録を置いたと思われる。

『日本書紀』はこの公式記録に、『四志』・『諸記』等の記録を当て嵌めて正史とし、更に様々な史書や記録を付け加え、『舊事本紀』は正史と異なる事績を記述できず、正史の『日本書紀』の舒明天皇までの記事を基に物部氏の最後の天皇の小墾田宮ではなく豊浦宮天皇が記述して『帝皇本紀』を締めくくり、『天孫本紀』も公式記録の役職を解かれた麻侶で終えたと思われる。

それに対して、葛城氏の記録『古事記』は正史として編纂できず、『日本書紀』「或本云億計天皇之宮有二所焉一宮於川村二宮於縮見高野其殿柱至今未朽」と川村宮か縮見高野宮で書き続け、残った記録は安萬侶には解読できず、阿禮が読み上げ、安萬侶が纏めたものと考えられる。

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