『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱廣國押武金日尊者,男大跡天皇長子也母日目子媛即尾張連草香之女也天皇爲性壚宇凝峻不可得窺桓桓寬大有人君之量二十五年春二月辛丑朔丁未男大迹天皇立大兄為天皇矣則是日男大迹天皇崩元年歳次甲寅春正月都遷倭勾謂金橋宮三月癸未朔戊子有司即天皇位納采春日山田皇女立為皇后更名山赤見皇女億計天皇之皇女也別立三妃立許勢男人大臣女紗乎(?手)媛佃乎(紗手)媛弟香香有媛物部木蓮子大連女宅媛矣二年冬十二月癸酉朔己丑天皇崩于勾金橋宮年七十是月葬天皇於河内古市高盧丘陵生年七十皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬于是陵之也天皇無胤」、【諱は広国押武金日。男大迹天皇の長子、母を目子媛といい、尾張連草香の娘だ。天皇は見えない所でも厳かに手を差し延べ、武勇が優れ、心が広く君主の器であった。先の二十五年の春二月辛丑朔丁未に、男大迹天皇は大兄を天皇とし、その日に男大迹天皇は崩じた。元年甲寅の春正月に、倭の勾に遷都し金橋宮という。三月癸未朔戊子、役人に命じて、即位し、春日山田皇女をむかえて皇后とした。皇后のまたの名は山田赤見皇女。億計天皇の皇女だ。別に三妃を立て、許勢男人大臣の娘の紗手媛、紗手媛の妹の香香有媛、物部木蓮子大連の娘の宅媛だ。二年の冬十二月癸酉朔己丑、天皇は勾金橋宮で崩じ、七十年だった。この月、天皇を河内の古市高盧丘陵に葬った。年令七十。皇后春日山田皇女と、天皇の妹の神前皇女も合葬した。天皇に子はいない。】と訳した。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「(御子)廣國押建金日命(王)坐勾之金箸宮治天下也此天皇無御子也(乙卯年三月十三日崩)御陵在河内之古市高屋村也」、【子廣國押建金日は勾金箸宮で、天下を治め、この天皇には、子が無かった。乙卯年の三月十三日に崩じ、陵は河内の古市の高屋村に在る。】と訳した。
この廣國押建金日は武廣國押から続く蘇我氏の役職名で『紀氏家牒』「蘇我石河宿祢家大倭国高市県蘇我里」と蘇我里の王の蘇我石河宿祢が武廣國押と広国王の満智宿祢、広国押建金日とやはり広国王で建国を征服して金日国を造った韓子宿祢を表していると思われる。
そのため、天文学的朔でなく、『日本書紀』に記述が無い継体天皇の死亡日の春二月辛丑朔は1月30日の九州の暦、即位日の三月癸未朔は534年で継体28年に崩じた王の即位、十二月癸酉朔己丑は天文学的に正しい日干支になっていて、継体天皇死亡日は蘇我氏の資料で、即位と死亡は、死亡日が『古事記』と異なり、『舊事本紀』と『古事記』は別の王の死亡日を記述している。
『古事記』527年「 丁未年四月九日崩也」は若雀の死亡、535年「乙卯年三月十三日崩」は武廣國押の死亡の可能性が高くい。
すなわち、丁未527年に白髪朝廷から倭彦・巨勢・麁鹿火・押甲の朝廷が続き、金橋宮朝廷を535年に滅ぼし、継体目連は皇太子が死亡したため、叔父荒山を皇太子にしたと思われれ、元号も僧聴と改元し、そして、陵は蘇我氏の皇子達の陵で、草香の娘の母が住む、首都と異なる河内にあり、首都は(大)倭國勾金橋と淡海の政権で別朝廷の説話となっている。
妃も『古事記』には記述されず、『舊事本紀』は『日本書紀』と同じく記述されて矛盾し、金橋宮天皇と見做した麁鹿火の子の記述は、妃に子が記述されないので評価は難しいが、皇后が伊勢の宮主の家系の和珥臣日觸で伊勢王の血筋で皇統となり、巨勢男人は娘を麁鹿火の妃にし、淡海王の後ろ盾になることで皇位を奪取、もう一人の巨勢男人の娘と木蓮子の娘の宅媛は誰の妃か解らないが、稲目が台頭してきたこと、さらに、『古事記』が記述しない、継体天皇目大連側の、筑紫を手中にした蘇我稲目の妃の可能性がある。
『日本書紀』・『舊事本紀』・『古事記』すべて推古天皇まで蘇我氏が記述しているので、安閑以降推古までの天皇名は全て蘇我氏の大王の名と考えられ、『舊事本紀』の天皇は大連、『日本書紀』は大臣を天皇と見做し、実際の天皇は、これまで通り、皇后・皇太后が住む宮その物が天皇で、その為、100年を超える、人間では在位不可能な期間在位でき、大連・大臣などの姓も宮・天皇が変われば、姓も名も変わり、目連は磐余に住む物部氏の家系が目連を名乗ったと考えられる。
『舊事本紀』では十四世麁鹿火・押甲は同世代の荒山が十二世なのに十四世に記述され、世代と年代が合致しないが、この現象は『日本書紀』でも同じと考えられ、其々の王をどの年代に当て嵌めるかを、特に古代の人々は住む場所、役職名で同名の複数の人物が存在し、初代と末代では年代がズレてしまうため、この現象が起こっていると思われる。
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