2022年12月2日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』顕宗天皇類書5

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「初天皇逢難逃時求奪其御粮猪甘老人是得求喚上而斬於飛鳥河之河原皆断其族之膝筋以是至()今其子孫上於倭之日必自跛也故能見志米岐其老所在(志米岐三字以音)故其地謂志米須也天皇深怨殺其父王之大長谷天皇欲報其靈故欲毀其大長谷天皇之御陵而遣人之時其伊呂兄意祁命奏言破壊是御陵不可遣他人専僕自行如天皇之御心破壊以参出尓天皇詔然随命宜幸行是以意祁命自下幸()少掘其御陵之傍還上復奏言既掘壊也尓天皇異其早還上而詔如何破壊荅白少掘其陵之傍土天皇詔之欲報父王之仇必悉破壊其陵何少掘乎荅曰所以爲然者父王之怨欲報其靈是誠理也然其大長谷天皇者雖爲父之怨還爲我之從父亦治天下之天皇是今單取父仇之志悉破治天下之天皇陵者後人必誹謗唯父王之仇不可非報故少掘其陵邊既以是恥足示後世如此奏者天皇荅詔之是亦大理如命可也故天皇崩即意()祁命知天津日継(續也)天皇御年参拾捌歳治天下八歳御陵在片()崗之石坏崗上也」、【初め天皇は、災難に逢って逃げた時、その食料を奪った猪甘の老人を探した。見つけて、呼び寄せて、飛鳥河の河原で斬って、その族の皆の膝の筋を切った。それで今に至っても、その子孫は、倭に上る日は、必ず自然に跛行した。それで、それを見せしめにしたので、そこを志米須という。天皇は、とても父王を殺した大長谷天皇を怨み、その霊に報いを与えようとして、大長谷天皇の陵を壊そうと思って、人を派遣した時、兄意祁が、「この陵を壊すのに、人を派遣するべきでない。私自ら行って、天皇の思うままに、破壊しに行こう。」と言った。そこで天皇が「それならあなたが言うように行きなさい。」と言った。それで意祁は、自ら下って、少しだけその陵の傍を掘り、帰って復奏して「もう掘って壊した。」と言った。そこで天皇は、早い帰還を怪しんで、「どう破壊したか。」と問うと、「少しだけその陵の傍の土を掘った。」と答えた。天皇は「父王の仇に報いるのなら、残らずその陵を破壊すべきを、どうして少しだけ掘った。」と聞くと、「こうしたのは、父王の怨む霊に報いようと思うのは、理に適っている。しかし、大長谷天皇は、父の敵ではあるが、もとはと言えば從父で、亦、天下を治めた天皇だ。今ただ父の仇との思いで、天下を治めた天皇の陵をのこらず壊せば、後代の人はきっとそしるだろう。思いのままに父王の仇と報いてはいけない。それで、少しだけ陵の邊を掘った。もうこんな恥を見せつければ、後代に見せしめるのに足るだろう。」と答えた。この様に奏上すると、天皇は「それも理屈だ。あなたの振舞いでよかった。」と答えた。それで、天皇が崩じて、意祁が後継天皇となった。天皇の年、三十八歳。天下を治めること八年だった。陵は片岡の石坏の岡の上に在る。】と訳した。

大長谷の陵は河内の多治比で袁祁の陵は香芝市の片岡石坏で意祁は『古事記』に記述されず、『日本書紀』では羽曳野市の埴生坂本で、『古事記』に意祁が記述されないのは、本来、親子は同一地域に埋葬され、最後の王の陵をこれまで記述してきていて、それを踏襲して意祁の陵を記述せず若雀のみ記述したと思われ、『日本書紀』の埴生坂本陵は河内にあるので平群氏の陵の可能性が高い。

列城宮は巨勢氏の王朝の可能性が高く、531年に「大歳辛亥三月・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」と王朝の滅亡が有り、陵を創れなかった可能性が高く、袁祁・意祁の王朝の宗廟は香芝市で、意祁は『日本書紀』の億計在位11年から弘計の3年在位をさし引いた506年まで8年間だった可能性が高く、『古事記』の年令38歳は、これまでも、大長谷が年「壹佰貳拾肆歳」、袁祁在位年「捌歳」など歳を宮を建てから滅びるまでの年月を記述していると思われる。

『日本書紀』の「天皇崩于磐余玉穗宮」とあるように、玉穗宮天皇は巨勢男人が見つけ出した倭彦と考えられ、倭彦は伊玖米入日子伊沙知の兄弟で武内宿禰の子と考えられ、羽田矢代宿祢にピタリと当てはまり、『舊事本紀』に「息長地名在近江國坂田郡」と屋主忍男武雄心・息長宿禰(八坂入彦)、甥の羽田矢代が彦根近辺、活目帝皇子羽田矢代の兄弟大入來の孫で豊木入彦の子の彦狭嶋(倭武)、その子が仲足彦で『日本書紀』「足仲彦天皇五世孫倭彦王」と合致する。

若櫻宮天皇の木梨輕(天皇)の母忍坂大中姫の実家が輕と呼ばれる地で、後見人は大前大臣で淡海朝の後継者、その輕の王だったのが、『紀氏家牒』「巨勢川辺宿祢亦曰軽部宿祢家軽里星河辺」と巨勢氏と思われ、「川辺宿祢男巨勢川上宿祢男巨勢男人宿祢」と軽部宿祢の孫が男人で男人は淡海朝の人物である。

袁本杼は淡海朝の応神天皇の稚野毛二派で子が忍坂大中姫の兄弟意富富杼王で意富富杼は大男人とも書け、木梨輕と従弟の乎非(軽部宿祢)、子の彦主人(巨勢川上宿祢)、袁本杼が男人と考えられる。

0 件のコメント:

コメントを投稿