2022年12月5日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』顕宗天皇類書6

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「元年己丑春正月己巳朔大臣大連等奏言皇太子億計聖德明茂奉讓天下陛下正統當奉鳴緒為郊社主承續祖無窮之烈上當天心下厭民望而不(?肯 正+)踐祚遂令金銀蕃國群僚遠近莫不失望天命有屬皇太子推讓聖德弥盛福祚孔章存殞而勤謙恭慈順冝奉兄命承統大業制曰可乃召公卿百僚於近飛鳥八釣宮即天皇位百官位者皆忻々焉都折甕栗宮立皇后難波小野王雄朝姪稚子宿祢天皇曽孫磐城王孫公稚子王之女也物部小前宿祢為大連三年四月丙辰朔天皇崩于八釣宮天皇無胤」、【元年春正月己巳朔、大臣・大連らが 「億計皇太子は聖明の徳が盛んで、天下を譲った。陛下は正統です。日嗣の位を受けて、天下の主となり、皇祖の無窮の業を受け継いで、上は天の心に沿い、下は人民の心を満足させてください。ですから、践祚を承知しないと、金銀を産する隣りの諸国の群僚など、遠近すべてのものが望みを失う。皇太子の推し譲られることで、聖徳はいよいよ盛んとなり、幸いは大変明らかです。幼いときからへりくだり敬い、いつくしみ順う心でした。兄の命令を受けて、大業を受け継いでください」と言った。ついに「ゆるす」と詔勅した。そこで公卿百官を、近飛鳥八釣宮に集めて、天皇に即位した。仕える官僚はみな喜んだ。甕栗宮を都とした。難波小野女王を皇后に立てた。雄朝津間稚子宿祢天皇の曾孫・磐城王の孫、丘稚子王の娘である。物部小前宿根を大連とした。三年四月丙辰朔、天皇は八釣宮で崩じた。天皇に子は無い。】と訳した。

『舊事本紀』はほとんどが日付を日干支で記述するが、「仁徳八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」、「履中六年壬申年正月三日崩」、「聖徳太子來年二月五日必死」と数値で記述した部分があり、『三國史記』も同様である。

同じ推古天皇まで記述した『古事記』は「和銅四年九月十八日」、「和銅五年正月廿八日」、「若帯日子天皇乙卯年三月十五日崩」、「息長帯日売命壬戌年六月十一日崩」、「品陀和気命甲午年九月九日崩」、「大雀命丁卯年八月十五日崩」、「伊耶本和気王壬申年正月三日崩」、「男浅津間若子宿祢王甲午年正月十五日崩」、「大長谷若建命 己巳年八月九日崩」、「袁本杼命丁未年四月九日崩」、「広国押建金日王乙卯年三月十三日崩」、「沼名倉太玉敷命甲辰年四月六日崩」、「橘豊日王 丁未年四月十五日崩」、「長谷部若雀天皇壬子年十一月十三日崩」、「豊御食炊屋比売戊子年三月十五日癸丑日崩」と全て日付で記述している。

『日本書紀』は朝鮮や中国と関係した部分が日付でそれ以外は日干支を使用し、中国史書は『史記』卷六秦始皇本紀第六記秦始皇本紀後(班固)「・・・孝明皇帝十七年十月十五日乙丑」と班固の注釈文、『後漢書』「顯宗孝明帝紀二永平二年冬十月・・・令月(二月)元日」等と元日、『宋書』本紀第八465年「明帝永光元年十一月二十九日夜也」、『舊唐書』「大曆十四年十二月・・・詔元日朝會不得奏祥瑞事」と記録ではなく会話の内容などで日付を使用している。

おそらく、中国史書や『三國史記』は正式記録は日干支であり、日蝕記事を多数記述することで朔を示して、日干支を特定できるようにしたと思われ、日本は朔の日干支を記述することで何時の記事かを特定出来るようにしたと思われる。

『古事記』は水歯別、穴穂、白髪大倭根子、袁祁、意祁、小長谷若雀、建小広国押楯、天国押波流岐広庭の死亡日付が記述されず、 水歯別、穴穂は大雀の王朝、白髪大倭根子は大長谷の王朝、 袁祁、意祁、小長谷若雀は袁本杼の王朝、建小広国押楯、天国押波流岐広庭は沼名倉太玉敷の王朝が並立して存在した可能性がある。

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