2022年12月14日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』継体天皇類書1

   『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「十三世孫物部尾輿連公荒山太連之子此連公磯城嶋金剌宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮弓削連祖倭古連女子阿佐姫次加波流姫各兄生四兒弟生三兒弟物部奈洗連公孫物部麻佐良連公木(?)大連之子此連公泊瀬(?)城宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮須羽直女子古爲妻生二(?)兒弟物部目連公此連公継體天皇御世為大連奉齋神宮弟物部長目連公輕馬連等祖弟物部金連公借馬連野間連等祖弟物部具(?)足尼連公依羅連等祖此連公磯城嶋宮御宇天皇御世為宿尼弟物部建彦連公高橋連立野連都刀連横廣連勇井連伊勢荒比田連小田連等祖」とあり、訳は略す。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は「諱男大迹天皇更名彦太尊者譽田天皇五世孫彦主人王之子也母曰振媛振媛活目天皇七世之孫也天皇父聞振媛顔容妹妙甚有媺色自近江國高嶋郡三尾之別業遣使聘于三國坂名井納以妃遂彦天皇天皇幼年父王薨振媛迺歎曰妾命遠離桑梓安得膝養天皇天皇壯大愛土禮賢意豁如也小泊瀨天皇八年冬十二月巳亥元無男女可絕継嗣大伴金村大連議曰方今絶無継嗣天下何處繫心自古迄今禍由斯起今足仲彦天皇五世孫倭彦王在丹波國桑田郡請試設兵仗夾衛乘輿就而奉迎之為人主大臣大連等一皆隨焉奉迎如計於是倭彦王遙望迎兵愕然失色仍遁山巓不知所詣元年歳次丁亥春正月辛酉朔甲子大伴金村大連更籌議曰男大迹王性慈仁孝順可承天緒冀慇懃勸進紹隆帝業矣物部鹿火大連許勢男人大臣等僉曰妙簡孫賢者唯男大迹王矣 」、【諱は男大迹天皇でまたの名を彦太尊は、譽田天皇の五世の孫で、彦主人王の子だ。母は振媛で振媛は活目天皇の七世の孫だ。天皇の父が、振媛は容貌が端正ではなはだ美人であることを聞いて、近江国高島郡の三尾の領地に、使いを派遣して三国の坂中井に迎え入れて妃として、彦天皇が生れた。天皇が幼いうちに、父王は薨じた。振媛は「私は、遠く故郷を離れて、どうやって天皇を養えばいいのか」と嘆いた。成人して天皇は、人を愛しみ、賢人を敬い、心が豊かだった。小泊瀨天皇は八年冬十二月巳亥にもとから男女の子がなく、跡継が絶えてしまい、大伴金村大連が「いま絶えて継嗣がない。天下はなにを心の拠り所としたらよいか。古くから今に至るまで、禍はこういうことから起きている。今、足仲彦天皇の五世孫の、倭彦王が丹波国桑田郡にいる。試しに兵を派遣して、輿を守り迎えて、人々の主としよう」と皆にはかっていった。大臣・大連は皆従い、計画どおり迎えることになったが、倭彦王は、迎えに来た兵士を遠くで見て恐れ、血色を失って、山中に逃れて行方がわからなくなった。元年丁亥の春一月辛酉朔甲子、大伴金村大連は「男大迹王は、情け深く親孝行で、皇位を継ぐのに相応しい。ねんごろに勧めて、皇統を栄えさせよう」とはかっていった。物部麁鹿火大連、許勢男人大臣らは皆「()孫を選ぶと、賢者は確かに男大迹王が優れている」と言った。】と訳した。

継体天皇は自ら水間城王から始まる王朝の「中興の祖」と呼び、元号も『二中暦』「年始五百六十九年」と継体元年513年から569年前の前53年からと記述し、水間城帝から始まったと補足し、『舊事本紀』も継体天皇から帝皇本紀と王朝交代を示し、崇神60年に「神寶藏于出雲大神宮」と大神の神寶を得て崇神65年に「武諸隅命為大連物部氏祖」と物部王朝が始まり、そして、いま、物部目が中興の祖となったと主張している。

目連の母異(?)媛の父は不明で「御太君祖」と記述され、里媛の兄弟が御太君なら御太君の妹で良いので、子の目連が「継體天皇御世為大連」、欽明紀「物部目連公為大臣」とあるように、大臣は大君、御太君その物で、目連の次の勾金橋宮大連は麁鹿火連とあるが、男大迹を推したのが麁鹿火大連なので、麁鹿火は武烈・継体・安閑で大連となり、目連と重なり、更に、宣化朝は甕栗宮目大連の子の荒山と麁鹿火の弟の押甲が共に大連と重複している。

これは、麁鹿火王朝と目王朝の並立を示し、目連の後を荒山が継承しているので、目大連の子の荒山は仁賢天皇億計の娘ではなく、物部氏の仁賢天皇木蓮子と里媛の娘で目連の兄弟の橘仲比賣を妃にしたと考えられ、荒山の子の尾輿も欽明天皇の大連、荒山の曽孫、尾輿の孫、御狩の子の目がまた欽明天皇の大連、木蓮子の子の目連の弟の呉足尼も欽明天皇の足尼で、欽明天皇は目連の弟にあたる王朝で、木蓮子の子の目連の義弟の荒山の子が継承した王朝だと『舊事本紀』は述べている。


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