2022年12月9日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁賢天皇類書2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「元年歳次戊辰春正月辛巳朔乙酉皇太子尊即天皇位都於石上廣髙宮及有天下都瀨引城二月辛亥朔壬子前妃春日大娘皇女立爲皇后大泊瀨天皇娶和珥臣除自之女童女君所生也遂生一男六女一曰高橋大娘皇女二曰朝嬬皇女三日斗日(?手白)香皇女繼體天皇后矣四日斗白(?樟氷)皇女五曰栺(?)皇女六曰小泊瀨稚鷦鷯尊七日真稚皇女次和珥臣日爪女糠君娘生春日山田皇女冬十月丁未朔己酉葬雄計天皇于傍岳磐杯丘陵七年春正月丁亥朔己酉立小泊瀨稚鷦鷯尊爲皇太子十一年秋八月庚戌朔丁巳天皇崩正寢冬十月已酉朔癸丑葬填口坂本陵天皇所生一男七女」、【元年戊辰の春一月辛巳朔乙酉に、皇太子尊は即位した。石上広高宮に都を造った。二月辛亥朔壬子、以前からの妃の春日大娘皇女を立てて皇后とした。春日大娘皇女は、大泊瀨天皇が和珥臣の深目の娘の童女君を娶って生んだ。皇后は、一男六女を生み、第一を高橋大娘皇女といい、第二を朝嬬皇女といい、第三を手白香皇女、継体天皇の皇后だ。第四を奇日皇女といい、第五を橘皇女といい、第六を小泊瀬稚鷦鷯といい、第七を真稚皇女という。次に、和珥臣日爪の娘の糖君娘は、春日山田皇女を生んだ。冬十月丁未朔己酉雄計天皇を傍丘磐坏陵に葬った。七年の春正月丁亥朔己酉、小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子とした。十一年秋八月庚戌朔丁巳、天皇は崩じた。冬十月已酉朔癸丑、埴生坂本陵に葬った。天皇が生んだ子は、一男七女。】と訳した。

市邊王の陵を狹狹城山君の領地の蚊屋野に造り、市邊王の母は羽田矢代宿祢の娘の黒媛で羽田矢代宿祢は八代の王、すなわち、野洲王と考えられ、野洲王は()倭直、 倭直は雄略紀に「狹狹城山君韓帒」、顕宗紀に「近江國狹狹城山君祖倭帒宿禰」とあるように、羽田矢代宿祢は淡海朝を受け継ぐ王で、その孫が『日本書紀』では市邊王を稚日本根子、飯豐皇女を稚足姫と考え、『古事記』は市邊王が大倭根子・天皇と億計が記述したと思われる。

実際の大倭根子・天皇は磐城皇子と思われ、弘計の妃の難波小野王が「雄朝津間稚子宿禰天皇曾孫磐城王孫丘稚子王之女也」とあるように、磐城王は泊瀬朝倉宮天皇で皇太子が真鳥、真鳥が伊波禮甕栗宮で即位したが、皇太子の鮪が殺害され、妃の角刺宮の稚足姫飯豐皇女の弟、若しくは甥の億計が皇太子になったと考えられる。

『日本書紀』は磐城を朝倉宮天皇の子と記述するが『古事記』は記述せず突然に石木王とのみ記述し、『古事記』を書いた億計にとって、磐城は本来正統な皇位継承者だったので都合が悪い人物だったから記述しなかったのであり、『日本書紀』は難波小野王が皇位継承者で、星川皇子から奪取し、『古事記』の志毘の説話が星川皇子の説話と考えられる。

真鳥が崩じると、最大勢力の平群氏が皇位継承に応じず、「定策禁中」と臣下の平群氏が平群氏の丘稚子の娘の難波小野王の夫の弘計を後継にしたとすると、「定策禁中」の意味が理解できる。

甕栗宮天皇の姓が『日本書紀』が武廣國押稚日本根子で、雄略紀から蘇我氏が書いているので、蘇我氏の姓武廣國押と葛城氏の稚日本根子の合体と考えられ、『古事記』は葛城氏が書いているので、平群氏の後継者なので大倭根子白髪、億計の娘が手白髪で袁本杼の妃、その子が天国押波流岐広庭と蘇我氏に皇位が継承されたと記述した。

七年春正月丁亥朔己酉立・・・皇太子」は『日本書紀』では「七年正月丁未朔己酉」で正月丁亥朔なら天文学的には513年にあたり、倭王武は「天監元年鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と502年まで生存し、王朝交代なら513年が正しく、葛子が磐井の長男の皇太子が死んだため交代したと考えられる。

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