2019年10月30日水曜日

最終兵器の目 神功皇后7

 日本書紀 慶長版は
三十九年是年也太歲己未(四十年四十三年)四十六年春三月乙亥朔遣斯摩宿祢于卓淳國於是卓淳王末錦旱岐告斯摩宿祢曰甲子年七月中百濟人久氐祢州流莫古三人到於我土曰百濟王聞東方有日本貴國而遣臣等令朝其貴國故求道路以至于斯土若能教臣等令通道路則我王必深德君王時謂久氐等曰本聞東有貴國然未曾有通不知其道唯海遠浪嶮則乗大舩僅可得通若雖有路津何以得達耶於是久氐等曰然即當今不得通也不若更還之備舩舶而後通矣仍曰若有貴國使人來必應告吾國如此乃還爰斯摩宿祢即以傔人爾波移與卓淳人過古二人遣于百濟國慰勞其王時百濟肖古王深之歡喜而厚遇焉仍以五色綵絹各一疋及角弓箭幷鐵鋌四十枚幣爾波移便復開寶藏以示諸珍異曰吾國多有是珍寶欲貢貴國不知道路有志無從然猶今付使者尋貢獻耳於是爾波移奉事而還告志摩宿祢便自卓淳還之也
【三十九年は太歳己未だ。(四十年・四十三年)、四十六年の春三月の乙亥の朔に、斯摩宿祢を卓淳國に派遣した。そこで、卓淳の王の末錦旱岐は、斯摩宿祢に「甲子の年の七月の中に、百濟人の久氐・彌州流・莫古の三人が、我が国に到って『百濟の王が、東方に日本の貴国が有と聞いて、臣等を派遣して、その貴国に参内させた。それで、貴国への通好方法を求めて、この国にやってきた。もし私達に方法を教えて、通好出来れば、わが王はきっと深く君王の徳を高められる』といった。その時に久氐達に『元々東方に貴国が有ることを聞いていた。しかし、まだ通好できていないので、その方法を知らない。ただ海路は遠く浪は険しい。それで大船に乗っても、ほんの一握りが通好できただけだった。もし海路が有っても、どの様にしたら通好出来るのか』といった。そこで、久氐達が『それなら、すぐに通好はできない。しかし、もう一度帰って船舶を整えて、その後で通好しろ』といった。また『もし貴国の使人、来ることが有ったら、きっとわが国に連絡してほしい』といった。こうして帰った」と末錦旱岐が言った。ここで斯摩の宿祢は、使者の召使の爾波移と卓淳人の過古と二人を、百濟国に派遣して、その王を慰労した。その時に百濟の肖古王が、とても喜んで、厚遇した。それで五色の鮮やかな絹それぞれ一匹、および角弓箭とあわせて鉄の板四十枚を、爾波移に与えた。また宝の蔵を開いて、諸々の珍しいものを見せて、「私の国には多くのこのような珍宝が有る。貴国に献上しようと思うが、方法が解らない。献上しようと思ってもできない。しかし今、使者と一緒に、尋ねて貢獻しよう」と言った。そこで、爾波移は、その事をうけて帰り、志摩の宿祢に告げた。それで卓淳から帰った。】とあり、四十六年三月乙亥は2月30日で2月が小の月なら標準陰暦と合致する。
ここの記述しなかったところは魏志が景初三年正始元年四年の記事を記述したところで三十九年、四十年、四十三年をこの文書を記述した時に239年、240年、243年と見做した雄略天皇は言っていて、雄略天皇の時代の年代認識の正しさを示している。
正しい年代観を持ちながら、ズレて記述しているのであり、中国史書も『百濟記』も読んではいるが、『三国志』は理解できても『百濟記』の年代観は理解できず、「貴国」や「久氐」は雄略天皇と縁が無い畿内政権の説話を神功紀や応神紀の王と見做してそのまま記述し、卑弥呼の魏との説話は卑弥呼を神功皇后にあて、倭の5王を記述した史書は入手していないから記述されていない。
そして、『三国志』倭人伝をそのまま鵜呑みにせず、景初二年記事を「景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡・・・其年十二月詔書報倭女王曰・・・今以汝爲親魏倭王假金印紫綬」と1年変更し、巻4の「齊王・・・四年・・・冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」は神功皇后摂政四三年の正始四年に入れ込んでいる。
この微妙な違いは『三国志』とは異なる資料、すなわち、卑弥呼の資料が残り、卑弥呼の統治39年・40年・43年だった証拠なのである。
また、倭と百済は200年前後の肖古王の頃も350年前後の近肖古王の頃も通好しておらず、『三国史記』の阿莘王六年397年の「夏五月王與倭國結好以太子腆支爲質」が初出でしかも太子を人質にして友好的とは言えず、『宋書』に425年記事に「太祖元嘉二年・・・自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」とそれを裏付け、この記事は倭国ではない、日本との通好開始記事で4世紀後半の近肖古王の時代に日本で新しい朝廷が出現して通好を始めたことを意味している。
『後漢書』三韓に「皆古之辰國也馬韓最大共立其種為辰王」と三韓は辰国の領地で「辰韓耆老自言秦之亡人避苦役适韓國馬韓割東界地與之其名國為邦弓為弧賊為寇行酒為行觞相呼為徒有似秦語」と辰を秦に書き換えているが、秦なら、秦語は中国語で中国を秦と書き換えていることになってしまい、全く意味が通らない。
すなわち、「秦之亡人」は「辰之亡人」、「秦語」は「辰語」で「諸國邑各以一人主祭天神號為天君又立苏涂建大木以縣铃鼓事鬼神」と天神を祀って、その指導者を天君とよび、そこに住む人々は『三国志』に「弁辰亦十二國・・・弁辰狗邪國・・・其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王・・・今辰韓人皆褊頭男女近倭亦文身便步戰」と倭人に近く、辰人は自ら王とならないで馬韓人に治めさせている。
その馬韓である百済が弁辰の1国の卓淳国も治めていて、卓淳国も新たな日本国の王朝と通好しようと来日し、百済も新王朝と通好したいと求め、それを記述したのは葛城氏であり、新しい王朝は葛城王朝で、百済はそれ以前から日本に貴国という国が前からあり、関係があった、すなわち、貴国が辰国である。

2019年10月28日月曜日

最終兵器の目 神功皇后6

  『日本書紀』慶長版は
三年春正月丙戌朔戊子立譽田別皇子爲皇太子因以都於磐余五年春三月癸卯朔己酉新羅王遣汙禮斯伐毛麻利叱智富羅母智等朝貢仍有返先質微叱許智伐旱之情是以誂許智伐旱而紿之曰使者汙禮斯伐毛麻利叱智等告臣曰我王以坐臣久不還而悉設妻子爲孥冀蹔還本土知虛實而請焉皇太后則聽之因以副葛城襲津彥而遣之共到對馬宿于鉏海水門時新羅使者毛麻利叱智等竊分舩及水手載微叱旱岐令逃於新羅乃造蒭靈置微叱智之床詳爲病者告襲津彥曰微叱智忽病之將死襲津彥使人令看病即知欺而捉新羅使者三人納檻中以火焚而殺乃詣新羅次于蹈鞴津拔草羅城還之是時俘人等今桑原佐糜髙宮忍海凢四邑漢人等之始祖也十三年春二月丁巳朔甲子命武內宿祢從太子令拜角鹿笥飯大神癸酉太子至自角鹿是日皇太后宴太子於大殿皇太后舉觴以壽于太子因以歌曰虛能弥企破和餓弥企那羅儒區之能伽彌等虛豫珥伊麻輸伊破多多湏周玖那彌伽未能等豫保枳保枳茂苫陪之訶武保枳保枳玖流保之摩菟利虛辭弥企層阿佐孺塢齊佐佐武內宿祢爲太子荅歌之曰許能弥企塢伽弥鶏武比等破曾能菟豆弥于輸珥多氐氐于多比菟菟伽弥鶏梅伽墓許能弥企能阿椰珥于多娜濃芝作沙
三年の春正月の朔が丙戌の戊子の日に、譽田別の皇子を皇太子に立てた。それで磐余に都を造った。五年の春三月の朔が癸卯の己酉の日に、新羅の王が、汗禮斯伐と毛麻利叱智と富羅母智達を派遣して朝貢した。それで先に人質にした微叱許智伐旱を取り戻そうとした。それで、許智伐旱にあつらえて、「使者の汗禮斯伐と毛麻利叱智達が、私に『我が王は、私がながらく帰らないので、全ての妻子をしもべにした』といった。出来ましたらしばらく本土に帰って、嘘か本当かを知らべさせてほしい」と欺いて願った。皇太后は、それを許した。それで、葛城襲津彦を一緒に派遣した。みな、對馬に着いて、鋤の海の水門に宿をとった。その時、新羅の使者の毛麻利叱智達が、密かに船と水手を配して、微叱旱岐を乗せて、新羅に逃れ、馬草で人形を造って、微叱許智の床に置いて、偽って病人のようにして、襲津彦に「微叱許智が、急病で死にそうだ。」と告げた。襲津彦は、人を派遣して病人を看させた。それで欺かれたことを知って、新羅の使者三人を捕えて、檻の中に閉じ込めて、焚き殺した。それで新羅に行って、蹈鞴の津にとどまって、草羅の城を討伐して帰還した。この時の捕虜達は、今の桑原・佐糜・高宮・忍海、すべてで四つの邑の漢人等の始祖だ。十三年の春二月の朔が丁巳の甲子の日に、武内の宿禰に命じて、太子について角鹿の笥飯の大神を拝み祀らせた。癸酉の日に、太子が、角鹿から帰った。この日に、皇太后は、太子を大殿に招いて饗宴した。皇太后は、盞を手向けて太子を祝った。それで歌って() 武内宿禰が、太子の為に答歌して()】とあり、五年三月癸卯朔は2月30日、十三年二月丁巳朔も1月30日で前月が小の月なら合致する。
この説話は『三国史記』の實聖尼師今に「元年三月與倭國通好以奈勿王子未斯欣爲質」とある402年の人質の続編で、同じく418年、訥祇麻立干に「二年・・・與堤上奈麻還來秋王弟未斯欣自倭國逃還」の記事と対応し、『三国史記』の朴堤上にも「堤上仕爲歃良州干先是實聖王元年壬寅與倭國講和倭王請以奈勿王之子未斯欣爲質」と同じことを記述し、「訥祗王卽位・・・前日行舟勞困不得夙興及出知未斯欣之逃遂縛堤上行舡追之適煙霧晦冥望不及焉歸堤上於王所則流於木島未幾使人以薪火燒爛支體然後斬之」と仮病を使って逃し、残った者を焼き殺したと記述され対応する。
すなわち、倭王賛の時代の倭国記事で賛の事績を神功皇后の事績に付け替え、この年がある天皇の3年だった、すなわち、この天皇の元年は416年で、416年允恭天皇五年に「葬瑞齒別天皇于耳原陵」と瑞齒別を葬っていて、この天皇が葛城襲津彦だった可能性が高い。
また、この戦いで得た捕虜が漢人と言っているが、応神天皇七年「高麗人百濟人任那人新羅人並來朝時命武内宿禰領諸韓人等作池因以名池號韓人池」、雄略天皇十四年「即安置呉人於桧隈野・・・天皇欲設呉人・・・遂於石上高拔原饗呉人」、欽明天皇元年「高麗百濟新羅任那並遣使獻並修貢職』召集秦人漢人等諸蕃投化者」、敏達天皇十三年「其一漢人夜菩之女豐女名曰禪藏尼」、崇峻天皇三年「新羅媛善妙百濟媛妙光又漢人善聰」と新羅人と漢人と混同させていない。
そして、『宋書』に「自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」と倭が新羅も百済も自分の領地と主張しており、倭の混乱に乗じて、葛城襲津彦が倭地にいる漢人を奪った可能性が高く、倭王を私は「倭漢直祖阿知使主」と述べ、中国の冊封体制に組み入れられているので、倭の漢王と呼んだことから、倭国には漢人が多く存在した可能性が高い。
この太子も神功皇后が畿内を南国と言い、新羅征伐の出発地であった記述を踏襲した記述で、歌は略したが、常世に去った少彦名を祝った豊国の歌で、太子が武内の宿禰なのだろう。

2019年10月25日金曜日

最終兵器の目 神功皇后5

 『日本書紀』慶長版は
三月丙申朔庚子命武內宿祢和珥臣祖武振熊卒數萬衆令擊忍熊王爰武內宿祢等選精兵從山背出之至菟道以屯河北忍熊王出營欲戰時有熊之凝者爲忍熊王軍之先鋒則欲勸己衆因以髙唱之歌曰烏智箇多能阿邏乙麻菟麼邏摩菟麼邏珥和多利喩祇氐菟區喩弥珥末利椰塢多具陪宇摩比等破于摩譬苫奴知野伊徒姑播茂伊徒姑奴池伊裝阿波那和例波多摩岐波屢于池能阿層餓波邏濃知波異佐誤阿例椰伊裝阿波那和例波時武內宿祢令三軍悉令椎結因以号令曰各儲弦藏于髮中且佩木刀既而舉皇后之命誘忍熊王曰吾勿貧天下唯懷幼王從君王者也豈有距戰耶願共絶弦捨兵與連和焉然則君王登天業以安席髙枕專制萬機則顯令軍中悉斷弦解刀投於河水忍熊王信其誘言悉令軍衆解兵投河水而断弦爰武內宿祢令三軍出儲弦更張以佩真刀度河進之忍熊王知被欺謂倉見別五十狹茅宿祢曰吾既被欺今無儲兵豈可得戰乎曳兵稍退武內宿祢出精兵而追之適遇于逢坂以破故号其處曰逢坂也軍衆走之及于狹狹浪栗林而多斬於是血流溢栗林故惡是事至于今其栗林之菓不進御所也忍熊王逃無所入則喚五十狹茅宿祢而歌之曰伊裝阿藝伊佐智湏區祢多摩枳波屢于知能阿曾餓勾夫菟智能伊多氐於破孺破珥倍廼利能介豆岐齊奈則共沈瀬田濟而死之于時武內宿祢歌之曰阿布弥能彌齊多能和多利珥伽豆區苫利梅珥志彌曳泥麼異枳廼倍呂之茂於是探其屍而不得也然後數日之出於菟道阿武內宿祢亦歌曰阿布瀰能瀰齊多能和多利珥介豆區苫利多那伽瀰湏疑氐于泥珥等邏倍菟冬十月癸亥朔甲子群臣尊皇后曰皇太后是年也太歲辛巳則爲攝政元年二年冬十一月丁亥朔甲午葬天皇於河內國長野陵
【三月の朔が丙申の庚子の日に、武内の宿禰と和珥臣の祖の武の振熊に命じて数万の軍隊を率いて、忍熊の王を撃たせた。ここで武内の宿禰等は、精兵を選んで山背から出発した。菟道に着いて河の北に駐屯した。忍熊の王は、陣営を出て戦おうとした。その時に熊之凝という者がいた。対忍熊の王の軍の先鋒となった。熊之凝は、葛野城の首の祖だ。それで自軍を進軍させようと、高らかに唱えて歌い()その時に武内の宿禰の、三軍の命令で全軍が髷を上げた。それで号令して「みんな予備の弓弦を髮の中に隠し、また木刀を佩腰にさせ」といった。それで、皇后の命令を引用して、忍熊の王を誘って、「私たちは天下をむさぼらない。ただ幼い王を抱いて、君主に従うだけだ。どうして反逆して戦おうか。出来たら共に弦を切って武器を捨てて、ともに一つになろう。それで、君主は天業に就いて、皇位に就いて安らかに枕を高くして天皇の政務に専心してもらおう」といった。それでよく見えるように軍中に命じて、全員、弦を切り、刀を解いて、河の中に投げ入れた。忍熊の王は、その誘の言葉を真に受けて、全軍に命じて、兵器を解いて河の中に投いれて、弦を切らせた。ここで武内の宿禰は、三軍に命じて、予備の弦を出して、張り、真剣を腰に差して。河を渡って進んだ。忍熊の王は、騙されたことを知って、倉見別と五十狹茅の宿禰に「私は騙された。いま予備の武器は無い。どうやって戦おう」といって、兵士を退かせた。武内の宿禰は精兵を出撃させて追った。丁度、逢坂で追いついて撃破した。それで、そこを逢坂と名付けた。軍衆は逃げ、狹狹浪の栗林で多数を斬った。そこで、血が流れて栗林に溢れた。それでこの事を嫌がって、今になるまで、その栗林の菓実を御所に出さない。忍熊の王は、逃るところが無く、それで五十狹茅の宿禰を喚んで、歌い()それで一緒に瀬田の渡し場で身投げた。その時、武内の宿禰は、歌って()ここで、その死体を探したが見つからず数日後、菟道の河に浮かんだ。武内宿禰は、また歌って()死体を菟道で引き上げた。冬十月の朔が癸亥の甲子の日に、役人は、皇后を尊んで皇太后と言った。この年は太歳は辛巳だった。それで攝政元年とした。二年の冬十一月の朔が丁亥の甲午の日に、天皇を河内の国の長野の陵に葬った。】とあり、標準陰暦と合致する。
和珥臣は孝昭天皇六八年「天足彦國押人命此和珥臣等始祖也」、開化天皇六年「次妃和珥臣達祖姥津命之妹姥津媛生彦坐王」、 崇神天皇十年 「復遣大彦與和珥臣遠祖彦國葺向山背撃埴安彦」、垂仁天皇二五年「詔阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彦國葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日五大夫」、神功皇后摂政元年「和珥臣祖武振熊率數萬衆令撃忍熊王」、応神天皇二年「妃和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子」、仁徳天皇六五年「飛騨國・・・遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之」、雄略天皇元年「次有春日和珥臣深目女曰童女君生春日大娘皇女」、仁賢天皇元年「春日大娘皇女大泊瀬天皇娶和珥臣深目之女童女君所生也」、「次和珥臣日爪女糠君娘生一女是爲春日山田皇女(一本云和珥臣日觸女大糠娘生一女是爲山田大娘皇女更名赤見皇女文雖稍異其實一也)」、安閑天皇元年「春日山田皇女爲皇后」、欽明天皇二年「次春日日抓臣女曰糠子生春日山田皇女與橘麻呂皇子」と記述されている。
すなわち、武内宿禰と和珥臣の説話は武内宿禰や大彦が神武天皇で忍熊王や長髄彦が埴安彦で武振熊や弟磯城が彦國葺を想定した説話で、彦國葺・姥津命には姓が無く、東鯷国の王家の一人と考えられ、さらに、日觸使主・武振熊と姓を持った臣下として記述されるが、これは葛城王朝にとっての臣下で、この説話は尾張朝廷の内紛と考えられ、死んだ天皇の陵墓が河内にあり、難波に朝廷が有って、その内紛に葛城王朝が神功皇后実際は弟媛について大中姫の皇太子側と戦ったことを裏付けている。
その結果、武振熊は難波根子と皇后弟媛の朝廷の中の役職で呼ぶが、「都難波是謂髙津宮」と難波が都で弟媛の子が首都の王で天皇、応神天皇の皇太子菟道稚郎子の母の家系で、和珥臣の賜姓記事が無く雄略紀から記述されているので、葛城王朝の時に賜姓されているようで、それ以前の天皇家の王族ということが解り、平群氏の雄略天皇、巨勢氏の仁賢天皇、物部氏の安閑天皇には正統な皇族の和珥臣の血統が必要だったようだ。

2019年10月23日水曜日

最終兵器の目 神功皇后4

 『日本書紀』慶長版は
十二月戊戌朔辛亥生譽田天皇於筑紫故時人号其産處曰宇瀰也於是從軍神表筒男中筒男底筒男三神誨皇后曰我荒魂令祭於穴門山田邑也時穴門直之祖踐立津守連之祖田裳見宿祢啓于皇后曰神欲居之地必冝奉定則以踐立爲祭荒魂之主仍祠立於穴門山田邑爰伐新羅之明
年春二月皇后領群卿及百寮移于穴門豊浦宮即收天皇之喪從海路以向京時麛坂王忍熊王聞天皇崩亦皇后西征幷皇子新生而密謀之曰今皇后有子群臣皆從焉必共議之立幼主吾等何以兄從弟乎乃詳爲天皇作陵詣播磨興山陵於赤石仍編舩絙于淡路嶋運其嶋石而造之則毎人令取兵而待皇后於是犬上君祖倉見別與吉師祖五十狹茅宿祢共隸于麛坂王因以爲將軍令興東國兵時麛坂王忍熊王共出菟餓野而祈狩之曰若有成事必獲良獸也二王各居假庪赤猪忽出之登假庪咋麛坂王而殺焉軍士悉慄也忍熊王謂倉見別曰是事大恠也於此不可待敵則引軍更返屯於住吉時皇后聞忍熊王起師以待之命武內宿祢懷皇子横出南海泊于紀伊水門皇后之舩直指難波于時皇后之舩𢌞於海中以不能進更還務古水門而卜之於是天照大神誨之曰我之荒魂不可近皇后當居御心廣田國即以山背根子之女葉山媛令祭亦稚日女尊誨之曰吾欲居活田長峽國因以海上五十狹茅令祭亦事代主尊誨之曰祠吾于御心長田國則以葉山媛之弟長媛令祭亦表筒男中筒男底筒男三神誨之曰吾和魂宜居大津渟中倉之長岟便因看往來舩於是隨神教以鎮坐焉則平得度海忍熊王復引軍退到菟道而軍之皇后南詣紀伊國會太子於日髙以議及群臣遂欲攻忍熊王更遷小竹宮適是時也晝暗如夜巳經多日時人曰常夜行之也皇后問紀直祖豊耳曰是恠何由矣時有一老父曰傳聞如是恠謂阿豆那比之罪也問何謂也對曰二社祝者共合葬歟因以令推問巷里有一人曰小竹祝與天野祝共爲善友小竹祝逢病而死之天野祝血泣曰吾也生爲交友何死之無同穴乎則伏屍側而自死仍合葬焉蓋是之乎乃開墓視之實也故更改棺櫬各異處以埋之則日暉炳爃日夜有別
【十二月の朔が戊戌の辛亥の日に、譽田天皇が筑紫で生れた。それで、その当時の人は、その産所を宇瀰と名付けた。そこで、軍と共に出陣した神の表筒男と中筒男と底筒男の三柱の神が、皇后に「私の荒々しい霊魂を、穴門の山田邑で祭りなさい」と教え諭した。その時に穴門の直の祖の踐立と津守の連の祖の田裳見の宿禰が、皇后に「神の居たいと思う地に必ず決め無ければならない」と進言した。それで踐立に、あらあらしい霊魂を祭る神主とした。それで穴門の山田邑に社を立てた。新羅を伐った翌年の春二月に、皇后は、群卿や役人をひきいて、穴門の豊浦の宮に移った。それで天皇の遺体を船に乗せて、海路で京に向かった。その時に麛坂の王と忍熊の王が、天皇の訃報と、皇后が西方を征ち、さらに皇子が新に生れたと聞いて、密に謀って、「いま皇后には、子がいる。役人は皆、皇后に従っている。きっと共謀して幼い皇子を立てるだろう。私たちはどうして兄なのに弟に従わなければならないのか」と言った。それで天皇のために陵を造るように偽って、播磨にやって来て山陵を赤石に造った。それで船の大綱を編んで淡路嶋から石を運んで造った。それで、人それぞれに武器を持たせて、皇后を待った。そこで、犬上君の祖の倉見別と吉師の祖の五十狹茅の宿禰が、共に麛坂の王についた。それで、將軍として東国の軍をつくった。その時に麛坂の王と忍熊の王は、一緒に菟餓野に出て、狩りの獲物で占って、「もし事が成就するなら、必ず立派な獣が獲れる」といった。二人の王はそれぞれ桟敷にいた。赤い猪が急に桟敷に上って、麛坂の王を喰い殺した。兵がみんな怯えた。忍熊の王は、倉見別に「これは不吉だ。ここで敵を待ち伏せするのはやめよう」といった。それで軍を引き返して、住吉に軍を集めた。その時に皇后が、忍熊の王が挙兵して待ち伏せしていると聞いて、武内の宿禰に命じて、皇子を抱いて、それて南の海から出て、紀伊の水門に停泊した。皇后の船は、真っすぐ難波に向かった。その時に、皇后の船は、海の中ほどを廻って、進めなかった。それで務古の水門に還って占った。そこで天照の大神が、「私の荒々しい霊魂を皇后のいる場所に近づけてはいけない。戦う心は廣田の国に置いておきなさい」と教えた。それで山背の根子の娘の葉山媛に祀らせた。また稚日女の尊が、「わたしは活田の長峽の国にいる」と教えた。それで海上の五十狹茅に祀らせた。また事代主の尊が、「私の霊魂を長田の国で祀れ」と教えた。それで葉山媛の妹の長媛に祀らせた。また表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神は、「私の穏やかな霊魂を大津の渟中倉の長峽に起きなさい。それで行き交う船を守ろう」と教えた。それで、神の教えのとおりに鎮まり留まるよう祀った。すなわち平穏に海を渡れた。忍熊の王は、また軍を撤退し、菟道に着いた。皇后は、南方の紀伊の国に着いて、太子と日高で会った。役人と話し合って、ついに忍熊の王を攻めようと、さらに小竹の宮にに遷った。この時、昼が夜のように暗くて、数日過ぎ去った。当時の人は、「ずっと夜が続く」と言った。皇后は、紀の直の祖の豊耳に「この怪しさはどういう理由だ」と聞いた。その時に一人の老父が「人づてに聞いたのだが、このような怪しさは、阿豆那比の罪という」と言い、「どういうことだ」と聞いた。「二柱の社を祈る者は、一緒に合葬すると祈りが届かない」と答えた。それで、街中で聞いてみたら、一人が「小竹の祝と天野の祝とは、共に善い友だ。小竹の祝は病気で死んだ。天野の祝は、ひどく泣き悲しんで『私は生きていた時は友情を交わした。死んでも同じように友でいたい』といって、それで屍の横に伏せて自ら死んだ。それで合葬した。きっとこのことだ」と言った。それで墓を開いてみたら本当だった。それで、新しい棺で別々に埋めた。それで日が輝いて照り、昼と夜が別れた。】とあり、十二月戊戌朔は11月30日で、小の月なら標準陰暦と合致する。
表筒男・中筒男・底筒男の三神は「日向國橘小門之水底所底而水葉稚之出居神」と日向国の神で荒魂の神、そして、『古事記』では新羅に向かう前だから香椎宮に、さらに、『舊事本紀』に「住吉三所前神」、『古事記』に「墨江大神之荒御魂爲國守神」と現れる場所が移り、神武東征をなぞっている。
そして、戦乱の神で皇居に居ると戦乱が絶えないから、反乱が起きそうな場所に祀って、そこの女王を置いたのであり、大津の巫女は神功皇后で伊勢皇大神宮が有り、息長氏は継体天皇前紀「譽田天皇五世孫・・・自近江國高嶋郡三尾之別業遣使聘于三國坂中井」と近江の王家だ。
『古事記』も「香坂王忍熊王聞而思將待取進出於斗賀野」、「難波根子建振熊命爲將軍故追退到山代之時還立各不退相戰」、「其浦謂血浦今謂都奴賀也」と斗賀野や山代との関係と葛城氏の内容が反映されたようだが、何故か都奴賀の命名が出発時ではなく、実際はこの戦いでこの地域を領有したのだろうか。
『舊事本紀』には「和魂齋皇后舩師領舩軍従和珥津解纜進發幸新羅國」と和珥津から出発し、難波根子建振熊は和珥臣の祖で難波王に近い存在だったようで、表筒男・中筒男・底筒男を祀ったのは住吉で大阪にある。
すなわち、神功皇后の説話には、卑弥呼・台与・稚日女尊・葉山媛・長媛の説話が混ざり、麛坂王を暗殺したのは山背根子と葉山媛で、穴門に宮を持つ中足彦の子の武内の宿禰大臣が母「紀直遠祖菟道彦之女影媛」の力で大和に進出しようとしたと考えられ、この戦いで葛城氏が畿内でも有力者に躍り出たようだ。

2019年10月21日月曜日

最終兵器の目 神功皇后3

  この項は新羅征伐で長いので検証を先に記述し、原文と解釈文は後に回した。
この説話で祀る神が大三輪神で奉納する物は刀と矛で、畿内政権の祀りで九州の王なら『三国志』に「兵用矛楯木弓」と記述するように矛で刀は奉納しないと考えられ、そして、物見をさせても、西北に国があると言って、九州なら北のはずで、西北と言えるのは山口県より東である。
ここで、注目するのは、信仰で、私たちが感じる荒々しい大和魂は実のところ荒魂だったということで、和魂を、『日本書紀』で理解していれば悲惨な戦争が回避できたのではと考えてしまう。
そして、神のお告げと言っているが、風や潮の流れなど季節の利を考えて決行の時期を考え、軍事演習を行うという、ち密な計画を立てて進撃し、偶然津波が有ったようで、新羅は戦える状態になかったようで、自然にも助けられて大勝利し、高麗・百済も畿内政権に朝貢したようだ。
『三国史記』の高句麗には太祖大王に「遂成獵於倭山」と記述されるだけ、後に「広開土王」碑に倭が出現し、百済には400年頃の阿莘王の記述から出現し、広開土王と同時期、倭の五王と同時期で、やはりこの説話は倭と異なる日本との戦いで、『後漢書』から三韓が記述されることに合致し、倭と新羅との戦いは、紀元前から500年頃まで継続する。
しかし、漢が考える三韓と日本が考える三韓は違う存在で、漢の領土は『後漢書』光武帝紀に「冬十月丙申太僕張純為大司空高句麗率種人詣樂浪內屬」と考える郡の一部は漢に服さない高句麗で、漢が考える弁辰は新羅にとっては伽耶でありその南に倭と漢が考える拘邪韓國で日本は任那と言っていて、波沙寐錦の時代は西暦80年から111年で地震が83年に有り、83年は景行13年に当っていて、以前は神国と呼ばれ今は日本と呼ばれている。
なお、微叱己知波珍干岐については、波沙寐錦と時代が異なり、後述する。
『日本書紀』の一書に「天日槍娶但馬出嶋人太耳女麻多烏生但馬諸助也諸助生但馬日楢杵日楢杵生清彦清彦生田道間守也」とあり、日槍の4代後が田道間守で垂仁末年なのだから、日槍から1代20年として80年とすると垂仁3年の日槍来日は整合性があり、日槍がこの時の人質の可能性があり、この垂仁3年に挿入した王は実際は西暦84年に該当する可能性がある。
なお、『三国史記』の日干支「赫居世・・・四年夏四月辛丑朔日有食之・・・五十六年春正月辛丑朔日有食之・・・南解次次雄・・・三年・・・冬十月丙辰朔日有食之・・・祇摩尼師今・・・六年秋七月甲戌朔日有食之」 も標準陰暦と合致する。
『日本書紀』慶長版は
秋九月庚午朔己卯令諸國集舩舶練兵甲時軍卒難集皇后曰必神心焉則立大三輪社以奉刀矛矣軍衆自聚於是使吾瓮海人烏摩呂出於西海令察有國耶還曰國不見也又遣磯鹿海人名草而令視數日還之曰西北有山帶雲横絙蓋有國乎爰卜吉日而臨發有日時皇后親執斧鉞令三軍曰
金鼓無節旌旗錯亂則士卒不整貪財多欲懷私內顧必爲敵所虜其敵少而勿輕敵強而無屈則姧暴勿聽自服勿殺遂戰勝者必有賞背走者自有罪既而神有誨曰和魂服王身而守壽命荒魂爲先鋒而導師舩(和魂此云珥岐弭多摩荒魂此云阿邏瀰多摩)即得神教而拜禮之因以依網吾彥男垂見爲祭神主于時也適當皇后之開胎皇后則取石挿腰而祈之曰事竟還日産於茲土其石今在于伊都縣道邊既而則撝荒魂爲軍先鋒請和魂爲王舩鎮 冬十月己亥朔辛丑從和珥津發之時飛廉起風陽侯舉浪海中大魚悉浮扶舩則大風順吹帆舶隨波不勞㯭楫便到新羅時隨舩潮浪遠逮國中即知天神地祇悉助歟新羅王於是戰戰慄慄厝身無所則集諸人曰新羅之建國以來未嘗聞海水凌國若天運盡之國爲海乎是言未訖間舩師滿海旌旗耀日鼓吹起聲山川悉振新羅王遙望以爲非常之兵將滅己國讋焉失志乃今醒之曰吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇必其國之神兵也豈可舉兵以距乎即素旆而自服素組以面縛封圖籍降於王舩之前因以叩頭之曰從今以後長與乾坤伏爲飼部其不乾舩柂而春秋獻馬梳及馬鞭復不煩海遠以毎年貢男女之調則重誓之曰非東日更出西旦除阿利那禮河返以之逆流及河石昇爲星辰而殊闕春秋之朝忍廢梳鞭之貢天神地祇共討焉時或曰欲誅新羅王於是皇后曰初承神教將授金銀之國又号令三軍曰勿殺自服今既獲財國亦人自降服殺之不祥乃解其縛爲飼部遂入其國中封重寶府庫收圖籍文書即以皇后所杖矛樹於新羅王門爲後葉之印故其矛今猶樹于新羅王之門也爰新羅王波沙寐錦即以微叱己知波珍干岐爲質仍齎金銀彩色及綾羅縑絹載于八十艘舩令從官軍是以新羅王常以八十舩之調貢于日本國其是之縁也於是髙麗百濟二國王聞新羅收圖籍降於日本國密令伺其軍勢則知不可勝自來于營外叩頭而款曰從今以後永稱西蕃不絶朝貢故因以定內官家是所謂之三韓也皇后從新羅還之
秋九月の朔の庚午の己卯の日に、諸國に命じて、船舶を集めて兵を隊伍を組んで行進させようとした。その時、兵士が集まることが出来ず、皇后は「きっと神の考えなのだろう」と言って、それで大三輪の社を立てて、刀や矛を奉納した。軍兵が自然に集まった。そこで、吾瓮の海人烏摩呂を西の海に行かせて、国が有るか調べさせた。還って「国も何も見えない」と報告した。また磯鹿の海人で、草という者を派遣して調べさせた。数日後帰って「西北方向に山がある。雲が横に張った綱のようにかかっている。国が有るのだろう」と言った。そこで吉日を占うと、出発までにまだ日が有った。それで皇后は、みづから斧と鉞を持って、三軍に「鐘・太鼓で指示せず、軍旗が入り乱れると、軍が整わない。財を貪って欲張って、私腹を肥やそうとすれば、きっと敵の捕虜となるだろう。敵が少ないと侮るな、強敵でも屈するな。則ち邪に暴れる者は許すな、自ら服従する者は殺すな。それで戦いに勝ったら褒美が有る。逃げたら罰するぞ」と命じた。すでに神の教えで「争いをなくそうとすれば王の寿命を全うできる。気持ちが荒ければ率先して軍艦を出撃させる」と言い、神の教えを得て、拝んだ。それで依網の吾彦男垂見を神主にして祀った。その時に、たまたま皇后の出産の時期にあたった。皇后は、それで石を取って腰に挟んで、「事がすんで帰ったら、この土地で生まれよ」と祈った。その石は、今、伊覩縣の道の辺に在る。それで荒魂で指図して、軍の先鋒となり、和魂で願って、王船のはやる気持ちを落ち着かせた。冬十月の朔が己亥の辛丑の日に、和珥の津を出発した。時には風を読神は風を起こし、陽の神は浪を高くして、海中の神は全ての大魚を浮かばせて船の進行を扶けた。それで大風が追い風として吹き、帆舟は波に乗り、艪や舵を使わず、新羅についた。船は潮や浪に任せて遠く国中に及んだ。天神地祇がいつでも助けてくれたことを知った。新羅の王は、ふるえおののいて身の置き場が無かった。それで皆が集まって「新羅の国を建国してからこれまで、いまもむかしも海水が国を凌ぐということを聞いたことが無い。たぶん天運が尽きて、国が海となろうとするのか」と言った。この言葉が伝わらないうちに、軍艦が海に満ちて、軍旗が日を反射して輝いた。鼓の音や笛を吹く声が聞こえてきて、山や川にもすべてに響き渡る。新羅の王は、空遠くを望み見て、尋常でない兵で、我が国を滅ぼそうとしていると思い、怯えて失念した。それで正気に戻って「私は聞いていて、東方に神国が有ると。日本という。そこに聖王がいて天皇というと。きっとその国の神国の兵だ。どうして挙兵して防衛できるのだろうか」と言って、それで白旗掲げて王自ら屈服した。後ろ手で首を差し出した。戸籍を絡げて、王船の前に降伏した。それで、土下座して、「今から後、長く天地と共に、飼部となって従い、船の柁が乾くことなく、春秋に馬の毛をすく櫛と鞭を献上します。また海を隔てて遠いのを厭わず、毎年男女の労働者を貢ぎます」と言った。それで重ねて誓って、「東から日が昇らずに西から日が登り、また阿利那禮の河が逆流し、河の石が昇って星となることを除いて、毎年朝廷をしのぶ礼を欠き、怠って梳と鞭を貢ぐことを止めたら、天神地祇全てが一緒になって討ってください」と言った。その時或者が「新羅の王を誅殺しよう」と言った。そこで、皇后は、「最初、神の教えを聞いて、金銀の国を授けようとした。また三軍に号令して言ったのは、『みずから服する者を殺すな』だ。今すでに財の国を獲た。また人は自から降服した。殺すのは不吉だ」と言って、その縛を解いて飼部とした。ついにその国の中に入って、宝の庫を閉じて、書籍や文書を徴収した。皇后が杖のようについた矛を、新羅の王の門にたてて、後代への印とした。それで、その矛は、今も新羅の王の門にたっている。それで新羅の王の波沙寐錦、すなわち微叱己知波珍干岐を人質にして、それで金・銀・財宝、及びあやぎぬ・うすもの・かとりぎぬを持ってきて、八十艘の船に載せて、船隊とともに出港した。それで、新羅の王は、いつも八十艘の船のみつぎを日本国に献上するのは、この縁だ。それで、高麗・百濟、二国の王は、新羅の、戸籍を收めて日本国に降伏したと聞いて、密かにその軍勢を調べさせた。それで勝つことが出来ないと知って、自ら軍営の外にやって来て、土下座して「今から後は、ずっと西の領国と唱えて朝貢を絶やしません」と言った。それで、内の官家の屯倉を定めた。これが所謂、三韓だ。皇后は、新羅から帰った。】とあり、十月己亥朔は9月30日、大小の月の問題で、ほかは標準陰暦と合致する。

2019年10月18日金曜日

最終兵器の目 神功皇后2

 『日本書紀』慶長版は
夏四月壬寅朔甲辰北到火前國松浦縣而進食於玉嶋里小河之側於是皇后勾針爲鈎取粒爲餌抽取裳系爲緡登河中石上而投鈎祈之曰朕西欲求財國若有成事者河魚飲鈎因以舉竿乃獲細鱗魚時皇后曰希見物也故時人号其處曰梅豆羅國今謂松浦訛焉是以其國女人毎當四月上旬以鈎投河中捕年魚於今不絶唯男夫雖鈎以不能獲魚既而皇后則識神教有驗更祭祀神祗躬欲西征爰定神田而佃之時引儺河水欲潤神田掘溝及于迹驚罔大磐塞之不得穿溝皇后召武內宿祢捧剱鏡令禱祈神祗而求通溝則當時雷電霹靂蹴裂其磐令通水故時人号其溝曰裂田溝也
皇后還詣橿日浦解髮臨海曰吾被神祗之教頼皇祖之靈浮渉滄海躬欲西征是以令頭滌海水若有驗者髮自分爲兩即入海洗之髮自分也皇后便結分髮而爲髻因以謂群臣曰夫興師動衆國之大事安危成敗必在於斯今有所征伐以事付群臣若事不成者罪有於群臣是甚傷鳥吾婦女之加以不肖然暫假男貌強起雄略上蒙神祗之靈下藉群臣之助振兵甲而度嶮浪整艫舩以求財土若事就者群臣共有功事不就者獨有罪既有此意其共議之群臣皆曰皇后爲天下計所以安宗廟社稷旦罪不及于臣下頓首奉詔
【夏四月の朔が壬寅の甲辰の日に、北方の火の前国の松浦縣に着いて、玉嶋里の小河の辺で食事をした。ここで、皇后は、針を曲げて鈎を作って、粒(?)を取って餌にして、裳(羽織)のいとを抜き取って釣り糸にして、河の中程の石の上に登って、鈎を投げて祈って「私は、西方に、財の国を求めようと思う。もし事を成すことができれば、河の魚よ鈎を飲め」と言った。それで竿を挙げると、あゆが獲れた。その時に皇后は、「珍しい物を見た」と言った。それで、当時の人が、梅豆邏の国とそこを名付けた。今、松浦というのは訛ったものだ。ここで、その国の女が、四月の上旬になると、鈎を河の中程に投げて、あゆを捕ることは、今に至るまで続いている。ただ男だけで釣っても魚を取ることが出来ない。すでに皇后は、神の教えた験があることを言い触らして、さらに神祇を祭礼して、皇后自ら西方を征とうと思った。それで神田を定めて直営の田を造った。その時に儺の河の水を引かせて、神田を潤そうと思って、溝を掘った。迹驚の岡に及ぶと、大磐が塞いで、溝を通すことが出来なかった。皇后は、武内宿禰を呼んで、剱と鏡を捧げて神祇に祈祷させて、溝を通せるよう祈った。その時、急に雷が鳴り響き、稲妻がはしること急に激しい雷があって(雷電:周易「剛柔分動而明雷電合而章」)その磐に落ちて裂き、水を通した。それで、当時の人は、その溝を裂田の溝となづけた。皇后は、橿日の浦に還って 髪を解いて海に臨んで「私は、神祇の教え受けて、皇祖の霊に頼んで、滄海を船で渡って、みずから西方を征とうとしている。それで、頭を海水ですすいだ。もし神の許しがあるなら、髮が自然に2つに分れろ」と言った。それで海に髪を入れてすすいだら、髮が自然に分れた。皇后は、髮を結い分けて、もとどりにした。それで、群臣に「興軍して兵を動かすことは、国の大事業だ。簡単に成し遂げるか、危険にあい負けるかはこの戦で決まる。これから征伐する場所がある。この大事を役人みなに任せる。もし成功しなければ、罪はみなに降りかかるだろう。これは、とても痛ましい事だ。私は女なうえに、愚かだ。しかし少しの間、男の顔になって、強く勇敢な計略をたてる。上は神祇の霊を纏い、下はみなの助けで、軍隊を奮い立たせて急峻な浪を渡って、船をまとめ上げて財の土地を求めよう。もしなしとげたなら、みなに、論功がある。成功しなければ私一人に罰を与えなさい。すでに覚悟は決めた。さあ共に戦略を練ろう」と言った。みなは、口をそろえて、「皇后が、天下の為に、宗廟社稷を平穏にするように計画する。また罪は臣下に及ばないという。敬意を払って詔勅を承けた」といった。】とあり、標準陰暦と合致する。
この、松浦の命名説話は倭奴国の説話と思われ、「梅豆邏」は「松浦」より『三国志』の「至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」の「末盧國」に近く、しかも、普段は釣りではなくて潜って魚を取っていることからよく符合する。
そして、火前国と火国に含まれないで倭奴国王が巡回しているのだからその領地で邪馬台国に属し、以前は狗奴国が九州全てを領有した「三身国」・「日国」だったことが解り、海人の倭が糟屋郡の猪野に侵入して勢力を拡張したことを示し、『後漢書』には邪馬台国30余国を記述していないので、卑弥呼即位で纏まったことで松浦も領地になったことを示し、魏朝時代末の状態を『三国志』は記述していると考えるべきだ。
そして、新羅征伐の記述は、いかにも国の存亡の危機、侵略者に対抗するような言い回しで、倭の新羅侵攻は何度も行っていて、しかも、やはり西方と方角が違って、矛盾しているが、私は既に何度も述べたように、南朝鮮は辰国と呼ばれた畿内日本の友好国で、韓地が漢や魏に侵略を受けていた時の説話が妥当で、新羅という国名は日本での地域名に過ぎなかった。
新羅という国名が現れるのは『宋書』の列傳第五十七の倭国に「都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」と出現するのが最初で韓地の初出も『後漢書』の東夷列傳第七十五の「三韓」が最初で「弁辰與辰韓雜居城郭衣服皆同言語風俗有異其人形皆長大美髮衣服絜清而刑法嚴峻其國近倭」と言語服装が倭に近いと倭の影響を受け、後漢時代に独立した国である。
辰韓耆老自言秦之亡人・・・有似秦語故或名之為秦韓 」と辰が文の途中で秦に変化してしまい、秦語と中国語なのに中国語でないと記述していて矛盾しており、これは、秦が辰で倭に近いということ、前漢の時代は三韓の地域が辰国領で中国が北部朝鮮に郡を置いて、南の韓地に侵略してきたので、鶴賀に基地がある政権が国の存亡をかけて漢と戦って、侵略を食い止めたのであり、偽書と言われるが契丹古伝に山や海を利用して打ち勝ったと記述されている。
すなわち、この新羅侵攻は神国日本が漢との戦いに出かける話と、倭国の新羅侵攻の話と4世紀に葛城王家が倭国と連合して新羅を侵略した話とが合体した説話である。
漢との戦いの後、韓地に自治をさせて、前漢末の紀元前27年の垂仁三年に「新羅王子天日槍來歸焉將來物」と新羅の皇子が人質としてやってきたのであり、それ以前は辰国で東鯷国に含まれて中国史書に出現せず合致する。

2019年10月16日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第九 神功皇后1

  『日本書紀』は慶長版
氣長足姫尊稚日本根子彥大日日天皇之曾孫氣長宿祢王之女也母曰葛城髙顙媛足仲彥天皇二年立爲皇后幼而聰明叡智貌容壯麗父王異焉九年春二月足仲彥天皇崩於筑紫橿日宮時皇后傷天皇不從神教而早崩以爲知所崇之神欲求財寶國是以命群臣及百寮以解罪改過更造齋宮於小山田邑三月壬申朔皇后選吉日入齋宮親爲神主則命武內宿祢令撫琴喚中臣烏賊津使主爲審神者因以千繒髙繒置琴頭尾而請曰先日教天皇者誰神也願欲知其名逮于七日七夜乃荅曰神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神名撞賢木嚴之御?()天疎向津媛命焉亦問之除是神有神乎荅曰幡荻穗出吾也於尾田吾田節之淡郡所居之有也問亦有耶荅曰於天事代於虛事代玉籤入彥嚴之事代神有之也問亦有耶荅曰有無之不知焉於是審神者曰今不荅而更後有言乎則對曰於日向國橘小門之水底所底而水葉稚之出居神名表筒男中筒男底筒男神之有也問亦有耶荅曰有無之不知焉遂不言旦有神矣時得神語隨教而祭然後遣吉備臣祖鴨別令擊熊襲國未經浹辰而自服焉且荷持田村有羽白熊鷲者其爲人強健亦身有翼能飛以髙翔是以不從皇命毎略盜人民戊子皇后欲擊熊鷲而自橿日宮遷于松峽宮時飄風忽起御笠墮風故時人号其處曰御笠也辛卯至層増岐野即舉兵擊羽白熊鷲而滅之謂左右曰取得熊鷲我心則安故号其處曰安也丙申轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛時田油津媛兄夏羽興軍而迎來然聞其妹被誅而逃之
【気長足姫尊は、稚日本根子彦大日日天皇の曽孫で、気長宿禰王の娘だ。母は葛城高顙媛という。足仲彦天皇の二年に、皇后となった。幼いころからかしこく深く道理を知り、顔だちは立派で美しい。父王は、特にえこひいきした。九年の春二月に、足仲彦天皇は、筑紫の橿日宮で崩じた。その時に皇后は、天皇が神の教えに従わないまま早死にしたことを傷んで、祟った神の思し召しを知って宝の国を求めようとした。それで、群臣および役人に命じて、前王の罪を知り過を改めて、さらに齋宮を小山田邑に造った。三月の壬申の朔に、皇后は、吉日を選んで、齋宮に入って、みずから神主となって。それで武内宿禰に命じて琴をひかせた。中臣烏賊津使主を呼び出して、皇后のお告げを解釈する審神者にした。それで、多くの長い幣の束を琴の左右に敷いて「さきの日に天皇に教えたのはどの神か。できたらその名を教えてほしい」と願い求めた。七日七夜に経って、「神風と形容する伊勢国の百傳と形容する度逢縣の拆鈴の五十鈴の宮にいる神で、は撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命だ」と答えた。亦、「この神を除いて他に神はいるのか」と問いかけた。「萩色の旗の間から出てきた私は、尾田の吾田節の淡の郡にいる神である」と答えた。「他にいますか」と問いかけた。「天事代虚事代の玉籤入彦嚴之事代神がいる」と答えた。「他にいますか」と問いかけた。「他に有るか無いか知らない」と答えた。それで、審神者が「今、答えず後でお告げをすることが有るか」と言った。それで、「日向国の橘小門の水底にいて、水中葉の芽が出たように生き生きとしている神で、名は表筒男・中筒男・底筒男の神がいる」と答えた。「ほかにいますか」と問いかけた。「いるかいないか知らない」と答えた。とうとう他の神を言わなかった。その時に神の言葉を得て、教どうりに祭った。その後で、吉備臣の祖で鴨別を派遣して、熊襲国を撃った。まだ干支が一回りもしないうちに、自分から服従した。また荷持田村に、羽白熊鷲という者がいる。その人柄は、強靭で強力だ。また身に翼があるように、身軽に山へ駆けあがる。それで、皇命に従わない。いつも人民を略奪する。戊子の日に、皇后は、熊鷲を撃とうと思って、橿日宮から松峽の宮に遷った。その時に、飄風が急に起こって、笠が吹き飛んだ。それで、当時の人は、そこを御笠となづけた。辛卯の日に、層増岐野に着いて、挙兵して羽白熊鷲を撃ち滅ぼした。近習に「熊鷲を滅ぼすことが出来た。私の心は安泰だ」と言った。それで、そこを安となづけた。丙申の日に、移って山門縣に着いて、それで土蜘蛛田油津媛を誅殺した。その時に田油津媛の兄の夏羽が、挙兵して迎え撃ってきた。しかしその妹が誅殺されたことを聞いて逃げた。】とあり、標準陰暦と合致する。
息長氏は『古事記』に「近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比賣生子丹波比古多多須美知能宇斯王」と近江の出身で続けて、「此美知能宇斯王之弟水穂真若王者(近淡海之安直之祖)次神大根王者次山代之大箇木真若王娶同母弟伊理泥王之女母泥(丹波)能阿治佐波毗賣生子迦迩來()雷王此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣生子息長宿祢王此王娶葛城之高額比賣生子息長帯比賣命」と近江・山代・丹波の地域に姻戚をもつ王家で敦賀に皇后が滞在した理由がここにあり、元々敦賀の宮に住んでいた可能性が高く、すなわち、近江の物部王朝が崩壊し、葛城王家を頼ったのが息長王家なのだろう。
地名説話の「安」も水穂真若王が尾張天皇から任命された地が近江の安国で、その説話を流用したもので、熊襲征伐は倭奴国の女王の説話で、『三国志』に「卑彌呼事鬼道能惑衆」と直接神のお告げを指示した女王と合致し、糟屋郡の猪野皇大神宮のそばに山田があり、斎宮跡が残っている。
また、「南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」と南に敵国の狗奴國があって、その最前線の砦が三笠山で、敵の本拠地が筑紫野市の夜須でその南に侏儒で「侏儒國在其南人長三四尺」と身長70cm程度の人々の国が柳川市近辺にあり、景行十八年年の巡行で大牟田市周辺の御木、八女市の水沼縣、浮羽を回ったが、その北側である。
ただし、この熊襲征伐はおそらく台与の即位前の説話で『三国志』の「立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定」で、西暦251年のことと考えられ、「千繒髙繒」も『三国志』の「賜汝紺地句文錦三匹細班華( ケイ)五張白絹五十匹」と、たくさんの絹を得ている。

2019年10月14日月曜日

最終兵器の目 仲哀天皇4

  『日本書紀』慶長版は
己亥到儺縣因以居橿日宮秋九月乙亥朔己卯詔群臣以議討熊襲時有神託皇后而誨曰天皇何憂熊襲之不服是膂之空國也豈足舉兵伐乎愈茲國而有寶國譬如美女之睩有向津國眼炎之金銀彩色多在其國是謂𣑥衾新羅國焉若能祭吾者則曾不血刃其國必自服矣復熊襲爲服其祭之以天皇之御舩及穴門直踐立所獻之水田名大田是等物爲幣也天皇聞神言有疑之情便登髙岳遙望之大海曠遠而不見國於是天皇對神曰朕周望之有海無國豈於大虛有國乎誰神徒誘朕復我皇祖諸天皇等盡祭神祇豈有遺神耶時神亦託皇后曰如天津水影押伏而我所見國何謂無國以誹謗我言其汝王之如此言而遂不信者汝不得其國唯今皇后始之有胎其子有獲焉然天皇猶不信以強擊熊襲不得勝而還之九年春二月癸卯朔丁未天皇忽有痛身而明日崩於是皇后及大臣武內宿祢匿天皇之喪不令知天下則皇后詔大臣及中臣烏賊津連大三輪大友主君物部膽咋連大伴武以連曰今天下未知天皇之崩若百姓知之有懈怠乎則命四大夫領百寮令守宮中竊收天皇之屍付武內宿祢以從海路遷穴門而殯于豊浦宮爲无火殯斂甲子大臣武內宿祢自穴門
還之復奏於皇后是年由新羅役以不得葬天皇也
【己亥の日に、儺縣に着いて、橿日宮にいた。秋九月の朔が乙亥の己卯の日に、役人に詔勅して、熊襲を討とうと話し合った。その時に、神が、皇后にお告げで「天皇よ、どうして熊襲が服従しないことを憂えるのだ。これは、背中の肉のように何もない国だ。挙兵して討つに足る国なのか。この国よりたくさん宝物が有る国、たとえば美女がじっと見るように、対岸の港がある国だ。目が金銀で燃えるように彩るように多くある国だ。これを栲衾の白の新羅の国という。もししっかりと私を祭れば、血を流さないで、其の国はきっと自分から服従するだろう。また、熊襲も服従する。その祭る方法は、天皇の船と穴門の直が受け継いで献上する水田、名なづけて大田というが、これらの物を神前に供えなさい」とさとした。天皇は、神の言葉を聞いて、疑心を持った。それで高い岳に登って、遥か大海を望んだが、広くて遠く国が見えなかった。それで、天皇は、神に「私が見回したけれど、海だけで国は無かった。どうして何もないところに国が有るのか。どの神がいたずらに私をあざむくのか。また、私の皇祖や諸天皇たちが、全て残らず神祇を祭った。どこに、残った神が有るのか」と答えた。その時、神がまた皇后に取りついて「天の津の水影のように、ねじ伏せて見せた国をどうして国が無いと言って、私のことを誹謗するのか。それはお前がそのように言って信じなければ、お前は、その国を得ることが出来ない。ただし、今、皇后が始めて妊娠した。その子が獲るだろう」と言った。しかし、天皇は、それでも信じず、強引に熊襲を撃った。勝つことが出来ずに戻った。九年の春二月の朔が癸卯の丁未の日に、天皇は、体を傷めて、明日に、崩じた。皇后と大臣の武内の宿禰が、天皇の死を隠して、天下に知らしめなかった。それで皇后は、大臣と中臣の烏賊津の連・大三輪の大友の主君・物部の膽咋の連・大伴の武以の連に「今、天下はまだ天皇が崩じたことを知らない。もし百姓が知ったら、なまけるだろう」と詔勅した。すなわち四人の高官に命じて、役人に命令して、宮中を守らせた。ひそかに天皇の屍を棺に收めて、武内の宿禰に任せて、海路で穴門に遷した。それで豊浦宮にかりにもがりして、火葬しないで死者のなきがらをおさめた。甲子の日に、大臣の武内の宿禰が、穴門から還って、皇后に復命した。この年、新羅の役によって、天皇を葬むることが出来なかった。】とあり、標準陰暦と合致する。
この説話は2つの豊浦宮にいる王と香椎宮を首都にする王の説話で、夏磯姫のたちの説話としては当然新羅を知らないはずが無く、この当時の倭奴国は新羅を別の名で呼んでいて、那の津の対岸は『三国志』でも「狗邪韓國」、新羅は「辰韓」と呼んでいて、新羅の対岸にある国は出雲より東の国である。
ところが、この出雲から東の国は新羅の宗主国で討伐する必要がなく、日槍のように人質として朝廷に赴いていて、逆に守るべき国なので、この新羅を討とうとする王は『後漢書』の「女王國東度海千餘里至拘奴國」や倭奴国で、しかし、拘奴国は新羅を守ろうとする大国によって攻撃されることになり、『三国史記』で攻撃してくる国は倭国である。
すなわち、香椎宮が倭奴国の首都で拘奴国の首都が豊浦宮の『後漢書』の世界、神功皇后たちは周防からの攻撃で、拘奴国の中の王の熊鰐が拘奴国を裏切って豊浦に案内した後の話で、『三国志』の世界で、香椎宮に伝仲哀天皇陵があるが、『日本書紀』が豊浦に遺体を持ち帰っていて、仲哀天皇陵では有り得ない。
そして、北を見ても新羅が無いと言った王は「周芳娑麼」から出撃して京都郡に都を持ち、拘奴国すなわち熊襲の一部を押しやって紀伊まですなわち瀬戸内を制覇した王が穴門に宮を置いて新羅をはじめて攻撃しようとしていた4世紀中の説話である。

2019年10月11日金曜日

最終兵器の目 仲哀天皇3

 『日本書紀』慶長版は
「八年春正月己卯朔壬午幸筑紫時岡縣主祖熊鰐聞天皇車駕豫拔取百枝賢木以立九尋舩之舳而上枝掛白銅鏡中枝掛十握剱下枝掛八尺瓊參迎于周芳沙麼之浦而獻魚鹽地因以奏言自穴門至向津野大濟爲東門以名籠屋大濟爲西門限設利嶋阿閇嶋爲御筥割柴嶋爲御甂以逆見海爲塩地既而導海路自山鹿岬𢌞之入岡浦到水門御舩不得進則問熊鰐曰朕聞汝熊鰐者有明心以參來何舩不進熊鰐奏之曰御舩所以不得進者非臣罪是浦口有男女二神男神曰大倉主女
神曰菟夫羅媛必是神之心歟天皇則禱祈之以挾杪者倭國菟田人伊賀彥爲祝令祭則舩得進皇后別舩自洞海入之潮涸不得進時熊鰐更還之自洞奉迎皇后則見御舩不進惶懼之忽作魚沼鳥池悉聚魚鳥皇后看是魚鳥之遊而忿心稍解及潮滿即泊于岡津又筑紫伊覩縣主祖五十迹手聞天皇之行拔取五百枝賢木立于舩之舳艫上枝掛八尺瓊中枝掛白銅鏡下枝掛十握剱參迎于穴門引嶋而獻之因以奏言臣敢所以獻是物者天皇如八尺瓊之勾以曲妙御宇且如白銅鏡以分明
看行山川海原乃提是十握剱平天下矣天皇即美五十迹手曰伊蘇志故時人號五十迹手之本土曰伊蘇國今謂伊覩者訛也
【八年の春正月の朔が己卯の壬午の日に、筑紫に行幸した。その時に、岡の縣主の祖の熊鰐が、天皇の車駕がやってきたことを聞きあらかじめ、百くらいの葉がある枝の賢木を抜き取って、10mくらいの船の舳に立てて、上の枝には白銅鏡を掛け、中間の枝には十握剱を掛け、下の枝には八尺瓊を掛けて、周芳の沙麼の浦に参上して迎え、魚塩の地を献上した。それで「穴門から向津野の大渡までを東の門とし、名篭屋の大渡を西の門とした。沒利の嶋・阿閉の嶋を境界にした領域とし、柴嶋を分割して区切りとした。逆見の海を塩地とした」と奏上した。すぐに海路先導して仕えた。山鹿の岬から廻って岡浦に入った。水門に着いたが、船を進めることが出来なかった。それで熊鰐「私は聞いたが熊鰐お前は、見るからに立派な気持ちで先導しようとやってきたがどうして船が進まないのだ」と問い詰めた。熊鰐は「船が進むことが出来ないのは私の罪ではありません。この浦の入り口に、男女の二王がいます。男王を大倉主という。女王を菟夫羅媛という。きっと是の王のためだ」と奏上した。天皇は、それで祈祷して、梶取を倭國の菟田の人で伊賀彦を長として祭らせた。それで船を進めることが出来た。皇后は、別の船で、洞の海から入った。潮が引いて進めなかった。その時熊鰐が、帰って来て、洞から皇后を迎にやってきた。それで船が進まないことを見て、びくびくと恐れて、すぐに魚沼と鳥池を作って、のこらず魚や鳥を集めた。皇后は、この魚や鳥が遊んでいるのを見て、怒りがやっと解けた。潮が満ちて、岡の津に停泊した。また、筑紫の伊覩の縣主の祖の五十迹手は、天皇がやってきたことを聞いて、五百位の葉が枝にある賢木を抜き取って、船の 舳先に立てて、上の枝に八尺瓊を掛け、中間の枝に白銅鏡を掛け、下の枝に十握剱を掛けて、穴門の引嶋に迎えにやってきて献上した。それで「わたしは、あえてこれを献上する理由は、天皇が、八尺瓊が曲がって尖ったように、この上なく巧みに天下を統治してほしい。また、白銅鏡のように、はっきり見きわめて山川海原を見守り、すなわちこの十握剱を提げて、天下を平定してほしいという意味だ」と奏上した。天皇は、すなわち五十迹手を誉めて、「伊蘇の心意気」といった。それで、その当時の人は、五十迹手の里を、伊蘇国となづけたという。今、伊覩というのは訛ったものだ。】とあり、標準陰暦と合致する。
この説話は京都郡侵攻の、景行天皇十二年の「八月乙未朔己酉幸筑紫九月甲子朔戊辰到周芳娑麼時天皇南望之詔羣卿曰於南方烟氣多起」と周芳からの進撃そのものだが、敵国は穴門から松浦の名護屋までと倭奴国以前の説話が混じり、『三国志』は「東南陸行五百里到伊都國」と卑弥呼の時代はこの記述の時代の呼び方の伊都で、少なくとも魏時代より前の話で伊蘇と呼ばれた時代の話だ。
そのため、筑紫全体を紫島と呼んで、それを分割したと言っているのだから、神話時代の三身国のころの話の可能性があり、景行天皇十二年の戦いのあと火国と熊襲国を分割している。
「百枝賢木」を「百の葉を枝に付けた」と訳したが沢山の意味なら五百と百を使い分ける必要がないし、おそらく、たくさんの単位が百で、百万はもっとたくさんの意味で、八は国の名だったので、五も国の名で伊都→五十と考えられ、八尺も八国の20cmの鏡、九尋舩は1尺約20cm弱で1尋が6尺で10m程度の船として、雄略天皇より前の『日本書紀』は周朝の単位と考えるべきだとした。
ここで、阿閉嶋は赤人の歌の「阿倍の島鵜の住む礒に寄する波間なくこのころ大和し思ほゆ」と阿倍の島が枕詞としているが、『日本書紀』のここが大本なのではないだろうか。

2019年10月9日水曜日

最終兵器の目 仲哀天皇2

  『日本書紀』慶長版は
二年春正月甲寅朔甲子立氣長足姫尊爲皇后先是娶叔父彥人大兄之女大中姫爲妃生麛坂皇子忍熊皇子次娶來熊田造祖大酒主之女弟媛生譽屋別皇子二月癸未朔戊子幸角鹿即興行宮而居之是謂笥飯宮即月定淡路屯倉三月癸丑朔丁卯天皇巡狩南國於是留皇后及百寮而從駕二三卿大夫及官人數百而輕行之至紀伊國而居于德勒津宮是時熊襲叛之不朝貢天皇於是將討熊襲國則自德勒津發之浮海而幸穴門即日使遣角鹿勅皇后曰便從其津發之逢於穴門夏六月辛巳朔庚寅天皇泊于豊浦津且皇后從角鹿發而行之到渟田門食於舩上時海鯽魚多聚舩
傍皇后以酒灑鯽魚鯽魚即醉而浮之時海人多獲其魚而歡曰聖王所賞之魚焉故其處之魚至于六月常傾浮如醉其是之縁也秋七月辛亥朔乙卯皇后泊豊浦津是日皇后得如意珠於海中九月興宮室于穴門而居之是謂穴門豊浦宮
【二年の春正月の朔が甲寅の甲子の日に、氣長足姫尊を皇后に立てた。これより前に、叔父の彦人大兄のが娘の大中姫を娶って妃とした。麛坂皇子と忍熊皇子を生んだ。次に來熊田の造の祖の大酒主の娘の弟媛を娶って、譽屋別皇子を生んだ。二月の朔が癸未の戊子の日に、角鹿に行幸し、それで行宮を興して腰をおちつけていた。これを笥飯の宮という。その月に、淡路の屯倉を定めた。三月の朔が癸丑の丁卯の日に、天皇は、南国を巡回した。ここに、皇后および役人を留めて、駕に従う二・三人の高官と官僚数百人で、簡単な視察に出かけた。紀伊の国について、徳勒津の宮に腰を落ち着けた。この時に、熊襲が、約束を破って朝貢しなかった。天皇は、熊襲の国を討とうとした。それで徳勒津を出発して、船で穴門に行幸した。その日に、使者を角鹿に派遣して、皇后に「すぐにその津を出発して、穴門で逢おう」と詔勅した。夏六月の朔が辛巳の庚寅の日に、天皇は、豊浦の津に停泊した。また、皇后は、角鹿から出港して、渟田の門に着き、船上で食事をした。その時に、海の魚がたくさん船のそばに集った。皇后は、酒を海の魚に注いだ。海の魚は、そのため酔って浮かんだ。その時に、海人は、たくさんその魚を獲ることが出来て喜んで、「聖王から贈られた魚だ」と言った。それで、そこの魚が、六月になると、いつも酔ったように横向き浮ぶのはこれが由来だ。秋七月の朔が辛亥の乙卯の日に、皇后は、豊浦の津に停泊した。この日に、皇后は、如意の珠を黄海で獲た。九月に、宮室を穴門に建てて腰を落ち着けた。これを穴門の豊浦の宮という。】とあり、二月癸未朔は1月30日で1月が小の月なら合致し、その他は標準陰暦と合致する。
『古事記』は「大江王之女大中津比賣命生御子香坂王忍熊王」と兄王の意味ではなく音が重要なようで、同じく『古事記』に「之女名針間之伊那毗能大郎女・・・伊那毗能大郎女之弟伊那毗能若郎女生御子真若王次日子人之大兄王又娶倭建命之曽孫名須賣伊呂大中日子王之女訶具漏比賣生御子大枝王」、『日本書紀』は播磨王の娘の子の大兄王としているが姫の名前と『古事記』が大江王とすることと、妃の名前が大中津比賣で大中日子王に近いので、大国と「なか国」の王の姫の可能性があり、娘婿が足仲彦と「なか国」を統治する王とよく合う。
さらに、大中姫は「皇后日葉酢媛命生・・・第三曰大中姫命」と垂仁天皇の姫だが、垂仁天皇も37年から景行・成務朝と重なり大足・若足と同年代の人物で、この大中姫の可能性もある。
すなわち、仲哀天皇も2王以上の人物が記述されている可能性が高く、角鹿に行幸してどうして首都を南国と言い、本隊をわざわざ外地に置いて首都方面を巡行して紀伊に行くのは理に適わず、方向性として、角鹿より西に都を持ち、南国は瀬戸内方面で近江→大和→紀伊などの国々が南国で全軍で移動できない遠慮した、どちらかというと、貢献や挨拶の旅に感じる。
そして、対熊襲の戦いの前線基地が穴門で、やはり、京都郡への攻撃と符合し、景行天皇十二年の「八月乙未朔己酉幸筑紫九月甲子朔戊辰到周芳娑麼時天皇南望之詔羣卿曰於南方烟氣多起」と周芳を出発した先遣部隊に追いついた記述と考えられる。

2019年10月7日月曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第八 仲哀天皇1

 『日本書紀』慶長版は
足仲彥天皇日本武尊第二子也母皇后曰兩道入姫命活目入彥五十狹茅天皇之女也天皇容姿端正身長十尺稚足彥天皇四十八年立爲太子稚足彥天皇無男故立爲嗣六十年天皇崩明年秋九月壬辰朔丁酉葬于倭國狹城盾列陵元年春正月庚寅朔庚子太子即天皇位秋九月丙戌朔尊母皇后曰皇太后冬十一月乙酉朔詔群臣曰朕未逮于弱冠而父王既崩之乃神靈化白鳥上天仰望之情一日勿息是以冀獲白鳥養之於陵域之池因以覩其鳥欲慰顧情則令諸國俾貢白鳥閏十一月乙卯朔戊午越國貢白鳥四隻於是送鳥使人宿菟道河邊時蘆髮蒲見別王視其白鳥而問之曰何處將去白鳥也越人荅曰天皇戀父王而將養狎故貢之則蒲見別王謂越人曰雖白鳥而燒之則爲黑鳥仍強之奪白鳥而將去爰越人參赴之請焉天皇於是惡蒲見別王无禮於先王乃遣兵卒而誅矣蒲見別王則天皇之異母弟也時人曰父是天也兄亦君也其慢天違君何得兔誅耶是年也太歲壬申
【足仲彦天皇は、日本武尊の第二子だ。母の皇后を兩道入姫命という。活目入彦五十狹茅天皇の娘だ。天皇は、姿・形や動作などが端正できちんとしていた。身長は十尺あった。稚足彦天皇の四十八年に太子に立った。稚足彦天皇は男子が無く、それで皇太子を立てて後継とした。六十年に、天皇が崩じた。翌年の秋九月の朔が壬辰の丁酉の日に、倭国の狹城の盾列の陵に葬った。元年の春正月の朔が庚寅の庚子の日に、太子は、天皇に即位した。秋九月の丙戌の朔に、母の皇后を尊んで皇太后といった。冬十一月の乙酉の朔に、群臣に「私は、二十歳に届かないうちに、父の王が既に崩じていた。それで父の霊魂は、白鳥となって天に上った。あおぎのぞむ気持ちは一日として忘れなかった。それで、できたなら白鳥を捕まえて、陵域の池に養いたい。それで、その鳥を見ながら、思いめぐらす気持ちを慰めたい」と詔勅した。それで諸国に命じて、白鳥を献上させた。閏十一月の朔が乙卯の戊午の日に、越國が、白鳥四羽を献上した。その鳥を持って来た使者が、菟道河の辺に宿を取っていた。そのときに、蘆髮蒲見別王が、その白鳥を見て、「どこに持っていく白鳥だ」と問うと、越の人が「天皇が、父王を慕って、飼い馴らしたいというので献上します」と答えた。それで蒲見別王は、越の人に「白鳥といっても、焼いてしまえば黒鳥になる」といった。それで強引に白鳥を奪って、持ち去った。そこで越の人が、駆けつけて参上して報告した。天皇は、それで蒲見別王が、先王への無礼に怒って、派兵して誅殺した。蒲見別王は、天皇の異母弟だ。その当時の人は「父は天子だ。兄も王だ。その天子を侮り王にそむけば、どうして誅殺を免れることが出来るのだろうか」と言った。この年は、太歳壬申だ。】とあり、元年十一月乙酉朔は10月30日で11月は小の月、10月が小の月なら合い、他は標準陰暦と合致する。
『古事記』に「大國之淵之女弟苅羽田刀弁生御子石衝毗賣命亦名布多遅能伊理毗賣命」と足仲彦は大国の活目邑の主と大国の娘の弟苅羽田刀弁との子の布多遅能伊理毗賣と倭武との子、もちろん襲名で何代も経過しているが、足仲彦もやはり大国に移住した葛城氏の子孫である。
足仲彦は倭武死亡時の景行40年が20歳とすると景行51年立太子で31歳、69年後に100歳のとき即位、成務48年立太子が31なら43歳即位、52歳死亡で、倭武死亡は成務天皇の時、ここでも景行・成務は同時に王位にあったことを示して、どちらにしても立太子の時期は無関係で同時並行の宮の住人だったことを頭に置かなければならない。
これは、元々『日本書紀』も天皇の璽をもつ宮を中心に記述した紀伝体の史書で、それに、何人かの王を記述し、系図も仮想天皇にまとめ上げた史書に宮の記録を落とし込んで、史書を記述した王朝の王名を付加したものだから、王が前後したり、同じ人物が複数の王の時に記述されるのである。
また、身長十尺は唐の大尺が現在の曲尺29.63 cmだが身長3mの人間は考えられず、高句麗・高麗尺でもなく新井の唱える26.8cmの古韓尺説でもなく、戦国から漢代の23から24cmでもない、もっと小さい周尺でおそらく、20cmより短いもので無ければ、この天皇は化け物になってしまい、周朝からの交流がよくわかる。

2019年10月4日金曜日

最終兵器の目 成務天皇

  『日本書紀』慶長版は
稚足彥天皇大足彥忍代別天皇第四子也母后曰八坂入姫命八坂入彥皇子之女也大足彥天皇四十六年立爲太子年二十四六十年冬十一月大足彥天皇崩元年春正月甲申朔戊子皇太子即位是年也太歲辛未二年冬十一月癸酉朔壬午葬大足彥天皇於倭國之山邊道上陵尊皇后曰皇太后三年春正月癸酉朔己卯以武內宿祢爲大臣也初天皇與武內宿祢同日生之故有異寵焉
四年春二月丙寅朔詔之曰我先皇大足彥天皇聰明神武膺籙受圖洽天順人撥賊反正德侔覆燾道協造化是以普天率土莫不王臣稟氣懷靈何非得處今朕嗣踐寶祚夙夜兢惕然黎元蠢爾不悛野心是國郡無君長縣邑無首渠者焉自今以後國郡立長縣邑置首即取當國之幹了者任其國郡之首長是爲中區之蕃屏也五年秋九月令諸國以國郡立造長縣邑置稻置並賜楯矛以爲表則隔山河而分國縣隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横山陽曰影面山陰曰背面是以百姓安居天下無事焉四十八年春三月庚辰朔立甥足仲彥爲皇太子六十年夏六月己巳朔己卯天皇崩時年一百七歲
【稚足彦天皇は、大足彦忍代別天皇の第四子だ。母の皇后を八坂入姫命という。八坂入彦皇子の娘だ。大足彦天皇の四十六年に、太子に立った。年齢は二十四歳だった。六十年の冬十一月に、大足彦天皇が崩じた。元年の春正月の朔が甲申の戊子の日に、皇太子は即位した。この年は太歳辛未だった。二年の冬十一月の朔が癸酉の壬午の日に、大足彦天皇を倭国の山邊の道の上の陵に葬った。皇后を尊んで皇太后といった。三年の春正月の朔が癸酉の己卯の日に、武内宿禰を大臣にした。初め、天皇と武内宿禰とが同じ日に生れたので、特に優遇した。四年の春二月の丙寅の朔に、「私の先皇の大足彦天皇は、理解が速くて賢く人知を越えてたけだけしく、家を継承し、記録を受け取った。天神の風習は広くゆきわたり、人々はそれに従って、賊をはねかえし、正道に復帰した。徳に従い、道を照らし、力をあわせて教え導いた。それで、天から地の果てまで(率土:詩經‧小雅‧北山「率土之濱莫非王臣」)行き渡り臣は王に従い身の引き締まる気持ちで神霊を心にいだくことで、得られない者が無かった。今、私は皇位の位を嗣いだ。朝早くから夜まで気が引き締まってのんびりできない。ところが、人民は虫がたかるように集まって騒ぎ、悪事を遠慮なく実行する。これは、国郡に王や長がいなくて、縣邑に頭が無いからだ。これから、国郡に長を立て、縣邑に頭を置こう。すなわち、強健で才知に秀でた者を採用して担当の国郡の首長に任命しなさい。それで、任地の防備に当たらせよう」と詔勅した。五年の秋九月に、諸國に命じて、国郡に造長を立て、縣邑に稻置を置いた。それとともに盾矛を与えてしるしとした。それで山河を境界に国縣を分け、千戸・百戸の単位で、邑里を定めた。それで東西を日縱として、南北を日横とした。山の陽が当たる斜面を影面という。山の日陰の面を背面という。これで、百姓は心やすらかに住め、天下も平穏無事だった。四十八年の春三月の庚辰の朔に、甥の足仲彦を皇太子に立てた。六十年の夏六月の朔が己巳の己卯の日に、天皇が崩じた。この時の年齢は百七歳だった】とあり、四年二月丙寅朔は1月30日、四十八年三月庚辰朔は2月30日で他は標準陰暦と合致する。
丹波道主王の宮から尾張大海媛の宮に政権が遷り、前王朝が皇位や記録を継承して、自分も皇位を受け継いだと、前政権の時に王朝交代したと述べ、尾張王朝が前政権から始まった。
そして、武内宿禰は前政権の時に誕生し、この王朝に当てはめた豊国王朝の天皇の皇太子に武内宿禰が就き、仁徳天皇五十年まで生きているが290歳などと言うのは当然考えられず、これは、神功皇后摂政五十一年と仲哀天皇九年と景行天皇五一年と仁徳天皇五十年が同じ時期の説話で、成務天皇三年、景行天皇三年も武内宿禰が大国王の皇太子と同じ日に生まれ、応神天皇九年頃に父王が死亡したことを意味していると思われる。
すなわち、葛城王朝の王は大足彦・若足彦・中足彦・大雀は同時期の王で、その後に譽田が位置する順で挿入したと考えることが出来る。
そして、国境を山や川で区切っているということは、『三国志』の国境間距離が不彌國邪馬台国間に無かったり、伊都国・奴国間や伊都国・不彌國間が5Km程度だったりと山巾などに近い国境間距離を証明し、しるしの楯矛も「兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭」と合致し、国縣を「阡陌以定」とこれも『三国志』の對海國→千餘戸、一大國→三千許家、末盧國→四千餘戸、伊都國→千餘戸、不彌國→千餘家と国の戸数は千から数千戸と邪馬台国や奴国などの大国を除くと良く合致し、下部組織の邑が百単位の戸数となるのは当然だ。
この天皇は、「景行天皇五一年立太子」を46年立太子と、24歳で立太子なのに、9数歳と記述の107歳と全く計算が合わないにも関わらず堂々と記述しているが、景行天皇も53歳即位の113歳が106歳と計算が合わず、私の言う、立太子は倭国の王家の記述で天皇に無関係で成務天皇の立太子が48年としたのは、景行天皇4年で46歳と応神天皇の立太子を加えた年数と成務天皇48年と混同した結果だ。
おそらく天皇の年齢は宮の築造年数の可能性が高く、高千穂の宮が『古事記』に「穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳」と580歳と同じ用法だ。
従って、私はこの立太子を卑弥呼のことと考え、201年24歳で卑弥呼が即位し、その時男弟王が21歳で248年死亡しその後251年まで男弟王が引き継いだがうまくいかなかったので、台与が『三国志』「宗女壹與年十三爲王國」と13歳で即位したのが前政権の即位3年で、子たちが倭国を継承し、『筑後國風土記逸文』の「令筑紫君等之祖甕依姬為祝祭之」と甕依媛説話で卑弥呼は独身で子がいないから台与のことで、子孫が後に筑紫君と言われた。
これらのことから、景行12年の熊襲遠征は「神夏磯媛」が卑弥呼なら212年の出来事ということになり、景行3年生まれの武内宿禰と卑弥呼が同い年ではないことがわかり、『古事記』に「娶穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女生御子和訶奴氣王」と若帯日子の子も若国の奴氣王で若国王も継承された。

2019年10月2日水曜日

最終兵器の目 景行天皇13

 『日本書紀』慶長版は
五十二年夏五月甲辰朔丁未皇后播磨太郎姫薨秋七月癸卯朔己酉立八坂入媛命爲皇后
五十三年秋八月丁卯朔天皇詔群卿曰朕顧愛子何日止乎冀欲巡狩小碓王所平之國是月乗輿幸伊勢轉入東海冬十月至上總國從海路渡淡水門是時聞覺賀鳥之聲欲見其鳥形尋而出海中仍得白蛤於是膳臣遠祖名磐鹿六鴈以蒲爲手繦白蛤爲膾而進之故美六鴈臣之功而賜膳大伴部十二月從東國還之居伊勢也是謂綺宮五十四年秋九月辛卯朔己酉自伊勢還於倭居纏向宮
五十五年春二月戊子朔壬辰以彥狹嶋王拜東山道十五國都督是豊城命之孫也然到春日穴咋邑臥病而薨之是時東國百姓悲其王不至竊盜王尸葬於上野國五十六年秋八月詔御諸別王曰汝父彥狹嶋王不得向任所而早薨故汝專領東國是以御諸別王承天皇命旦欲成父業則行治之早得善政時蝦夷騷動即舉兵而擊焉時蝦夷首帥足振邊大羽振邊遠津闇男邊等叩頭而來之頓首受罪盡獻其地因以免降者而誅不服是以東久之無事焉由是其子孫於今有東國五十七年秋九月造坂手池即竹蒔其堤上冬十月令諸國興田部屯倉五十八年春二月辛丑朔辛亥幸近江國居志賀三歲是謂髙穴穗宮六十年冬十一月乙酉朔辛卯天皇崩於髙穴穗宮時年一百六歲
【五十二年の夏五月の朔が甲辰の丁未の日に、皇后の播磨太郎姫が薨じた。秋七月の朔が癸卯の己酉の日に、八坂入媛命を皇后に立てた。五十三年の秋八月の丁卯の朔に、天皇は、群卿に「私が愛した子を顧みる思いはいつの日に止むのだろうか。小碓王が平定した国をどうしても巡回したい」と詔勅した。この月に、輿に乗って、伊勢を行幸して、東海に移った。冬十月に、上総国に、海路で淡水門を渡って着いた。この時に、鷹の鳴き声が聞こえた。その鳥の姿を見ようと思って、探し求めて海に出て途中の浜でオオハマグリが獲れた。そこに、膳臣の遠祖で、名は磐鹿六鴈が、ガマの葉に通して、オオハマグリをなますにして食べた。それで、六鴈臣の功績を褒めて、膳大伴部を与えた。十二月に、東国から還って、伊勢にいた。これを綺(かむはた)宮という。五十四年の秋九月の朔が辛卯の己酉の日に、伊勢から倭に還って纏向の宮にいた。五十五年の春二月の朔が戊子の壬辰の日に、彦狭嶋の王を、東山道の十五国の都督を授けた。これは豊城命の孫だ。それで春日の穴咋の邑に着いて、病に臥して薨じた。この時に、東国の百姓が、その王の到着しないことを悲んで、人知れず、王のなきがらを盜んで、上野国に葬った。五十六年の秋八月に、御諸別王に「おまえの父の彦狹嶋王は、任地に向うことが出来ずに早々と薨じた。それで、おまえの思うがまゝに東国をおさめるなさい」と詔勅した。それで、御諸別王は、天皇の命をうけ、ひとまず父の任務を行おうとした。それで任地に行って治めて、早々と善政を行った。その時に蝦夷が騒動を起こした。それで挙兵して討った。その時に蝦夷の将軍の足振邊・大羽振邊・遠津闇男邊達が、頭を地につけて土下座をして罪を受け入れ、全ての領地を献上した。それで、降伏した者は許し従わない者は誅殺した。これで、東方は長く何事もない。これで、その子孫は、今も東国にいる。五十七年の秋九月に、坂手の池を造った。すなわち竹をその堤防の上に植た。冬十月に、諸国に田部屯倉を興す命令を出した。五十八年の春二月の朔が辛丑の辛亥の日に、近江国に行幸して、志賀にいること三年で、これを高穴穗宮という。六十年の冬十一月の朔が乙酉の辛卯の日に、天皇が高穴穗宮で崩じた。その時、年齢は一百六歳だった。】とあり、五十四年九月辛卯朔は9月2日で8月は小の月なので大の月なら1日で、五十五年二月戊子朔は閏月があり計算では2月30日で翌月は閏2月で1月が閏月の可能性があり、近い年代で合致するのはここだけで、その他は標準陰暦と合致する。
皇后の交代は宮の交代で、髙穴穗宮が八坂入媛の宮ということになるが、6年のタイムラグがあり、播磨太郎姫は尾張王朝の皇后ではなかったので、八坂入媛の宮に政権が遷ったか纏向の政権が崩壊したということで伊勢の綺宮は伊勢遺跡の宮でそこから志賀の高穴穗宮に移ったのだろう。
景行天皇の義父の丹波主王は『古事記』に「娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女息長水依比賣生子丹波比古多多須美知能宇斯王」と近江の皇子で「朝庭別王者(三川之穂別之祖)此美知能宇斯王之弟水穂真若王者(近淡海之安直之祖)次神大根王者(三野國之本巣國造長幡部連之祖)」と兄弟が三河の穂別王・近江の安王美濃の本巣国造後には三野国造の祖と記述し尾張近辺の王となっている。
そして、本牟智和氣と「率遊其御子之状者在於尾張之相津二俣椙作二俣小舟」のように遊んだのも墨俣、八坂入媛を娶ったのも美濃、『古事記』に「大中津日子命者・・・尾張國之三野別・・・落別王者・・・三川之衣君之祖」と子に尾張・美濃・三河の王がいる。
そして、『舊事本紀』には「八世孫倭得玉彦命亦云市大稲日命此命淡海國谷上刀婢爲妻生一男伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と弟彦の父親の倭得玉彦が近江王と伊賀王の娘を妃にして、伊賀臣の祖大彦の孫で近江王の娘婿宇斯王の娘婿でもある垂仁天皇とかなり濃密な姻戚である。
さらに『舊事本紀』では景行天皇の子たちの領地が吉備や讃岐以西なのに対し、倭武の領地は兩道入姬皇女為妃生・・・稚武王近江速部君祖宮道君祖・・・穗積氏祖忍山宿祢女弟媛生・・・次伊賀彦王次武田王尾張國丹羽建部君祖次佐伯命参川御使連等祖」と伊賀・尾張・三河と尾張近辺の王の祖で、大伊賀彦の子孫の系図と重なり、都が稚武王の近江に移り、伊賀彦は弟彦の可能性がある。
そして、穂積氏と同系の近江朝の大臣の物部膽咋宿禰は「三川穂國造美巳止真妹伊佐姫爲妾」と三河の姫を娶り、弟は「弟物部片堅石連公駿河國造等祖弟物部印岐美連公志紀縣主遠江國造久努真佐夜直等祖」と倭武の征服地の駿河や遠江を得、大臣ということはそれまで近江の天皇だったことを意味し、物部分王朝は破綻した。
これによって、倭武が伊吹山で死んだ意味が解り、纏向・伊賀・尾張・美濃の王家の倭武が近江の王朝と戦って、戦死したということで、伊勢から出発した倭武は物部倭武だ。
彦狹嶋王が崇神朝で既に活目尊と夢見で争って「豐城命令治東國」と東国を与えられたはずなのに、その孫が都督として再度与えられているということは、本来この記述が夢見説話の可能性が高く、倭武で記述したようにいくつかの王朝の皇子が時代を超えて記述されていて、『三國志』の魏書•武帝紀に「建安十八年春正月進軍濡須口攻破權江西營獲權都督公孫陽」と213年に都督の初出があり、おそらくそれ以降、218年・244年・275年・301年の日干支が2月1日に戊子である。