「三年春正月丙戌朔戊子立譽田別皇子爲皇太子因以都於磐余五年春三月癸卯朔己酉新羅王遣汙禮斯伐毛麻利叱智富羅母智等朝貢仍有返先質微叱許智伐旱之情是以誂許智伐旱而紿之曰使者汙禮斯伐毛麻利叱智等告臣曰我王以坐臣久不還而悉設妻子爲孥冀蹔還本土知虛實而請焉皇太后則聽之因以副葛城襲津彥而遣之共到對馬宿于鉏海水門時新羅使者毛麻利叱智等竊分舩及水手載微叱旱岐令逃於新羅乃造蒭靈置微叱智之床詳爲病者告襲津彥曰微叱智忽病之將死襲津彥使人令看病即知欺而捉新羅使者三人納檻中以火焚而殺乃詣新羅次于蹈鞴津拔草羅城還之是時俘人等今桑原佐糜髙宮忍海凢四邑漢人等之始祖也十三年春二月丁巳朔甲子命武內宿祢從太子令拜角鹿笥飯大神癸酉太子至自角鹿是日皇太后宴太子於大殿皇太后舉觴以壽于太子因以歌曰虛能弥企破和餓弥企那羅儒區之能伽彌等虛豫珥伊麻輸伊破多多湏周玖那彌伽未能等豫保枳保枳茂苫陪之訶武保枳保枳玖流保之摩菟利虛辭弥企層阿佐孺塢齊佐佐武內宿祢爲太子荅歌之曰許能弥企塢伽弥鶏武比等破曾能菟豆弥于輸珥多氐氐于多比菟菟伽弥鶏梅伽墓許能弥企能阿椰珥于多娜濃芝作沙」
【三年の春正月の朔が丙戌の戊子の日に、譽田別の皇子を皇太子に立てた。それで磐余に都を造った。五年の春三月の朔が癸卯の己酉の日に、新羅の王が、汗禮斯伐と毛麻利叱智と富羅母智達を派遣して朝貢した。それで先に人質にした微叱許智伐旱を取り戻そうとした。それで、許智伐旱にあつらえて、「使者の汗禮斯伐と毛麻利叱智達が、私に『我が王は、私がながらく帰らないので、全ての妻子をしもべにした』といった。出来ましたらしばらく本土に帰って、嘘か本当かを知らべさせてほしい」と欺いて願った。皇太后は、それを許した。それで、葛城襲津彦を一緒に派遣した。みな、對馬に着いて、鋤の海の水門に宿をとった。その時、新羅の使者の毛麻利叱智達が、密かに船と水手を配して、微叱旱岐を乗せて、新羅に逃れ、馬草で人形を造って、微叱許智の床に置いて、偽って病人のようにして、襲津彦に「微叱許智が、急病で死にそうだ。」と告げた。襲津彦は、人を派遣して病人を看させた。それで欺かれたことを知って、新羅の使者三人を捕えて、檻の中に閉じ込めて、焚き殺した。それで新羅に行って、蹈鞴の津にとどまって、草羅の城を討伐して帰還した。この時の捕虜達は、今の桑原・佐糜・高宮・忍海、すべてで四つの邑の漢人等の始祖だ。十三年の春二月の朔が丁巳の甲子の日に、武内の宿禰に命じて、太子について角鹿の笥飯の大神を拝み祀らせた。癸酉の日に、太子が、角鹿から帰った。この日に、皇太后は、太子を大殿に招いて饗宴した。皇太后は、盞を手向けて太子を祝った。それで歌って(略)
武内宿禰が、太子の為に答歌して(略)】とあり、五年三月癸卯朔は2月30日、十三年二月丁巳朔も1月30日で前月が小の月なら合致する。
この説話は『三国史記』の實聖尼師今に「元年三月與倭國通好以奈勿王子未斯欣爲質」とある402年の人質の続編で、同じく418年、訥祇麻立干に「二年・・・與堤上奈麻還來秋王弟未斯欣自倭國逃還」の記事と対応し、『三国史記』の朴堤上にも「堤上仕爲歃良州干先是實聖王元年壬寅與倭國講和倭王請以奈勿王之子未斯欣爲質」と同じことを記述し、「訥祗王卽位・・・前日行舟勞困不得夙興及出知未斯欣之逃遂縛堤上行舡追之適煙霧晦冥望不及焉歸堤上於王所則流於木島未幾使人以薪火燒爛支體然後斬之」と仮病を使って逃し、残った者を焼き殺したと記述され対応する。
すなわち、倭王賛の時代の倭国記事で賛の事績を神功皇后の事績に付け替え、この年がある天皇の3年だった、すなわち、この天皇の元年は416年で、416年允恭天皇五年に「葬瑞齒別天皇于耳原陵」と瑞齒別を葬っていて、この天皇が葛城襲津彦だった可能性が高い。
また、この戦いで得た捕虜が漢人と言っているが、応神天皇七年「高麗人百濟人任那人新羅人並來朝時命武内宿禰領諸韓人等作池因以名池號韓人池」、雄略天皇十四年「即安置呉人於桧隈野・・・天皇欲設呉人・・・遂於石上高拔原饗呉人」、欽明天皇元年「高麗百濟新羅任那並遣使獻並修貢職』召集秦人漢人等諸蕃投化者」、敏達天皇十三年「其一漢人夜菩之女豐女名曰禪藏尼」、崇峻天皇三年「新羅媛善妙百濟媛妙光又漢人善聰」と新羅人と漢人と混同させていない。
そして、『宋書』に「自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」と倭が新羅も百済も自分の領地と主張しており、倭の混乱に乗じて、葛城襲津彦が倭地にいる漢人を奪った可能性が高く、倭王を私は「倭漢直祖阿知使主」と述べ、中国の冊封体制に組み入れられているので、倭の漢王と呼んだことから、倭国には漢人が多く存在した可能性が高い。
この太子も神功皇后が畿内を南国と言い、新羅征伐の出発地であった記述を踏襲した記述で、歌は略したが、常世に去った少彦名を祝った豊国の歌で、太子が武内の宿禰なのだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿