この項は新羅征伐で長いので検証を先に記述し、原文と解釈文は後に回した。
この説話で祀る神が大三輪神で奉納する物は刀と矛で、畿内政権の祀りで九州の王なら『三国志』に「兵用矛楯木弓」と記述するように矛で刀は奉納しないと考えられ、そして、物見をさせても、西北に国があると言って、九州なら北のはずで、西北と言えるのは山口県より東である。
ここで、注目するのは、信仰で、私たちが感じる荒々しい大和魂は実のところ荒魂だったということで、和魂を、『日本書紀』で理解していれば悲惨な戦争が回避できたのではと考えてしまう。
そして、神のお告げと言っているが、風や潮の流れなど季節の利を考えて決行の時期を考え、軍事演習を行うという、ち密な計画を立てて進撃し、偶然津波が有ったようで、新羅は戦える状態になかったようで、自然にも助けられて大勝利し、高麗・百済も畿内政権に朝貢したようだ。
『三国史記』の高句麗には太祖大王に「遂成獵於倭山」と記述されるだけ、後に「広開土王」碑に倭が出現し、百済には400年頃の阿莘王の記述から出現し、広開土王と同時期、倭の五王と同時期で、やはりこの説話は倭と異なる日本との戦いで、『後漢書』から三韓が記述されることに合致し、倭と新羅との戦いは、紀元前から500年頃まで継続する。
しかし、漢が考える三韓と日本が考える三韓は違う存在で、漢の領土は『後漢書』光武帝紀に「冬十月丙申太僕張純為大司空高句麗率種人詣樂浪內屬」と考える郡の一部は漢に服さない高句麗で、漢が考える弁辰は新羅にとっては伽耶でありその南に倭と漢が考える拘邪韓國で日本は任那と言っていて、波沙寐錦の時代は西暦80年から111年で地震が83年に有り、83年は景行13年に当っていて、以前は神国と呼ばれ今は日本と呼ばれている。
なお、微叱己知波珍干岐については、波沙寐錦と時代が異なり、後述する。
『日本書紀』の一書に「天日槍娶但馬出嶋人太耳女麻多烏生但馬諸助也諸助生但馬日楢杵日楢杵生清彦清彦生田道間守也」とあり、日槍の4代後が田道間守で垂仁末年なのだから、日槍から1代20年として80年とすると垂仁3年の日槍来日は整合性があり、日槍がこの時の人質の可能性があり、この垂仁3年に挿入した王は実際は西暦84年に該当する可能性がある。
なお、『三国史記』の日干支「赫居世・・・四年夏四月辛丑朔日有食之・・・五十六年春正月辛丑朔日有食之・・・南解次次雄・・・三年・・・冬十月丙辰朔日有食之・・・祇摩尼師今・・・六年秋七月甲戌朔日有食之」
も標準陰暦と合致する。
『日本書紀』慶長版は
「秋九月庚午朔己卯令諸國集舩舶練兵甲時軍卒難集皇后曰必神心焉則立大三輪社以奉刀矛矣軍衆自聚於是使吾瓮海人烏摩呂出於西海令察有國耶還曰國不見也又遣磯鹿海人名草而令視數日還之曰西北有山帶雲横絙蓋有國乎爰卜吉日而臨發有日時皇后親執斧鉞令三軍曰
金鼓無節旌旗錯亂則士卒不整貪財多欲懷私內顧必爲敵所虜其敵少而勿輕敵強而無屈則姧暴勿聽自服勿殺遂戰勝者必有賞背走者自有罪既而神有誨曰和魂服王身而守壽命荒魂爲先鋒而導師舩(和魂此云珥岐弭多摩荒魂此云阿邏瀰多摩)即得神教而拜禮之因以依網吾彥男垂見爲祭神主于時也適當皇后之開胎皇后則取石挿腰而祈之曰事竟還日産於茲土其石今在于伊都縣道邊既而則撝荒魂爲軍先鋒請和魂爲王舩鎮
冬十月己亥朔辛丑從和珥津發之時飛廉起風陽侯舉浪海中大魚悉浮扶舩則大風順吹帆舶隨波不勞㯭楫便到新羅時隨舩潮浪遠逮國中即知天神地祇悉助歟新羅王於是戰戰慄慄厝身無所則集諸人曰新羅之建國以來未嘗聞海水凌國若天運盡之國爲海乎是言未訖間舩師滿海旌旗耀日鼓吹起聲山川悉振新羅王遙望以爲非常之兵將滅己國讋焉失志乃今醒之曰吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇必其國之神兵也豈可舉兵以距乎即素旆而自服素組以面縛封圖籍降於王舩之前因以叩頭之曰從今以後長與乾坤伏爲飼部其不乾舩柂而春秋獻馬梳及馬鞭復不煩海遠以毎年貢男女之調則重誓之曰非東日更出西旦除阿利那禮河返以之逆流及河石昇爲星辰而殊闕春秋之朝忍廢梳鞭之貢天神地祇共討焉時或曰欲誅新羅王於是皇后曰初承神教將授金銀之國又号令三軍曰勿殺自服今既獲財國亦人自降服殺之不祥乃解其縛爲飼部遂入其國中封重寶府庫收圖籍文書即以皇后所杖矛樹於新羅王門爲後葉之印故其矛今猶樹于新羅王之門也爰新羅王波沙寐錦即以微叱己知波珍干岐爲質仍齎金銀彩色及綾羅縑絹載于八十艘舩令從官軍是以新羅王常以八十舩之調貢于日本國其是之縁也於是髙麗百濟二國王聞新羅收圖籍降於日本國密令伺其軍勢則知不可勝自來于營外叩頭而款曰從今以後永稱西蕃不絶朝貢故因以定內官家是所謂之三韓也皇后從新羅還之
」
【秋九月の朔の庚午の己卯の日に、諸國に命じて、船舶を集めて兵を隊伍を組んで行進させようとした。その時、兵士が集まることが出来ず、皇后は「きっと神の考えなのだろう」と言って、それで大三輪の社を立てて、刀や矛を奉納した。軍兵が自然に集まった。そこで、吾瓮の海人烏摩呂を西の海に行かせて、国が有るか調べさせた。還って「国も何も見えない」と報告した。また磯鹿の海人で、草という者を派遣して調べさせた。数日後帰って「西北方向に山がある。雲が横に張った綱のようにかかっている。国が有るのだろう」と言った。そこで吉日を占うと、出発までにまだ日が有った。それで皇后は、みづから斧と鉞を持って、三軍に「鐘・太鼓で指示せず、軍旗が入り乱れると、軍が整わない。財を貪って欲張って、私腹を肥やそうとすれば、きっと敵の捕虜となるだろう。敵が少ないと侮るな、強敵でも屈するな。則ち邪に暴れる者は許すな、自ら服従する者は殺すな。それで戦いに勝ったら褒美が有る。逃げたら罰するぞ」と命じた。すでに神の教えで「争いをなくそうとすれば王の寿命を全うできる。気持ちが荒ければ率先して軍艦を出撃させる」と言い、神の教えを得て、拝んだ。それで依網の吾彦男垂見を神主にして祀った。その時に、たまたま皇后の出産の時期にあたった。皇后は、それで石を取って腰に挟んで、「事がすんで帰ったら、この土地で生まれよ」と祈った。その石は、今、伊覩縣の道の辺に在る。それで荒魂で指図して、軍の先鋒となり、和魂で願って、王船のはやる気持ちを落ち着かせた。冬十月の朔が己亥の辛丑の日に、和珥の津を出発した。時には風を読神は風を起こし、陽の神は浪を高くして、海中の神は全ての大魚を浮かばせて船の進行を扶けた。それで大風が追い風として吹き、帆舟は波に乗り、艪や舵を使わず、新羅についた。船は潮や浪に任せて遠く国中に及んだ。天神地祇がいつでも助けてくれたことを知った。新羅の王は、ふるえおののいて身の置き場が無かった。それで皆が集まって「新羅の国を建国してからこれまで、いまもむかしも海水が国を凌ぐということを聞いたことが無い。たぶん天運が尽きて、国が海となろうとするのか」と言った。この言葉が伝わらないうちに、軍艦が海に満ちて、軍旗が日を反射して輝いた。鼓の音や笛を吹く声が聞こえてきて、山や川にもすべてに響き渡る。新羅の王は、空遠くを望み見て、尋常でない兵で、我が国を滅ぼそうとしていると思い、怯えて失念した。それで正気に戻って「私は聞いていて、東方に神国が有ると。日本という。そこに聖王がいて天皇というと。きっとその国の神国の兵だ。どうして挙兵して防衛できるのだろうか」と言って、それで白旗掲げて王自ら屈服した。後ろ手で首を差し出した。戸籍を絡げて、王船の前に降伏した。それで、土下座して、「今から後、長く天地と共に、飼部となって従い、船の柁が乾くことなく、春秋に馬の毛をすく櫛と鞭を献上します。また海を隔てて遠いのを厭わず、毎年男女の労働者を貢ぎます」と言った。それで重ねて誓って、「東から日が昇らずに西から日が登り、また阿利那禮の河が逆流し、河の石が昇って星となることを除いて、毎年朝廷をしのぶ礼を欠き、怠って梳と鞭を貢ぐことを止めたら、天神地祇全てが一緒になって討ってください」と言った。その時或者が「新羅の王を誅殺しよう」と言った。そこで、皇后は、「最初、神の教えを聞いて、金銀の国を授けようとした。また三軍に号令して言ったのは、『みずから服する者を殺すな』だ。今すでに財の国を獲た。また人は自から降服した。殺すのは不吉だ」と言って、その縛を解いて飼部とした。ついにその国の中に入って、宝の庫を閉じて、書籍や文書を徴収した。皇后が杖のようについた矛を、新羅の王の門にたてて、後代への印とした。それで、その矛は、今も新羅の王の門にたっている。それで新羅の王の波沙寐錦、すなわち微叱己知波珍干岐を人質にして、それで金・銀・財宝、及びあやぎぬ・うすもの・かとりぎぬを持ってきて、八十艘の船に載せて、船隊とともに出港した。それで、新羅の王は、いつも八十艘の船のみつぎを日本国に献上するのは、この縁だ。それで、高麗・百濟、二国の王は、新羅の、戸籍を收めて日本国に降伏したと聞いて、密かにその軍勢を調べさせた。それで勝つことが出来ないと知って、自ら軍営の外にやって来て、土下座して「今から後は、ずっと西の領国と唱えて朝貢を絶やしません」と言った。それで、内の官家の屯倉を定めた。これが所謂、三韓だ。皇后は、新羅から帰った。】とあり、十月己亥朔は9月30日、大小の月の問題で、ほかは標準陰暦と合致する。
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